まだ終わらない?!
アイキドーの話題はいったん区切りがついた。
あとはエリカの了承と、侍女たち自身の返答次第だろう。
少なくともエリカの性格を考えれば、無理に誰かを行かせたり、やらせたりすることはない。
学ぶにしても、選ぶにしても、彼女は必ず相手の意思を尊重する――その点は、この場にいる誰もが疑っていなかった。
自然と場の空気は和らぎ、果実酒やワインを口に運びながら、たわいもない雑談へと流れていく。
窓の外では夜の城塞都市が静かに息づき、遠くの明かりが瞬いている。
このまま穏やかな時間が続くかに思われた、そのときだった。
「……王都のことは、もう聞いているだろう?」
不意に、ユキヒョウが声を落として切り出した。
場の空気が、わずかに変わる。
「ザックとフレッドから、あらましはな」
シマがジュースのグラスを置きながら答える。
「私も、ブランゲル様と父上から大体のことは聞いています」
マリウスも静かに頷いた。
政変。内乱。王都を揺るがせた混乱は、表向きには収束したかのように見えている。
だが、ユキヒョウの表情は晴れない。
「終わった……ように見えるだけなんじゃないかってね」
そう言って、彼はワイングラスを回した。
「表の騒ぎは収まった。内乱も避けられた。でも……水面下では、まだ何かが蠢いている気がするんだ。僕の杞憂であればいいんだけど」
「父上も、同じことを言っていたね」
ジェイソンが低く息を吐く。
「まだ終わったわけじゃない、と。それが何を指しているのか……正直、私には計り知れないが」
その言葉に、ユキヒョウは小さく頷いた。
「長いこと傭兵をやっているとね……まあ、そうは言っても十年も満たないんだけど」
自嘲気味に笑いながらも、その目は真剣だ。
「違う国や土地を回るだろう?するとさ、その人が“現地人”かどうか、何となく分かるようになるんだ」
ロイドが眉をひそめる。
「雰囲気、でしょうか?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
ユキヒョウは言葉を選ぶように続けた。
「歩き方、視線の置き方、他人との距離の取り方、言葉の僅かなイントネーション……細かいところに、微妙な違いが出る。王都民の中にね、他国の人間がかなりの数、混じっていると感じたよ」
その場の空気が、さらに一段沈む。
「……つまり、間諜だと?」
マリウスが即座に問い返す。
「いや、違う」
ユキヒョウは首を振った。
「少なくとも、そういう“仕事”をしている人間じゃない。ただの一般人だよ」
「一般人……?」
ジェイソンが確認するように言う。
「さっきも言ったけど、違和感なんだ。敵意でも、警戒でもない。ただ、そこに“外から来た”気配がある」
「だが」
ジェイソンは慎重に言葉を重ねる。
「仮に他国の人間であろうと、一般人であれば問題はないだろう? 交易や移住は珍しいことではない」
「そうですね」
ユキヒョウもそれには同意した。
「だからこそ、余計に厄介なんだよ」
その瞬間、シマの中で、何かが静かに繋がった。
――前世の記憶。
意図せず、ふと蘇る。
血縁や地縁を軸に形成されるコミュニティ。互いに助け合い、守り合いながら異国で生き抜く人々。
やがてそれは組織となり、「幇」と呼ばれるようになった。
表向きは商人、職人、一般市民。
しかし、その結束は強く、経済的な影響力は計り知れない。
――華僑。
国家を越え、時間を越えて根を張る存在。
(……そういうことか)
シマは無意識のうちに、指先を組んだ。
カルバド帝国は、何年も、何十年も前から、アンヘル王国に人を送り込んでいた。
ただの兵ではない。ただの間諜でもない。生活者として、民として溶け込む者たち。
――「草」。
刈っても刈っても生え、気づけば地面一面に広がっている存在。
平時には何もしない。だが、いざという時、情報となり、金となり、流れを変える。
「……ユキヒョウ」
シマが、低い声で口を開く。
「お前の違和感、たぶん間違ってねえ」
一同の視線が集まる。
「それは間諜じゃない。もっと厄介なもんだ」
シマは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「根を張る連中だ。生活の中に入り込み、時間をかけて増えていく。今は無害に見えても……状況次第で、国を揺らす力になる」
マリウスが息を呑む。
「……そんなことが、本当に……」
「あるさ」
シマは短く答えた。
「俺は、それを知ってる」
理由までは語らない。語れない。だが、その断言には、重みがあった。
ジェイソンは黙り込み、夜景の向こうを見つめる。
「表の争いが終わっても……」
静かに呟く。
「国というものは、常に試され続ける、か」
誰も否定しなかった。
城塞都市の灯りは、何事もないかのように輝いている。
その下で、人々は眠り、飲み、笑っている。
だが、王都の水面下では――確かに、何かが静かに、確実に、広がりつつあった。
「……ユキヒョウさんだからこそ、気が付いた違和感ですね」
最初に口を開いたのはロイドだった。
「これが経験の差、なんだろうね」
オスカーも小さく頷く。
剣や体術の技量だけではない、数多の土地を渡り歩いた者だけが得る“肌感覚”。
それが、王都という巨大な人の坩堝の中で、わずかな歪みとして浮かび上がったのだ。
マリウスは腕を組み、深く眉を寄せたままシマを見る。
「……シマ、阻止する手立ては?」
率直な問いだった。
貴族として、軍人として、脅威の芽を見過ごすわけにはいかない。
だが同時に、その問いがどれほど難題であるかも理解している。
シマは短く息を吐いた。
「無い」
即答だった。
「普通に生活して、税を納めて、犯罪を犯したわけでも法を破ったわけでもねえ連中を、しょっ引くわけにはいかねえだろ?」
その声には苛立ちよりも、どうしようもなさが滲んでいた。
マリウスは唇を噛む。
「……それは、そうなんだけど。このまま指をくわえて黙ってる、っていうのも……」
「分かってる」
シマは遮るように言い、椅子に深く背を預けた。
「ふぅ……。たった一つだけ、阻止する方法はあるにはある」
全員の視線が集まる。
「根元を絶つことだ。――つまり、カルバド帝国そのものを倒す」
一瞬、空気が凍りついた。
「だがな」
シマは続ける。
「今、王都にいる“違和感のある連中”は、たとえ元カルバド帝国の人間だったとしても、今はアンヘル王国民だ。法の上では、守られる側にいる」
「……守られる側、か」
ロイドが苦く笑う。
「そうだ。厄介だろ?」
シマは視線を伏せ、低く言った。
「身体はアンヘルにあっても、心は……忠誠心は、今もカルバドにある」
ジェイソンは慎重に言葉を選びながら問いかける。
「でも……彼らが本当に元カルバド帝国の人間だと決まったわけじゃない。違和感だけで断じるのは危険じゃないかい?」
「いえ」
答えたのはオスカーだった。
「一連の件を振り返ると……あまりにも、事がスムーズに運びすぎています」
ユキヒョウも頷く。
「元王家監察官長官が、カルバド帝国の手先だった。そこまで浸透していたと考えると……ね」
ジェイソンは静かに頷いた。
「……この話は、父上に伝える。構わないだろう?」
「私もだ」
マリウスも続く。
シマは少し考え、頷いた。
「ああ。ブランゲルとデシャンにならいい。ただし――他言無用で頼む。今は、リズたちを公演に向けて集中させたい。余計な不安を背負わせる時期じゃねえ」
誰も異を唱えなかった。
テーブルの上には再び静寂が落ちる。
だがそれは、先ほどまでの軽やかなものとは違う。
見えない“草”が、王都の地下で静かに根を張っている――
その事実を、ここにいる全員が否応なく理解した。
カスウム城、ジェイソンの私室に静かな余韻が漂っていたところへ、コンコン、と控えめなノック音が響いた。
ジェイソンが目線で合図すると、使用人が一歩前に出て扉を開く。
「失礼いたします。サーシャ様たちがお帰りになられます」
その報告に、部屋の空気がふっと現実へ引き戻される。
「……お開きだな。なんとも最後はしまらねえが」
シマが肩をすくめて言うと、ジェイソンは苦笑しながら首を振った。
「そうでもないさ。とても有意義な時間だったよ」
「それに、いつでも話せるしね」
マリウスの言葉に、シマは短く笑う。
「ああ。サーシャたちを宿に送り届けたら、また戻ってくるしな」
そのやり取りを聞いて、ユキヒョウが少し意外そうに眉を上げた。
「シマたちは、ここに泊まるのかい?」
「ブランゲル様のご好意に甘えさせてもらうことにしました」
ロイドが答えると、オスカーも頷く。
「宿もどこも満室みたいだしね」
「確かに……」
ユキヒョウは納得した様子で頷き、それからふと思い出したように尋ねる。
「それで、明日はどうするんだい?」
その問いに、シマはオスカーの肩に手を置いた。
「オスカーは両親に会わせる。……いいな?」
あまりにも自然な口調だったが、オスカーは一拍も置かずに
「うん、了解だよ」と、あっけらかんと答えた。
「お前な……九年ぶりに会うってのに」
思わず突っ込むシマに対し、ジェイソンとマリウスが同時に目を見開く。
「九年ぶり!?……ああ、そうか。深淵の森で生活してたんだったね」
ジェイソンが納得すると、オスカーは少しだけ視線を落とし、淡々と言った。
「ええ……正直、両親のことはあまり覚えてないし」
その言葉に、場の空気が一瞬だけ静まる。
だがシマはそれ以上踏み込まず、話題を切り替えた。
「……ユキヒョウ。暇なら写本作りに付き合えよ。っと、その前にブランゲルから許可をもらわねえとな」
するとジェイソンが即座に言う。
「君たちなら、好きに見て使っていいさ。私が許可する。秘蔵の蔵書は別の場所に保管してあるからね」
思わぬ大盤振る舞いに、マリウスが目を輝かせる。
「シマ、チョウコ町に持っていくのかい?」
「ああ。子供たちのためにもな」
その短い言葉には、迷いも飾りもなかった。
戦場を渡り歩いてきた傭兵団長ではなく、次の世代に“知”を残そうとする大人の顔だった。
夜はまだ深い。
だがそれぞれの明日へ向けて、静かに歯車が動き始めていた。
今話は短かめでした。




