里帰り3
カシウム城内、サロン。
高い天井から下がるシャンデリアの光は柔らかく、磨き込まれた床に淡く反射している。
先ほどまで張り詰め、呼吸すら重く感じられた空気は、嘘のようにほどけ、今は静かで温かな余韻に満ちていた。
ブランゲル侯爵は、ゆったりとソファに腰を下ろし、手にしたワイングラスを軽く揺らす。
深紅の液体が縁をなぞるのを見つめながら、ひとつ息を吐いた。
「……エリカ」
その声は、先刻までの鋼のような張りを失い、どこまでも柔和だった。
「シャイン傭兵団への入団――許可しよう」
その言葉が落ちた瞬間、エリカの表情がぱっと輝く。
「ありがとうございます、お父様!」
ほとんど跳ねるように一歩進み、深々と頭を下げる。
その動作に、武人としての礼と、娘としての安堵が混じっていた。
「これで……これで皆に、胸を張って報告できるわ」
そう言って、胸に手を当て、ほっと息をつく。
張りつめていた糸が、ようやく解けたのだろう。
「いやはや……」
声を上げたのは、デシャン男爵だった。
額に手をやり、苦笑とも畏敬ともつかぬ表情で首を振る。
「未だに、鳥肌が収まりませんぞ」
その言葉に、アデルハイトも深く頷く。
「同感です。あれは……模擬戦という言葉で済ませてよいものではありません」
エリクソンも腕を組み、静かに息を吐いた。
「正直に言えば……自分がどれほど甘かったか、思い知らされました」
ネリもまた、控えめに視線を伏せたまま、耳を澄ませている。
彼の胸中にも、同じ思いが渦巻いているのだろう。
武芸者である彼らだからこそ、はっきりと理解してしまった。
――頂きは、遥か先だ。
己が立つ場所は、まだ山の中腹にすら届いていないという現実を。
そのときだった。
エリジェ夫人が、堪えきれずに立ち上がり、二人に歩み寄る。
ブランゲル侯爵とエリカを、同時に抱きしめた。
「……よかった……」
その一言だけを絞り出し、目じりに溜まった涙をこぼす。
それ以上、言葉にはならなかった。
恐怖。安堵。誇り。母としての願い。
すべてが、その抱擁に詰まっていた。
一方、武芸とは縁の薄いジェイソンは、少し離れた場所で、ぼんやりと床を見つめていた。
やがて、独り言のように呟く。
「……私も、もう少し真剣に、武芸を習ってみようか……」
誰に聞かせるでもないその言葉には、確かな重みがあった。
サロンには、穏やかで、ゆっくりとした時間が流れている。
先ほどまでの死線が、遠い過去の出来事のように感じられるほどに。
ブランゲル侯爵は、完全に父の顔へと戻り、笑みを浮かべながら談笑を始める。
エリカもまた、朗らかな表情で応じていた。
「しかし、あの踏み込みは……」
「石突を使う判断、あの距離で?」
デシャン、アデルハイト、エリクソンが次々と質問を投げかける。
エリカは一つひとつ、丁寧に答え、時には父も補足を入れる。
ネリは静かに頷きながら、そのやり取りを聞いていた。
そのとき、ブランゲル侯爵は、ふとジェイソンの視線に気づく。
「……ジェイソン…愚かだと、思うか?」
低く、穏やかな声。
一瞬、場が静まる。
木槍と木剣とはいえ……父と娘が、本気で刃を交える。
普通なら、頭がおかしいと疑うだろう
問われたジェイソンは、少し考えるように視線を落とし、やがて、はっきりと首を振った。
「いいえ。愚かだとは思いません」
静かな声だった。
「父上にとって、戦いは人生そのもの。そしてエリカには……譲れない願いがあった」
言葉を選びながら、続ける。
「言葉で語るよりも、互いの信念を……磨き上げた『武』で語り、証明した。そういう戦いだったのだと、私は思います」
その言葉に、ブランゲル侯爵は一瞬目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
だが――
「それでも、心臓に悪いわ!!」
ぴしっと響いたのは、エリジェの声だった。
頬を膨らませ、プンスカと怒っている。
「す、済まぬ……」
侯爵は珍しく、素直に頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、お母様」
エリカも慌てて続く。
やがてエリジェは、ふっと力を抜き、微笑んだ。
「……こんなこと、言っていいのかわからないけど…二人とも……本当に、美しかったわ」
その言葉に、サロンは静かな温もりに包まれた。
エリカの覚悟を試す戦いは、こうして終わった。
血ではなく、誇りと理解を残して。
エリカは、手にしていた果実酒のグラスを、音を立てぬようそっとテーブルに置いた。
その所作ひとつで、サロンの空気が変わる。
談笑のざわめきが自然と静まり、誰ともなく彼女に視線が集まった。
エリカは立ち上がる。
背筋を伸ばし、深く息を吸い、そして――一人一人の顔を、確かめるように見渡した。
ブランゲル侯爵。エリジェ夫人。
ジェイソン。エリクソン。
デシャン男爵。アデルハイト・バウアー。ネリ・シュミッツ。
今、このサロンにいる全員の目を、逃さずに。
「……お父様、お母様。ジェイソン兄様、エリクソン兄様。デシャン男爵様、アデルハイト・バウアー様、ネリ・シュミッツ」
一人ずつ名を呼ぶ声は、澄んでいて、しかし確かな重みを帯びていた。
「改めて――敬意を表します」
エリカは、静かに頭を下げる。
「そして、ここに至るまでの歴代御当主様方、家臣の皆様、兵士の皆様へ……深い、深い敬意を」
顔を上げたエリカの瞳は、真っ直ぐだった。
「ブランゲル侯爵家は、最初からこの地位にあったわけではありません。数え切れぬ犠牲と屍の上に、今の城塞都市があり、今の侯爵家があります」
言葉を区切り、噛みしめるように続ける。
「守り抜くために戦い、築くために血を流し、それでもなお立ち上がり続けてきた……私は、その重みを、頭では理解しているつもりでした」
ほんの一瞬、視線が揺れる。
「……ですが」
声が、わずかに低くなる。
「初めて戦場に立ち、人を斬り……その意味を、ようやく身体で知りました」
サロンに、静寂が落ちる。
「斬った瞬間の感触。倒れた男の顔。命が消えていく、その一瞬」
エリカは、拳をきゅっと握った。
「戦争が終わった夜……私は、怖くて、一晩中泣き明かしました。自分が何をしたのか、何を背負ってしまったのか……その重さに、耐えられなかった」
エリジェ夫人が、そっと口元に手を当てる。
「それでも……私は、生きていました。ここに戻れば、守られ、支えられ、温かな食事があり、安心して眠れる場所がある」
エリカは、微かに笑った。
「私は……どれほど、恵まれた地位にいたのでしょう」
視線が、床へと落ちる。
「だから……チョウコ町での暮らしは、私にとって衝撃でした」
顔を上げ、少し照れたように、しかし誠実に語る。
「畑仕事。針仕事。料理、馬や牛、鶏の世話。牛糞拾い。洗濯に、掃除」
デシャン男爵が、思わず目を瞬かせる。
「どれも、今まで一度も、本気で向き合ったことのないことばかりでした。思うようにいかない。
失敗して、叱られて、笑われて……何度も、自分の無力さを思い知らされました」
そして、ふっと息を吐く。
「模擬戦や訓練では……何度も地べたに転がされました……容赦なく」
小さな苦笑がこぼれる。
だが、その笑みはすぐに消え、真剣な眼差しに変わる。
「誰も、私を侯爵の娘として扱いませんでした。一人の未熟な剣士として、一人の働き手として、等しく」
胸に手を当てる。
「私は、そこで初めて知ったのです。守られる側でいることの意味と、守る側に立つ覚悟の重さを」
静かな声で、しかしはっきりと。
「だからこそ……私は、シャイン傭兵団へ行きたい。剣を振るう意味を、命の重さを、逃げずに学びたい」
最後に、再び深く頭を下げる。
「今ここにいる皆様に支えられて、私は立っています。そのことを、決して忘れません」
顔を上げたエリカの表情は、揺るぎなかった。
サロンには、言葉を失った静寂が満ちていた。
それは重苦しさではなく、彼女の覚悟を、誰もが受け止めている証だった。
ブランゲル侯爵は、静かに目を閉じ、そして深く頷く。
エリジェ夫人は、涙を滲ませながら、誇らしげに娘を見つめていた。
この瞬間、エリカは確かに――ブランゲル侯爵家の娘であると同時に、己の意志で道を選ぶ、一人の戦士として立っていた。
静寂を破ったのは、エリジェの柔らかな声だった。
「……エリカ」
娘を見つめるその瞳には、先ほどまでの不安も恐れもない。
ただ、母としての深い慈しみだけがあった。
「あなたの思うように、生きなさい」
短い言葉だった。
だが、それは命令でも許可でもなく、祝福だった。
エリカは一瞬、言葉を失い――そして、ゆっくりと頷く。
「……はい、お母様」
その横で、ブランゲル侯爵もまた、重々しく、しかし確かに頷いていた。
武人としてではなく、父としての肯定。
「……戦場に出た、か」
ぽつりと呟いたのは、エリクソンだった。
腕を組み、どこか遠くを見るような目。
「俺は……まだだな」
自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「城塞都市の周りに潜む野盗との交戦はある。だが、あれは戦場とは言い切れない。領軍の圧倒的多数で制圧するだけだ」
淡々とした口調だったが、その裏には、武人としての葛藤が滲んでいた。
「もしかして……」
ジェイソンが、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「『ドノヴァン砦の戦い』に、参加したのかい?」
サロンの空気が、再び引き締まる。
侯爵家とカシウム領軍は、それなりに情報を集めている。
そして近年、シャイン傭兵団が関わった戦争といえば――誰もが思い浮かべるのは、その名だった。
エリカは、はっきりと頷いた。
「はい、ジェイソン兄様」
その瞬間、アデルハイトが思わず声を上げる。
「シャイン傭兵団の名を、一躍……いや、さらに高めた、あの戦いに……エリカ様も、いらしたのですか?」
ブランゲル侯爵は、顎に手を当て、記憶を辿るように言う。
「……『黒髪の団長』、『双剣の死神』、『雷撃の戦乙女』、『銀髪の悪魔』……だったか?」
少し間を置き、視線を上げる。
「シマとフレッド、サーシャ嬢……最後は――ユキヒョウか?」
「はい」
エリカの答えは、簡潔だった。
「……確か」
デシャン男爵が、ゆっくりと口を開く。
「シャイン傭兵団は、スレイニ族軍と共同で、ゼルヴァリア軍閥国と戦ったのでしたな?圧倒的に不利な戦いだったと聞いておりますが……実際は、いかがだったのでしょう?」
エリカは少し考え、数字を思い出すように視線を上に向ける。
「ゼルヴァリア軍閥国は……万を超えていたと思います」
一同が、息を呑む。
「対する私たちは、砦に二千。援軍として千ほどが向かっていましたが……急いで駆けつけたため、実際に合流できたのは七百ほどでした」
淡々と語られる現実。
「砦の中にいたスレイニ族軍の兵士たちで、実際に戦えたのは……千人ほどだったのではないかしら?」
サロンに、重い沈黙が落ちる。
「……よくもまあ、それで勝てたものだ」
ジェイソンが、率直に呟く。
エリカは、少しだけ目を伏せ、そして言った。
「……一騎打ちが、ありましたから」
その一言に、すべてが凝縮されていた。
英雄譚として語られるその裏側を、彼女は、命を賭して見てきたのだ。
しんと落ち着いたサロンの空気を、エリカの声が鮮やかに切り裂いた。
「……でも」
一拍、間を置き、唇の端を少しだけ吊り上げる。
「そんなことよりも――もっと、すごいことがあるのよ!」
あまりにも唐突で、あまりにも軽やかな口調だった。
「……え?」
思わず声を上げてしまったのはネリだった。
冷静沈着を絵に描いたような彼にしては、実に珍しい反応。
「そ、そんなこと……?」
口をついて出た言葉に、本人が一瞬固まる。
「あっ……! も、申し訳ございません!」
すぐさま背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
「失言でした……!」
そのあまりに素直で切羽詰まった謝罪に、サロンの緊張がふっと緩んだ。
「……ふふっ」
最初に小さく笑ったのはエリジェだった。
それを合図に、デシャン男爵が肩を揺らし、アデルハイトも口元を押さえる。
「ネリが動揺するとはな……これは珍しい光景だ」
エリクソンがからかうように言い、ネリは耳まで赤くする。
「い、いえ……その……」
場が和んだ、その瞬間を見計らったように、エリカは続けた。
「フフッ……」
どこか楽しそうに、しかし言葉の中身は爆弾だった。
「いずれ――スレイニ族とカイセイ族が、シャイン傭兵団の傘下に入ることが決まっているの」
一同が、凍りつく。
「……時期は、まだ未定だけどね」
まるで明日の天気でも話すかのような口調。
次の瞬間。
「――――は?」
ジェイソンの思考が、完全に停止した。
「ス、スレイニ族と……カイセイ族が……?」
言葉を繰り返すことしかできない。
ダグザ連合国スレイニ族。
名目上でも国土の四分の一を支配すると言われる大勢力。
実際には、近年の情勢を考えれば、三分の一近くに及ぶとも噂されている。
そしてダグザ連合国カイセイ族。
数多の氏族を従え、連合国内でも屈指の発言力を持つ一大勢力。
両者を合わせれば――ダグザ連合国の、半分以上。
「……シャイン傭兵団の、傘下……?」
ジェイソンは、もはや声を失っていた。
「それって……」
エリクソンが、乾いた笑みを浮かべる。
「シャイン傭兵団……俺たち侯爵家より、でかくなるな?」
冗談めかした言い方だったが、誰も笑わなかった。
冗談で済む規模ではない。
そのとき――
「……実はな」
低く、重みのある声が割り込んだ。ブランゲル侯爵だった。
全員の視線が、一斉に集まる。
侯爵は、ワイングラスをテーブルに置き、指を組む。
「王都の暗部――スラム街があるだろう」
一瞬、言葉を切る。
何かを察した者が、息を呑む。
「今後はな」
そして、さらりと告げた。
「シャイン傭兵団が、治めることになった」
――沈黙。音が、完全に消えた。
「詳しいことは……」
侯爵は肩をすくめる。
「クリフから聞いてくれ。」
誰も、すぐに言葉を発せなかった。
スレイニ族。カイセイ族。王都スラム街。
それぞれが単体でも国家規模の重みを持つ要素だ。
それが、すべて――シャイン傭兵団へと収束していく。
「……」
ジェイソンは、口を開こうとして、閉じた。
エリクソンは腕を組んだまま、天井を見上げる。
デシャン男爵は、ただ静かに唇を結び、アデルハイトは、現実を計算し直すかのように目を伏せる。
ネリは、言葉を失ったまま、静かに息を吐いた。
――何とも言えない沈黙。
それは恐怖でも、否定でもない。
ただ、時代の歯車が大きく音を立てて回り始めたことを、全員が直感的に理解した瞬間だった。
そして、その中心に――あの「シャイン傭兵団」がいる。
サロンの灯りは変わらない。
だが、世界の見え方だけが、確実に変わっていた。




