予定?!
カシウム城の別室は、サロンとはまた違う静けさに包まれていた。
高い天井、淡い色合いの壁、窓から差し込む柔らかな光。
置かれている調度品一つ一つが上質で、粗野な気配は微塵もない。
カウラス一家にとっては、足を踏み入れてよい場所なのかどうかさえ分からない空間だった。
整えられた食卓には、すでに料理が並べられている。
艶やかなソースをまとったワイン煮込みハンバーグを中心に、焼きたてのパン、色とりどりの野菜、湯気の立つスープ、そして瑞々しい果物。香りだけで腹を刺激する、まぎれもない「城の食事」だった。
「お飲み物は、エールと果実酒でよろしいでしょうか?」
メイドは穏やかな声でそう尋ねた。
あえて“ワイン”という言葉を出さなかったのは、彼女なりの気遣いだった。
「ぼく、ジュース!」
真っ先に声を上げたのはエバンスだ。
「わたしも!」
「ぼくもー!」
アニー、ウエンス、ミライも次々に手を挙げる。
「あ、あ……いや……は、はい……」
戸惑いながらも頷くカウラス。
その横で、大人たちは互いに顔を見合わせるだけで、誰もはっきりとした言葉を発せない。
「かしこまりました。では、エールと果実酒をご用意いたします。何かございましたら、お手元の鈴を鳴らしていただければ、すぐにお伺いいたします」
そう言って一礼すると、メイドと使用人たちは静かに部屋を退出した。
彼らがいれば緊張して食事どころではないだろう――それを察しての配慮だった。
扉が閉まる。
しばしの沈黙。
「……いいにおい!」
最初に口を開いたのはミライだった。
椅子の上で小さく身を乗り出し、皿を覗き込んでいる。
「ほんと、美味しそう!」
アニーの目もきらきらと輝いている。
「お父さん、食べてもいい?」
ウエンスがガンザスを見上げて尋ねる。
「あ、ああ……そうだな。食べようか」
ガンザスの声はまだ少し硬い。
「ええ、いただきましょう」
アンがそう言って、ようやくナイフとフォークを手に取る。
一口、二口。
ハンバーグを噛みしめるごとに、肉の旨味と濃厚なソースが口いっぱいに広がる。
パンでソースを拭えば、それだけで立派な一品だ。
子どもたちは遠慮というものを知らず、素直に喜びを表現する。
「おいしい!」「やわらかい!」「これ、すごいね!」
その無邪気な声に引っ張られるように、大人たちの肩からも少しずつ力が抜けていった。
腹が満たされるにつれ、張り詰めていた神経もようやく緩んでいく。
果実酒を一口含み、イライザがため息混じりに言った。
「……それにしても。せめてトーマスは、ここにいるべきでしょう?」
アンが眉をひそめる。
「本当よ。私たちが、どれほど不安だったか分かっているのかしら」
「……ノエルさんがいたら、心強いのにねえ」
マーサがぽつりと呟く。
「ノエルお姉ちゃん?!」
それを聞き逃さず、アニーが声を上げた。
「どこにいるの?!」
「いるの~」
ミライがオウム返しのように続ける。
「……確か、城塞都市で合流するって言ってたよな?」
ダンドスが記憶を辿るように言う。
「ああ、確かにそんなことを言ってたな」
ガンザスも頷いた。
その様子を見ながら、カウラスは果実酒をあおり、力なく呟いた。
「……俺は、もう無理だ。心が持たんぞ」
その言葉に、大人たちは誰も否定しなかった。
ただ、こくこくと首を縦に振る。
農民として、平凡に生きてきた彼らにとって、城の一室で豪奢な料理を前にするこの状況は、あまりにも場違いで、あまりにも過酷だった。
子どもたちが無邪気に笑い、食事を楽しむ姿だけが、唯一の救いだった。
サロンに、食後の穏やかな空気が満ちていた。
料理を平らげた後の余韻に、誰もが背もたれに身を預け、杯を置き、言葉数も自然と少なくなる――はずだった。
その空気を、甘やかな香りがそっと塗り替える。
使用人が静かに差し出した銀盆の上には、艶やかなプリンが並んでいる。
なめらかな表面に、琥珀色のカラメルが光を受けて揺れていた。
そして、エリジェの前に置かれた皿には――三つ。
「うふふ」
自然とこぼれる微笑み。
年相応の気品をまといながら、その表情は少女のように無邪気だった。
「シマ、このカラメルのことも教えてくれてありがとうね。前よりもずっと深みが出て、一段と美味しくなったわ」
「そりゃよかった」
シマは気負いなく肩をすくめる。
「……私も昨日の夕餉にいただいたよ」
少し拗ねたように、マリウスが口をとがらせた。
「これほどのデザートがあるなら、私にも教えてくれてもよかったんじゃないかい?」
「リーガム街にいる時は、まだ思いつかなかったんだよ」
「こいつは突然、思い出すからな」
フレッドが笑いながら口を挟む。
「それもまた、シマらしいけどな」
トーマスが頷くと、場に柔らかな笑いが広がった。
「ところで、マリウス様たちはいつこちらに?」
ロイドの問いに、マリウスはプリンを眺めながら答える。
「昨日の夕方だよ。私たちと、ワーレン隊、それからベルンハルトたちと交易隊も一緒に」
「……あいつら、無事だったか」
ジトーが小さく息を吐く。
「ワーレンたちは、何やら任務があると言っていたね。詳しい内容は聞いていないけれど……話してくれるんだろう?」
マリウスの視線がシマに向く。
「ああ。でも今じゃない。みんな揃ってからだ」
短く、しかし確かな口調だった。
「公演が終わった後に会合を設けよう。それでいいかい?」
ジェイソンの提案に
「助かる。そうしてくれ」
シマは即答した。
そのやり取りを、じっと見ていたブランゲルが、ふと低い声で問う。
「……シマよ。我ら、もはや一心同体とみなしてよいか?」
サロンの空気が、一瞬だけ張り詰める。
だが、シマは迷わなかった。
「ああ」
ただ一言、深く頷く。
その瞬間、重く漂っていた責任や緊張が、すっと溶けていくのが分かった。
言葉以上に、その頷きがすべてを物語っていた。
「さあ、食べるわよ!」
空気を切り替えるように、エリジェが明るく声を上げる。
「エリカが帰ってくる前に!」
「エリカ嬢は、プリンには目がありませんからのう」
ヤコブがしみじみと頷く。
「あいつ、プリンには異常に固執するよな?」
ザックの言葉に
「ミーナもそうだなぁ、エイラやサーシャ……女性陣はみんなそうだな」
ジトーも苦笑する。
「女性にとって、デザートは“別腹”なのよ」
エリジェは楽しげに笑った。
その背後で控えていたメイドたちも、そして元王家特別監察官キャシーでさえ、思わず「うんうん」と頷いている。
スプーンが入れられ、プリンが揺れる。
甘さとほろ苦さが重なり合い、サロンには再び穏やかな時間が流れ始めた。
――エリカが戻る前に、少しでも多く。
そんな無言の共通認識が、そこにいる全員の胸の内で、静かに一致していた。
サロンは、昼食とデザートを終えたあとの心地よい余韻に包まれていた。
重たい話題はすでに去り、ワインの香りと軽い笑い声が、天井の高い空間にゆるやかに漂っている。
その中で、ザックがふとグラスを傾けながら口を開いた。
「なあ、デシャン。そういや、あいつらはどうしたんだ?」
その問いが指しているのは。
カールスルーエ・ヘッセンとヘルモート・ビルング。
デシャン・ド・ホルダー男爵の側近であり、従者であり、そして何より――戦友。
ザックとフレッドは、王都からの帰路で彼らと何度も杯を交わしている。
「ああ、あいつらか」
デシャンは肩をすくめ、苦笑混じりに答える。
「城の中は肩がこると言ってな。宿に泊まっているぞ。もちろん、ブランゲル様の許可は得ている」
「うむ」
ブランゲルが短く頷く。
その一言だけで、全てが許可されていることが分かるのが、この男の重みだった。
デシャンはそのまま、指でサロンの一角を示した。
「ちなみに、そこにいるハインツは、カールの倅だ」
「……似てねえな」
フレッドがじっとハインツを見て、率直に言う。
「俺でも気づかなかったぞ」
「母親似だからね」
マリウスが淡々と補足する。
そのやり取りに、ブランゲルが思い出したように笑い出した。
「そういえば、あったな……ククッ……」
「何がですかな?」
デシャンが首をかしげる。
「戦功を挙げたカールとヘルモート、それにヨッフム――あいつらに、俺が騎士爵を授けた時だ」
「……」
「あいつら、そろって嫌そうな顔をしおったなぁ」
「そういうこともありましたな」
デシャンも思い出したように目を細める。
「お前もだぞ、デシャン。陛下から男爵位を賜った時、ちっとも嬉しそうじゃなかったな?」
「ハハハ……そうでしたか?」
とぼけたように笑うデシャンに、ブランゲルは豪快に笑い返した。
「お前も、カールも、ヘルモートも、ヨッフムも武一辺倒の男たちだと分かっていたからな。領地経営で苦労するのは目に見えていた」
一瞬、視線を遠くに向けてから、続ける。
「……だが、やりがいはあっただろう?」
「……ええ」
デシャンは素直に頷いた。
「ブランゲル様が何かと手を貸し、援助してくださらなければ、正直、投げ出していたかもしれません」
「ワハハハ!」
ブランゲルの笑い声が、サロンに響き渡る。
その流れを、完全に“いつものノリ”に引き戻したのがフレッドだった。
「なあなあ、今夜飲みに行かね?」
即座に続ける。
「カールとヘルモートも誘ってさ」
「いいな!」
ブランゲルが目を輝かせる。
「エリクソンも誘うか?」
「誘え誘え!」
ザックが即答する。
「ワシも同行してよろしいですかのう?」
ヤコブが控えめに手を挙げると、
「おお!爺さんも一緒に行こうぜ!」
ザックが嬉しそうに声を張り上げた。
話は雪だるま式に広がっていく。
「ジトーも行くだろ?」「トーマスもだな」
「クリフも誘おうぜ!」トーマスが言えば
「おう、いいな」
ジトーも乗る。
「ハインツだったか?」
フレッドが声をかける。
「お前も行くだろ?」
ハインツは一瞬、戸惑ったようにマリウスを見る。
その視線を受け止め、マリウスは小さく微笑んだ。
「行ってくるといい。ビリャフと……モーガンにも声をかけてね」
「……はい」
ハインツの表情が、わずかにほころぶ。
一方で、全員が同じ流れに乗るわけではなかった。
「俺たちは、城で静かに飲もうか」
シマが言うと、ロイド、オスカーが頷く。
「ジェイソンも、マリウスも、だな」
「そうしよう」
ジェイソンとマリウスも同意する。
――シマは酒を飲めないが、それでもその場にいることに意味があった。
その様子を見ながら、エリジェが夫の袖をそっと引いた。
「あなた……ほどほどにね?」
「……努力はしよう」
ブランゲルは苦笑しつつ答える。
こうして、夜の予定は自然と二手に分かれた。
賑やかに街へ繰り出す者たちと、城の中で静かに杯を重ねる者たち。
だが、どちらにしても――
この日、この場所に集った者たちの間には、確かな信頼と、長い時間を共にした者だけが持つ温度が、静かに、そして確かに流れていた。
サロンに、ほどよい余韻と談笑が満ちていたその時だった。
「――エリカお嬢様のお帰りです」
使用人の一人が、やや声を張って報告する。
「それと……シャイン傭兵団の女性の方々も、ご一緒に来られています」
一瞬、空気が変わった。
ブランゲルがゆっくりと顔を上げ、エリジェは嬉しそうに微笑む。
ジェイソンは「来たか」と小さく呟き、マリウスは無意識に背筋を正した。
「シマ様、こちらを」
ネリが静かに歩み寄り、一枚の用紙を差し出す。
「……これは?」
「宿の配置と、現在城塞都市に滞在している方々の一覧です」
シマは受け取り、目を通す。
まず最初に書かれていたのは――アパパ宿。
そこには、女性陣の名が並んでいる。
サーシャ。エイラ。ミーナ。メグ。リズ。ノエル。マリア。
シャロン。ティア。メリンダ。コーチン。ソフィア。クララ。ヒルダ。
だが、それだけでは終わらない同じアパパ宿には――ギャラガ率いる『灰の爪』隊。
ギャラガの家族。マリア隊。ライアン隊。
グーリスの妻ナミと、その息子クライシス。
クリフたちが連れてきた、リズの家族。
そして――「……ルドヴィカ?」
エイト商会の名が、さらりと混じっていた。
「何であいつがいるんだ……?」
フレッドが覗き込み、首をひねる。
ザックは面白そうに笑うが、シマは黙って続きを読んでいた。
次の項目。アパパ宿・系列店「アパーパ宿」。
ここには、ルーカス隊。マックス隊。デリー隊。ジョワイユーズ隊。
加えて、ルーカスの妻・ビルギット。マックスの妻・マヌエラ。
さらに――根城宿。
キーファー隊。ドナルド隊。マーク隊。
ザムエルの宿。
デシンス隊。ダルソン隊。キリングス隊。リットウ隊。
ネリが答える。
「宿賃は先払いされています。ですので、城塞都市に戻ってきても、すぐに宿泊可能に手配していたようです」
さらに追記がある。
キリングスの妻・アマーリエ。その息子たち、フォルカーとシュテファン――幼い兄弟。
次——泉の宿。
ワーレン隊。ベガ隊(※ベガ本人は除く)。
「ようやく探し当てて、割高の宿泊費を払うことで宿泊可能となったと聞きました」
ネリの説明に、マリウスが静かに頷く。
「この混雑で、よく確保できたものだ」
ジトーが言う。
用紙の最後に、ひときわ長い一文がある。
――王都から連れてきた者たち。スラムの住人。孤児。
合わせて二百五十人を超える大所帯。
そのために――ネリが手を回し
「城塞都市に建ち並ぶ宿の一角を、ブランゲル侯爵家の名で一月分、借り上げました」
リストにはさらに名が並ぶ。
クリフ。ケイト。ユキヒョウ。ベガ。
そして――オスカーの両親、オイゲンとカタリーナ。
シマは、ようやく顔を上げた。
ネリは一礼する。
「ブランゲル侯爵家として、責任をもって受け入れております」
その時。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
明るく、軽やかで、しかし確かな存在感を伴った足音。
「――さて」
ブランゲルが立ち上がる。
「主役の一人が、戻ってきたようだな」
扉の向こうには、エリカと――シャイン傭兵団の女性たちがいる。
この城、この都市、この時間。
すべてが、次の段階へと進もうとしていた。




