第十話 宿と宿泊
◇◇◇◇
テーブルや椅子に埋もれて、大男は白目を剥いた。
ただでさえ巨体なジーンの蹴りは、サラと背嚢の重量を合わせて、とんでもない威力になっていた。
握り潰された手からは、血がドクドクと溢れ出ている。
半開きの口からも血が垂れていて、歯がボロボロに欠けていた。
「い、生きてる……」
ハンターの一人が大男をつついた。
だがしかし、怪我の具合から見て、大男の復帰は絶望的である。
「ほ、本物だ」
誰かが言って、斡旋所がシーンと静まり返る。
「ふう……」
一息ついて、ジーンがハンターたちを見渡した。
「何か文句があればどーぞ」
ジーンが言うと、全員がブンブンと首を横に振った。
「さてと――」
カウンターにジーンが向き直った。
「ほれ」
金貨を一枚、ジーンが取り出した。
「迷惑料だ。とっときな」
「へ、へい!」
ジーンの態度に、店主は頭が上がらない。
「ちなみにだな――」
サラを指さして、ジーンが続ける。
「この女は、他の町で拾った。気に入ったから、王都まで連れてく途中なんだ」
「あ、はい。それは結構なことで……」
ジーンの凄味に、店主は首肯するのみである。
「じゃあ、上へ行くわ。ああ、言っとくけど――」
「へい! 誰にも邪魔はさせやせん!」
「おおっ! 分かってるじゃーねか! 何分、外界じゃあ危なくて、女も抱けねーからな。色々溜まってるんだわ」
「は、ははは……。お元気で何より」
ジーンの発言に、店主は乾いた笑いで答えた。
「おう! 覗いたり、煩かったら、みーんなこうなるぜ」
ジーンが顎で示すのは、当然動かない大男である。
「おっと!」
「やべっ!」
「逃げろっ!」
「ちょっ……! 待てよ!」
着替えもそこそこに、ハンターたちが逃げ出した。
街娼たちもそれに続いて、斡旋所は静かになった。
そして、二階に上がったサラとジーンである。
「うん! 中々いい部屋じゃねーの!」
奥にあるドアを開けて、ジーンが言った。
藁のベッドが置かれているだけの部屋は、明らかに売春を目的としたものである。
窓は閉め切られ、燭台が一つ壁に掛かっていて、殺風景極まりない。
もっとも、性臭は無く清潔で、泊まるだけには申し分なかった。
「ご苦労様です」
ジーンの腕から、サラが飛び降りた。
「ふむ……」
部屋を見分して、腕を組むサラ。
「まあ、屋根と壁があるだけマシですか」
「お前ね……」
サラの言い草に、ジーンが呆れた。
「庶民の宿としては、これでも上等な方なんだぜ」
ジーンが言って、部屋の窓を開けた。
夕方の臭いが部屋に入ってくる。
ジーンの言うように、庶民の宿は大部屋の雑魚寝が定番で、個室があてがわれるだけ上出来である。
ちなみに、知ったかのように語るジーンであるが、本人も厳密に言えば庶民ではない。
「とにかく――」
ベッドのシーツを確認して、サラが続けた。
「今は湯浴みがしたいですね。この鬱陶しい化粧を落としたい。ジーン、たらいとお湯を貰ってきてください。あと、ついでに何か食べ物も」
「おいおい」
サラの主張に、辟易するジーン。
「勘弁してくれよ。俺も疲れてるんだ」
鎧を外しながら、ジーンが床に腰を下ろす。
「……そうですか。ならば、仕方がありませんね」
「そうそう」
肩を落とすサラに、相槌を打つジーン。
「ところで――」
ベッドに腰かけて、サラが話題を変えた。
「貴方、とても場慣れしていますね?」
「え……」
サラが細目で睨んで、ジーンの手が止まった。
「まるで常日頃から、娼館に通い詰めていたかのような――」
「お、お湯と飯だったな? 分かった! 貰ってくる!」
サラの台詞を遮って、ジーンが部屋を飛び出した。
◇◇◇◇
「ふう……」
桶の湯で体を拭って、サラが一息ついた。
素っ裸になったサラの横では、ジーンが背中を向けて胡坐をかいている。
着替え始めたサラを余所に、黙々と晩飯を食べるジーン。
その献立は、堅い黒パンと干し肉のスープであった。
「もういいですよ」
「ああ」
サラが言って、ジーンが振り返る。
「って、またそれか」
咀嚼しながら、ジーンが呆れた。
着替え終わったサラは、いつものごとくシャツ一枚である。
当然、下には何も着けていない。
「何ですか?」
眉根を寄せるサラ。
「これが私の寝間着です。随分進歩したでしょう?」
言って、サラがシャツの裾を摘んだ。
以前までのサラは、寝るときは全裸であった。
そこから考えれば、大変な成長と言えた。
もっとも、そのシャツがジーンの物である、という一点を除けばの話である。
「へいへい」
ジーンが肩を竦めた。
「それはそうと、私にも晩飯を寄こしなさい」
サラが自分の盆を持って、ベッドに座った。
「……ふむ。クソ不味いですね」
スープを飲んで、サラがブー垂れる。
「だなー」
ジーンが同意した。
「この干し肉は……おそらく、人界の豚ですね。それも、少し傷んでいる」
スプーンで肉を掬って、サラが苦々しげに言った。
「マリーの店とは、比べ物にならねーよなー」
サラに続いて、ジーンが零した。
「やはり原因は……」
「そういうことだろーなー」
以心伝心の、サラとジーンであった。
斡旋所の副業は、飲み屋か料理屋が定番である。
それに力を入れないのは、娼館と成り果てた証左と言えた。
「私、つくづく思うのです」
スープをかき混ぜながら、サラが語り出す。
「もっと、みんな魔物の有用性に目を向けるべきだと」
「うん? それはもうしてるだろ?」
サラの言い分に、ジーンが首を傾げる。
ジーンが聞いたように、すでに資源として、魔物は利用されていた。
「いえ、そうではなくて、もっとこう直接的な……。例えば、昨日の地虫みたいにですね――」
「ああ! 食べ物ってことか!」
サラの意図を、ジーンが汲み取った。
「はい。その通りで」
「きっとあれだな。みんな見た目で倦厭しちまうんだよなー。まあ、昨日の地虫は美味かったけどよ」
サラに相槌を打って、ジーンが飯を平らげた。
「食生活を変えるのは、中々難しいものです」
言って、サラが食を進めた。
◇◇◇◇
「さてと……」
片付けもそこそこに、ジーンが床に毛布を敷いた。
「何をしているのです?」
スープを飲みながら、サラが聞く。
「何って……、寝る準備だけど?」
ジーンが聞き返す。
「ベッドで寝ればいいでしょう」
「いや、さすがに女を床に寝かせるわけには……」
「二人で寝ればよろしい」
「え?」
サラの誘いに、ジーンが目を点にする。
「おいおい、それって……」
期待に胸を膨らませ、目を泳がせるジーン。
「いつまでも地べたで寝ていると、疲労が蓄積します。せっかくの柔らかい寝床です。出立まで、体力を回復しておいてください」
「ああ、そういう意味ね」
サラが言って、ジーンが肩を落とした。
「うん? あ、なるほど……」
ジーンを訝しんで、自己解決するサラである。
「言っておきますが――」
「はいはい。行為は無しね」
サラを遮って、ジーンが言った。
「分かればよろしい」
「でもよー……」
頷くサラに、ジーンが食い下がる。
「お前、結婚だ何だの言う割に、その態度はどうなのよ? ひょっとして、永遠に子作りは無しだったりするのか?」
「誰もヤラせてあげないとは言っていません」
ジーンの質問に、サラが答えた。
「ちょっ! 言い方言い方!」
「一番の理由は、お互いの身分ですよ」
閉口するジーンを余所に、サラが続ける。
「貴族同士たる者――この場合は、騎士も含みますが――そんなのが婚前交渉で子供が出来たとあっては、内外に示しがつかないでしょう?」
「あっ!」
サラの指摘に、ジーンが顔を上げた。
「そうか……。俺、騎士に戻るのか」
骨の髄から、平民生活が染みついたジーンであった。
「まあ、士籍については、今のところ可能性でしかありませんが……」
サラが言って、スープを飲み干した。
「ちゃんと婚姻して、性病の潜伏期……じゃなくて貞操を見ておかないと、私としては安心できないのもありますね」
「今潜伏期とか言わなかったか?」
「言いましたが、何か文句でも?」
「……返す言葉もありません」
サラが睨んで、ジーンが引き下がる。
「よろしい。では、そろそろ寝ますか」
食器を片付けて、サラが横になる。
「ほら、どうぞ」
「お、お邪魔します」
サラに促され、ジーンがベッドに入った。
「そうそう。ジーン、前から聞きたかったのですが」
横になりながら、サラが聞く。
「んー?」
ウトウトしながら、ジーンが答えた。
「貴方、何故こんなにも、私の言いなりなのですか?」
「……」
「戦いの時も、猟の時もそうです。何だかんだ文句をつけても、最終的には私の要求を飲みますよね」
「……」
「私には、これが恋慕の情とか、寛容さから来るものとは思えないのです……って、ジーン! 聞いているのですか?」
「グウ……」
サラを放って、ジーンが大口を開いていた。
決して寝た振りではなく、熟睡状態のジーンである。
「……仕方がありませんね」
ジーンに続いて、サラも目を閉じた。
ちなみに、これがサラとジーンの初の同衾である。
もちろん、この後二人にロマンスもエロスも無かったのは、言うまでもない。
夜の帳が降りて、珍道中はひとまずの決着を見せた――。




