用
しばらくして、漸は、嘉韻に案内されて蒼の居間へと入ってきた。
蒼は、言った。
「漸。どうしたのだ、何かあったか?」
漸は、答えた。
「蒼。いや、別にいつなり来ればと申しておったから、来ただけよ。学校の方へ行きたいのだが良いか?」
蒼は、頷く。
「良い。まだ何か分からないのか?だったら書でも持ち帰っても良いが。」
漸は、首を振った。
「いいや。書なら貫と伯が写して来たのが山ほどあるゆえ、困っておらぬ。ただ、教える方法など、形を詳しく知ろうと思うてな。教師と話をしたいのだ。松は手が空いておるか?」
蒼は、そういえば漸が戻って松は今何をしているのだろうかと首を傾げた。
「…どうだろうな。松は主担当であったが、今は入れ替わりで偶数序列の50人が来ておるし、もしかしたらどこかの組を担当しておるやも。裕馬に聞いてみるか。」
漸は、頷いた。
「そうしてくれぬか。他の教師では面識がないし、できたら松が良いからの。」
蒼は頷いて、立ち上がった。
「では、裕馬の執務室へ。」と、歩き出した。「だが裕馬の方が教え方なら弁えてるかと思うがな。裕馬は本来、教師達の監督を担当しているので、教え方を作り出したのは裕馬なのだ。」
漸は、首を振った。
「それでなくともあやつには世話を掛けておるし、松の方が我に慣れておるから。」
言われてみたらそうなんだけど。
蒼は思いながら、漸と共に裕馬の執務室へと歩いて行ったのだった。
裕馬は、思った通り執務室で何かの書と向き合っていた。
蒼が入って行くと、目を上げたが漸が居るのを見て、慌てて立ち上がった。
「王、漸様。何か問題でもありましたか。」
蒼は、首を振った。
「いや、漸が宮で教えるのにその形を作りたいみたいで。松は居るか?」
裕馬は、頷いた。
「はい。松は組を担当していないので教科書の写しや、試験の採点など他の教師の補佐を今は頼んでいるのです。ですが、それなら私がお教えした方が良いのでは。」
漸は、答えた。
「主には臣下を任せていろいろ世話を掛けておるだろう。松なら慣れておるから我も話しやすいし、わざわざ主でなくとも良い。」
裕馬は、少しホッとした顔をした。
「そう仰って頂けると助かります。何しろ教師が行き詰まった時などの補佐は、私にしかできないのであまり席を外せなくて。」と、歩いて机の向こうから出て来た。「では、松の執務室にご案内しましょう。こちらです。」
裕馬が先に立って歩き出す。
漸がそれに従い、蒼は黙ってその後について歩いて行ったのだった。
松の執務室は、同じ階の端にあった。
学校でもこの階は、職員室が並ぶ場所で、全員が裕馬の大きな執務室を中心に、両脇に幾つも並ぶ小さめの執務室を与えられてそこで授業の準備などをするのだ。
裕馬は、コンコンと扉をノックした。
「松?裕馬だ。」
中から、松の声がした。
「はい、どうぞ。」
扉を開くと、松が奥の机から立ち上がったところだった。
そして、裕馬の後ろに漸と蒼が入って来るのを見て、慌てて頭を下げた。
「まあ王、漸様。お越しになっているとは存じませず、失礼を。」
蒼は、首を振った。
「良い、漸が来てな。」と、漸を見た。「今度は教え方を教わりたいとかで。」
松は、驚いた。
「まあ。我にお教えできますかしら。まだ、裕馬様に教わって、何とか形になって参ったばかりですのに。」
裕馬は、答えた。
「松は元から博識だし、礼儀は身に付いているから問題ない。私は他の教師の補佐があるから、手が空かなくて。漸様にも松の方が慣れているから良いと仰ってくださるし、できたら松にお願いしたいんだよ。」
松は、戸惑いながらも頷いた。
「はい。我でお役に立ちますのなら。」
「主でなければならぬのよ。」漸は言う。「あの宮でどう教えたら効果的か、共に考えてはくれぬか。」
松は、漸に頭を下げた。
「はい。もったいないお言葉ですわ。精一杯考えさせて頂きます。」
蒼は、心配になったが漸の安全性はこの一月見て来て知っている。
なので、言った。
「すまぬが頼んだぞ、松。犬神の宮の将来がかかっておるゆえ、しっかり考えてやってほしい。」
松は、蒼に頭を下げた。
「はい、王よ。」
そうして、満足げに頷く裕馬と共に、漸をそこに残して松の執務室を出た蒼だったが、廊下を歩きながら、なんとなく心配でチラチラと振り返った。
こちらの神世で、略奪などが横行している現実に慣れてしまって、個室に二人きりで残すことにどうしても抵抗があるのだ。
裕馬が、歩きながらそんな蒼の様子を見て、苦笑した。
「…大丈夫だって。」蒼が裕馬を見ると、裕馬は続けた。「ここで50人以上の犬神達を教えたが、全員ものすごく紳士だった。そう見えた。多分、略奪の世に慣れててそう感じただけかもしれないが、二人きりになっても絶対手を出そうなんてしない。一度略奪騒ぎがあった時も、もしかしたら犬神かと肝を冷やしたが、うちの軍神で、気取った犬神が助けた現場だったしな。相手の腕を一本切り落として、処刑は王のお務めであるからとこちらに引き渡してきて…処刑って何だと思ったけど、聞いてみたらあっちでは合意のない行為は全員死罪とか言うし。だからみんな品行方正なのか!って衝撃で、犬神の宮読本にそれを書き足したのはオレだよ。」
マジか。
蒼は、知らなかったと思った。
思えばここでは合法なので、蒼に報告の義務はない。
腕を切り落としたぐらいなら、治癒の対ですぐ繋がるので蒼の耳には入らなかったのだろう。
「…そうか、裕馬はあれらとオレ以上に身近に接してたもんな。詳しいはずだよ。」と、それでも松の部屋を振り返った。「でも…なんか、漸が松の側によく行きたがるのが気になってて。もしかしたら気に入ってるんじゃないかなって。」
裕馬は、うーんと顔をしかめた。
「だとしても松の合意がなかったら漸様は絶対手を出したりなさらないと思うけどな。何しろあの方は、その法を守る王なんだし。裁く側がそんなことは絶対しない。王は法を犯さないのが基本なんじゃなかったか?」
それはそうだけど。
蒼は、渋々頷いた。
確かにそうだが、会うのが度重なるうちに松がほだされて、嫁ぐとなるとあちらには婚姻制度はない。
松がつらい想いをするのではと、そこが気になって仕方がないのだ。
とはいえ、それも松の選択だ。
蒼は、後ろ髪を引かれながらその場を後にしたのだった。
蒼は気にしていたが、松と漸は真剣に犬神の宮にて、どうやって教育して行けば良いのか二人で考えていた。
こちらが犬神の宮読本をまとめた事を知っていた漸は、こちらから見て何か奇異なのかを俯瞰して見て、そうしてそことこちらを比較して教えて行くのが一番良いのかもしれない、と意見を出すのに、松は頷いて同意した。
二人は、二つの世界の常識を照らし合わせて、ページを二つに割ってこちらではこう、あちらではこう、と、並べてみたら分かりやすいのでは、と、試しに書き記してみたり、真面目に励んでいて、一日中籠っていたが、結構な量の仕事をこなしていたので、一日の終わりに様子を見に行った裕馬も驚いたものだった。
蒼はあんなことを言っていたが、漸はひたすら真面目に松と、犬神用の教科書を作り上げようと励んでいただけだった。
蒼も、もうそろそろ日が暮れるので帰ると言って来た漸に、慌てて出発口へと出て来て、それを知った。
「…そうか、そんなにか。」
蒼が、話を聞いて感心していると、漸は巻物を蒼に見せながら、得意げに言った。
「進んでおるだろう?松は優秀であるから、こちらが言いたいことを汲んで、いろいろ提案してくれるのだ。思いのほか進んだゆえ、また次に来た時に続きを作るつもりよ。本日はもう日が暮れるし、帰るがの。」
蒼は、漸が純粋に宮のために励んでいるのを見て、疑ったりして悪かった、とバツが悪い気持ちになった。
なので、頷いた。
「いつでも来てくれていいから。それから、またタオルが欲しいと伯が着物の反物を送って来たので、厨子に詰めておいた。持って帰ってくれぬか。」
この間の返礼品の中に、タオルも入れていたからだ。
漸は、おお、と明るい顔をした。
「そうか。助かるわ。あれは良いの、風呂に入った時や顔を洗った後に拭き取るのが早いと宮では衝撃であってなあ。皆が皆欲しいと申して大騒ぎよ。あれは革命よな。」
蒼は、苦笑した。
「人世の物だからな。こちらはその機械を持っておるから、タオルを織れるのだ。今では神世の宮は皆便利に使っておるのだぞ。主も、糸を送ってくれたらこっちでそれで織っても良い。そうしたらもう少し、低コストでタオルが手に入るし。ま、それも次に来る時に持って来てくれたらいいけど。」
漸は、頷いた。
「すまぬな、蒼よ。生活が便利になるのは良いことぞ。皆が喜んでおったから我もできるだけ手に入れたいと思うておるし、次は糸を持って参る。」と、浮き上がった。「ではの。本日は一人で来たゆえ、帰るわ。」
蒼は、頷いた。
「気を付けての。」
漸は、懐に巻物を押し込むと、蒼に軽く会釈をして、空高く飛び上がって行った。
何やら楽し気で、恐らく新しい事に気持ちが踊っているのだろうな、と蒼は思って見送ったのだった。




