打ち上げ3
バッカス酒場の喧騒は、夜が更けるほどに熱を帯びていく。
酒、笑い声、皿のぶつかる音、歌声。
あらゆる音が混ざり合い、巨大な渦のように酒場を満たしていた。
ある卓では、また別の種類の賑わいがあった。
ユキヒョウ。ベガ。ワーレン。
マリウス配下のモーガン。
そしてスレイニ族のヤンとルボシュ。
そこへ椅子を引きながら腰を下ろしたのがシマだった。
「どうよ?中々の美声だったろう?」
さっきまで子供たちの席で歌っていたばかりのシマが、どこか得意げに言う。
ベガはエールを一口あおり、鼻で笑った。
「悪くはねえな」
だがその隣で、ヤンは真面目な顔で頷いていた。
「歌詞が……心に刺さりますね」
ヤンは静かに言った。
「ユキヒョウさんから教えてもらったんですけど……その歌、シマさんが書いたそうですね?」
その問いに、シマは一瞬だけ視線を泳がせた。
「……まあな」
(パクったとは言えねぇ……)
ルボシュが腕を組みながら感心したように言った。
「今日の公演……もちろん感動もありましたが、なんというか……音楽そのものが凄く洗練されていました。今まで聞いたことがない感じで」
モーガンも大きく頷く。
「王都にいた時もねえな…しっかし、なんだありゃあ?空中歩いてたろ?あれ、魔法か何かか?」
ワーレンが笑う。
「マジで度肝抜かされたぜ、ありゃあ普通じゃねえ」
シマは苦笑いを浮かべた。
「空中ウォークのことか、魔法なんかじゃねえよ」
肉を一口かじりながら続ける。
「練習すりゃ誰でもできる……まあ頑張り次第だけどな」
ヤンとルボシュは顔を見合わせる。
「本当ですか?」
「そりゃあ、もちろん簡単じゃねえ」
シマは肩をすくめた。
「…リズやサーシャたちなら、ある程度練習すればすぐできるとは思ってた」
そこまで言ってから、少し笑う。
「だがよ、奥方連中まであそこまで完璧にやるとは思ってなかった。正直、俺も驚いたぜ」
そしてワーレンを見た。
「お前の嫁さんにもな」
ワーレンは少し照れくさそうに頭をかいた。
「この一か月チョウコ町にいなかったからな…ソフィアがどんだけ頑張ってたのか見れなかったのは残念だ」
その横でユキヒョウが静かに言う。
「任務だから仕方ないね」
ワーレンは苦笑した。
「まあな」
シマは木杯を卓に置く。表情がわずかに引き締まる。
「……済まないが」
ワーレンを見る。
「次の任務をやってもらう」
その言葉に、卓の空気が変わった。
ユキヒョウも、ベガも、モーガンも、静かにシマを見る。
酒場の喧騒は変わらない。
だがこの卓だけが、一瞬静まり返った。
ワーレンが低い声で言う。
「……なんだ」
シマはわざと間を作り、そして真面目な顔のまま言った。
「チョウコ町に帰ったら――」
一呼吸。
「子作りだ」
一瞬の沈黙。
「アッハッハッハ!!」
ベガが豪快に笑い出した。
モーガンが卓を叩く。
「そりゃあいい!立派な任務だ!」
ユキヒョウまで肩を震わせて笑っている。
ワーレンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「お、お前!!何を言うかと思ったら!!」
「アハハハハ!」
「ははははは!」
卓は完全に爆笑の渦だった。
ユキヒョウが杯を持ち上げる。
「それじゃあ、元気な子が産まれることを祈って乾杯しようじゃないか」
ワーレンが呆れた顔をして言う。
「ユキヒョウ…お前まで」
モーガンが杯を差し出した。
「ほら早く掲げろ」
ベガもニヤニヤしている。
ワーレンは頭を抱えた。
「……クソぅ」
そして半ばやけくそで杯を掲げた。
「乾杯ッ!!」
「乾杯!!」
杯がぶつかる。
酒が揺れる。笑い声が再び広がった。
しばらくして、場の笑いが落ち着く。
シマは少しだけ真面目な顔に戻った。
「会合は明後日、午前九時カシウム城だ」
シマは続ける。
「ヤン、ルボシュ、お前らも参加してくれ、逐一メモを取れ、そしてハンに送れ」
ヤンが力強く頷いた。
「分かりました」
ルボシュも真剣な顔で言う。
「必ず」
シマは満足そうに頷いた。
酒場の喧騒はまだまだ続く。
バッカス酒場の中でも、ひときわ華やかな笑い声が響いている一角。
そこに集まっているのは、エリジェを中心とした女性陣の卓である。
シャイン傭兵団の女性団員たち、侍女たち、既婚女性たち、そしてエリカ。
酒場の他の卓が荒々しい笑い声や酒の勢いで賑わっているのに対し、この卓の賑わいはどこか質が違う。
笑い声は明るく、話題は次から次へと変わり、まるで貴族のサロンがそのまま酒場に現れたかのようだった。
そこへ、ジュースを片手にシマがふらりと立ち寄った。
「楽しんでるようだな」
声をかけると、すぐにエイラが笑顔で振り向いた。
「ええ!エリジェ様の話がとっても面白いのよ!」
周囲の女性たちも一斉に頷く。
「本当よ」
「普段じゃ絶対聞けない話ばっかり!」
話の中心にいるエリジェは、優雅にワインを口に運びながら微笑んでいた。
彼女が語っているのは、貴族社会の裏側だった。
貴族の奥方同士の腹の探り合い。笑顔の裏に隠された駆け引き。
家同士の関係。微妙な立場の差。社交界での暗黙のルール。
どれも普通なら決して外に出ない話ばかりだ。
だがエリジェはそれを、面白おかしく語っている。
話題はすぐ次に移る。
服装。宝石。アクセサリー。小物。
そして、どうすればより美しく魅せられるのか。
サーシャが楽しそうに言った。
「色々聞けて楽しいわ!」
シマは腕を組みながら感心したように言った。
「さすが侯爵夫人だな、話術もその一つってわけか」
エリジェがくすっと笑う。
「シマにそう言ってもらえて光栄だわ」
茶目っ気たっぷりの声だった。
その様子に女性陣がくすくす笑う。
シマは苦笑した。
「ハハ……余計なことは教えないでくれよ」
その言葉にエリジェが首を傾げる。
「余計なことって何かしら?」
シマは少し迷った。
だが、まあ大丈夫だろうと思って口にした。
「……男を落とすテクニックとか」
その瞬間——卓の空気が止まった。
「え?」「へ?」「……」
女性たちの顔が一斉に固まる。
「……何で知ってるの?」
「盗み聞きしてた?」
ざわざわと騒ぎ始めた。
シマは目を丸くする。
「まさかの図星かよッ!」
思わず叫ぶ。
エリジェは平然としていた。
「女にとっては大切なことなのよ」
まるで当然のことのように言う。
シマは頭を抱えエリカを見る。
「お前の母ちゃん……とんでもねえな」
エリカは肩をすくめた。
「あら、そうかしら?」
そして微笑む。
「意中の男性を射止めるには大事なことよ」
その言葉に女性陣が一斉に頷いた。
「そうそう」「大事よね」「基本よ基本」
シマは愕然とした。
「……まさか」
既婚女性たちを見る。
「アンジュさんたちも……?」
アンジュは優しく微笑んだ。
「もちろん教えてあげてるわ」
ナミも頷く。
「それが既婚女性の務めよ」
シャロンが笑う。
「団にはまだまだ未婚の男たちがいっぱいいるからね」
エリジェは、さらにとんでもないことを言った。
「シャイン傭兵団の男性たちなら認めるわ」
侍女たちが静かに耳を傾ける。
「あなたたちの家にも認めさせるように私が言います」
そして、にやりと笑った。
「今のうちに目星をつけておきなさい」
そう言って、ある方向に視線を飛ばす。
「あの二人のように」
シマもつられて見る。
そこには別の卓があった。
ダルソンとコリンナ。マークとアンネ。
四人で楽しそうに酒を飲みながら話している。
笑顔で、自然に、距離も近い。
エリジェが言った。
「見習いなさい」
その一言で侍女たちの背筋が伸びた。
「はい!」
気合の入った返事だった。
シマは思わず額を押さえた。
だが女性陣はすでに次の話に移っていた。
エリジェがワインを口にする。
「さあ」
優雅に言った。
「話の続きよ」
女性たちが一斉に身を乗り出す。
そして――そこに、シマの居場所はなかった。
「……」
ぽつん。
完全に取り残されたシマは、しばらく立っていたが。
やがて肩をすくめた。
「……ブランゲルたちの所へ行くか」
そう呟き、静かにその場を離れた。
バッカス酒場の中でも、ひときわ騒がしい一角。
そこはブランゲル侯爵を中心とした卓だった。
木杯が何度も打ち鳴らされ、笑い声が絶えず響き
料理の皿は次々と空になっては積み重ねられていく。
焼き肉の香ばしい匂い、煮込み料理の湯気、エールの泡の香り。
何人もの給仕係が大皿と木杯を抱え、せわしなく卓の周りを行き来していた。
まさに宴。
それも、ただの宴ではない。
「おう!もう一杯頼む!」
「肉も追加で!」
「皿が足りんぞ!」
貴族、傭兵、商人、劇場関係者が入り混じり、肩書きなど関係なく大騒ぎしている。
その騒ぎの中心には――ブランゲル侯爵がいた。
豪快に笑いながらエールを飲み干し、木杯を卓に叩きつける。
「わっはっはっは!良いぞ!もう一杯だ!」
その豪胆な笑いに、周囲の者たちもつられて声を上げる。
そんな騒ぎの中へ、シマがふらりと姿を現した。
「……こりゃあ、またえらい賑わいだな」
呆れたように呟く。
その声に、いち早く気付いたのはフレッドだった。
「おっ、シマ!ようやく来やがったか!」
ザックも振り向く。
「遅えぞ!シマ!」
ニヤリと笑う。
「駆けつけ三杯だ!が、飲めねえお前は一杯で許してやる」
木杯を掲げて叫んだ。
シマは眉をひそめた。
「どこでそんな言葉覚えたんだよ……」
それから呆れた顔で続ける。
「それに何でお前の許しを得なきゃならねえんだ」
ザックが肩をすくめる。
「おやおやぁ〜?」
わざとらしい声を出す。
「シャイン傭兵団の団長ともあろうもんが」
ニヤニヤ笑いながら言った。
「まさかビビってるわけじゃねえだろうな?」
フレッドがすぐに乗る。
「そんなわけねえよなあ〜?」
完全に挑発だった。
ジトーが呆れた顔で割って入る。
「おいおい、挑発するな」
シマを指差す。
「こいつがコップ一杯エール飲んだだけでぶっ倒れるのは知ってるだろ」
ヤコブがゆったりと杯を傾けながら言う。
「酒は楽しく飲むものじゃ、無理をして飲むものではない」
だがその時――シマがぽつりと言った。
「……いや」
周囲が少し静かになる。
シマは腕を組みながら言った。
「飲む」
皆の視線が一斉に集まる。
「今日は何かいけそうな気がするんだよなあ」
その瞬間、卓がざわついた。
「正気かシマ?!」
デシンスが思わず叫ぶ。
マリウスも眉をひそめる。
「シマ、無理はしない方がいい」
ザックが慌てて言う。
「そ、そうだぜ……挑発した俺が言うのもなんだが」
シマは肩を回した。
「もしかしたら克服してるかもしれねえ」
そして手を差し出す。
「ホレ寄越せよ」
フレッドが戸惑う。
「お、おう……」
そして木杯を手渡した。
なみなみとエールが注がれている。
その瞬間――卓の空気が変わった。
先ほどまでの喧騒が、嘘のように消える。
誰もが息を呑んで見守る。
ブランゲルですら腕を組み、興味深そうに見ている。
シマが木杯を持ち上げる。
喉が動く。ゴキュ……。
次の瞬間。
「うげぇ!」
顔をしかめた。
「不ッ味ッ!!」
そして――ドボドボドボッ!!
エールをその場にぶちまけた。
「「あ〜〜ッ!!」」
ザックとフレッドが同時に絶叫する。
「もったいねえ!」
「なんてことしてんだよ!」
周囲も一斉に騒ぎ出す。
「おいおい!」
「エール捨てやがった!」
シマはようやく我に返る。
「あ、いけね……」
一瞬――静寂。
次の瞬間、大爆笑が巻き起こった。
「ぶははははは!」
ブランゲルが腹を抱えて笑う。
「はっはっはっは!!」
椅子が軋むほど体を揺らしている。
マリウスは卓をバンバン叩いていた。
「くっ……!あはははは!やっぱり君は!期待を裏切らない!あははは!」
デシャン男爵は涙を浮かべながら笑っている。
「こ、こいつら……!やっぱり面白すぎるッ!!」
隣にいる側近のカールスルーエとヘッセンも腹を抱えている。
サロモンは手を叩いて笑った。
「いやあ!愉快愉快!」
劇場支配人ボニファーツも目に涙を浮かべている。
「こんな宴は初めてだ……!」
劇場関係者たちも笑い転げていた。
そして――ネリ。
普段冷静沈着なデキる男は。
下を向いたまま肩を震わせていた。完全に笑いをこらえている。
シマは溜息をつき、布を持ってきて床を拭き始める。
ザックが怒鳴る。
「お前には一生飲ませねえ!」
フレッドはエールを飲み干しながら言った。
「ゴキュ……ゴキュゴキュゴキュ……プハァ!お前は一生ジュースでも飲んでろ!」
キリングスが呆れ顔で言う。
「飲まそうとした奴らのセリフとは思えんな」
マックスも頷く。
「まったくだ」
再び笑いが広がる。
宴はさらに盛り上がり――木杯が再び何度も打ち鳴らされる。
バッカス酒場の夜は、まだまだ終わりそうになかった。




