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奥方様の思い出ばなし  作者: 独蛇夏子
思い出ばなし
3/8

3 男の名前の意味は『水色』

 名前がないと色々と不便なので、ユイルは男を水色の瞳にちなんで『ヘルブラウ』と呼ぶことにした。

 ヘルブラウは率先してユイルの仕事の手伝いを申し出た。

 が、始めは森での生活で全く役に立たなかった。

 最初の方は全く早起きができなかった。食器を片づけたり、布団を畳んだり、洗濯をしたりと生活の順序がなかなか把握できず、もたもたすることが多かった。

 畑を耕すのを手伝おうとすると、折角掘り返した土を台無しにしてしまうし、野菜の収穫の仕方も分からない。井戸の水を汲むにしても、桶に括り付けた紐を揺らしてしまい、上げてくるまでに水が零してしまう。

 しかし、社会的な規範や知識は、記憶喪失とは関係なくヘルブラウは身についていいるようだった。ヘルブラウは紳士的な態度は、記憶喪失以前の生活を窺わせた。根気よい性格のようで、生活の知恵を身につけていき、自分なりの理解をして、知性を感じさせた。ユイルの家にある本に興味を持ち、木の実や茸、野草や薬草を覚えると、森へ分け入ってユイルに実物と知識との確認をとるのだった。

 唯一、最初からユイルより上手にできたのは、薪割りだった。

「これ、僕の方がよく出来るみたいです」

 楽しそうに、リズム感よく斧を振るってみせた。


 どこぞの坊ちゃんだろう。そう長く滞在するまい。そう思いながら、一応、ユイルは真面目に生活習慣や仕事の仕方を教えた。あくまでヘルブラウの記憶が蘇るか、誰か分かるまで、ここにいる間の繋ぎだ。

 記憶喪失でも体に染みついた習慣というものは得手不得手に表れてくるらしい。身の回りの世話は、他人にやってもらっていたのだろう。薪割りは何かの機会に似たようなことをやっていた。そういうことだ。

 ただ、ヘルブラウはあれこれ教えられる生活の術を、投げ出さず、我が儘も言わず身につけていった。ユイルはそれが予想外だった。

 大切な食料を食い潰すだけの奴は、置いておくわけにはいかない。最初から、厳しく仕事をさせ教えるつもりだった。そうした仕事の数々に嫌気が差して、早々に森を出るかと思っていた。

 ヘルブラウは森での暮らしを楽しむ節さえあった。

「これはリコリスですね」

「よく分かったが」

「この間、教えてもらいました」

 野草を見つけ、水色の目を眇めて、微笑む。

 なんと悠長な、と思うが、「ああそうだな」と返すくらいはする。


 変な男だとユイルは思った。近くを細く流れる小川のように、ヘルブラウという男は穏やかで流麗だ。異物であるはずなのに、抗えない。ゆるやかにユイルの生活に溶け込んでいく。

 一ヶ月経つとヘルブラウの生活習慣は身に付き、ユイルが畑仕事をしていると起き出して手伝うようになった。ユイルがあれこれ指図し、ヘルブルラウが動いてくれるので、野菜の収穫や家畜の世話の効率がよくなり、生産量も若干上がったのでユイルは驚いた。

 どうしよう、生活が少し楽になっている。

 ユイルは少し怖くなった。


 畑は森の空き地の一番日当たりのいい場所にある。朝、起きてきたヘルブラウは日に向かって伸びをして、水を撒き、野菜の収穫をする。

 ユイルはなるべく男と話をしないように、と思っていたから沈黙しがちだった。

 ヘルブラウは構わず声をかけてきた。


「気持ち良い朝ですね」

「・・・んだ」

「貴女はいつでもマントをつけていらっしゃる。どんなに朝早く起きても、貴女がマントをつけていない姿を僕は見ることができないのですね」


 ユイルは未だ藍色のフード付きマントを彼の前で脱いでみせたことがなかった。

 鍬を振るいながらユイルはぶっきらぼうに答えた。


「畑仕事は日に焼ける。マントはその対策でもあるせ。んだば、わたがおめぇの前でフードを脱ぐことはねぇ」


 あーあ、こいつがいるせいで日を浴びることが叶わない。

 ユイルは胸の内でケッとやさぐれた。

 確かに藍色のマントはユイルのヘルブラウが来る以前からの通常装備なのである。だが、今はいつ彼が現れるか分からないので、フードを外す機会が減った。

 それでも、顔を見せてはならない。

 父の言い聞かせを、ユイルは守る。

 『人前では、決してマントのフードをとって、顔を見せてはならないよ。』

 母が口にする危惧を思い出す。

 『我々は災厄になりかねない。』

 ヘルブラウに、ユイルの私室に絶対に入らないようにと言い、毎朝起きたときにだけ、日の光りを浴びている。



 隠すという行為が、如何に人の興味をそそるものなのか。

 ヘルブラウと名付けられた彼は、日々その記憶のない過去のどこかで得たらしい寸言を、しみじみ味わっている。

 マントから滑り出る白い腕に手。ときにうねるような、光沢のある鳶色の髪が見える。

 時折聞ける声は、鈴が鳴るようだ。

 彼女の藍色のマントは、彼女の姿かたちを隠しこそすれ、そばで見ていると彼女の魅力を引き立てているようでもあった。

 本当に見た目が美しいのかどうか、分からないけれど。


 森で暮らし始めたヘルブラウが何より驚いたのは、生活の大変さだった。

 ユイルは容赦なくヘルブラウに手伝いをさせた。

 比較する記憶がない代わりに、体が悲鳴を上げて慣れない仕事だと分かる。最初は早朝に畑仕事をし、森の野草や木の実採り、狩りや牛や鶏といった家畜の世話などをする生活を覚えるのに必死だった。無理を言って住まいを提供してもらっているのはヘルブラウの方であるし、記憶がないのでこれから生活していくための知恵は欲しかった。

 疲れで仕事のない時間はうとうとし、夜はあてがわれた部屋に戻ると、ベッドにぱったり伏す。そんな日々が続いた。

 余裕が出て来てからはよかった。大変な生活の中に、環境に合わせた知恵が見えて、面白いと思った。

 野菜は束にし、保存用は壁に吊るし、村に売るものは新鮮なまま朝市で売る。

 木の実や果実を瓶詰にし、薬草は乾燥させる。薬草を調合して薬にしたり、化粧品を作る。家畜から得た乳で、バターやチーズを作る。

 ユイルは藍色のマントのフードを深々と被り、牛にそうした自家製の商品を積んだ荷車を牽かせ、いくばくかの必需品を載せて帰って来る。

 夕食の後には糸を紡ぎ、その糸で服を修復したり、織物をしたりする。

 ヘルブラウが着ている服は、彼女の父が着ていたものらしい。彼女はヘルブラウの背丈に合わせ、器用にシャツを直した。


「お父様の大切な形見ではないのか」

「役に立てるこった、いっちばん、ととさまが喜ぶこった」


 ユイルは即物的だった。縫い針の手を止めず、今そこにいる困ったただの居候に、シャツを仕上げるのである。

 実によく仕事をする女である。

 まるで、何もかも拒絶して、生活し、生きることだけに全てを捧げているよう。

 それがヘルブラウのユイルに対する印象だった。


 気付けばヘルブラウは仕事の手伝いを任されるようになっていた。一ヶ月も経てば、記憶がなくて不安な心境であったことを忘れるほど、ヘルブラウは森の生活に馴染んでいた。

 わけの分からない自分に根気よく仕事を教えたのは、ユイルである。

 ヘルブラウはユイルに感謝した。


 ユイルを見ていると、自分は何かをしたくなるらしい。

 ある日ユイルが帰ってきたところを見計らって、ヘルブラウは森の野原で苺を採ってくるついでに摘んできた花を花束にして渡した。

 フードに隠れた顔がどうなったかは分からない。彼女は暫し沈黙して、首を傾げた。

「こらなにが。畑の肥料にもならないが」

 思わずがくっときた。

「これは花束です」

「はなたば」

「貴女に贈り物です。花を、戸棚に置いてある花瓶に生けてみたら、居間もまた違ったように見えるかも知れません」

 ユイルは沈黙し、わたわたとマントの下で手を動かしてから、怒鳴るみたいにして言った。

「こんなん、勿体ねぇことしで!!」

 しかしその夜、夕食の席に花瓶に生けてある赤や青や白の花があった。

 それ以来、時折ヘルブラウは彼女に花を摘んで帰るようになった。

 別の日に、ヘルブラウは薪割り以外に、自分は狩りが得意ということを発見した。

 分け入っても危険でない範囲をユイルに教えてもらい、弓矢を持ち、ナイフを腰に付けて森を歩く。

 鳥や小動物を獲り、時には猪や鹿といった大型動物も捕らえる。

 ユイルはこの点に関してはヘルブラウに感心し、喜んで毛皮を剥いで肉を切り分け、用途に合わせて干し肉などを作った。


「これだけありゃ、冬を十分越せる」

「それはよかった」

「おめぇはいつまでいるつもりだ」

「記憶が戻るまででしょうか」

「悠長だが」


 ヘルブラウはユイルの言葉に微笑みを浮かべたが、ふと森の中の様子を思い出した。


「そういえば、この森は熊がいるのですね。糞がありました」


 ユイルは声を失ったように黙りこくり、それから言った。


「ああ、いる。わたのととさまは熊に殺されたが」


 暗いトーンを帯びる声。ヘルブラウには藍色のマント姿がいつもより小さく見えた。


   ◆


 森の中を歩いていると、ふとした瞬間に甦る映像がある。

 木漏れ日が細かに散る薄暗い道に、触発されるのだ。


 疾駆する馬。銀の帷子を着た金に光る髪を靡かせた人々。

 星空。草がざわめく平原を駆け抜ける。

 風のように走り抜けた景色のあと、どすんと暗がりに降ろされる。

 朦朧とした意識の中、濃い緑に潜む鳥の鳴き声や風の音が聞こえ、茫然とした心地に漂う。


 そして、エメラルドのような輝きを持つ瞳が、こちらを見下ろしている。


 ヘルブラウは未だ夢の中にいる気分になる。

 森の奥に隔絶された生活。時に恨めしい、美しい木々や草花。

 そして藍色のマントの女の、厳しくも優しい心。



「魚を釣ってみました」


 顔は見えないが、じっとびくの中の川魚を見ているのが分かる。

 ユイルは言った。


「ようこったら獲れただが」


 ヘルブラウは微笑んだ。

 ポケットを探って、ざらざらと石を取り出す。


「これはなんだが?」

「宝石の原石です。ガーネットかな。僕が使わせてもらっている部屋の図鑑に川で採れる宝石のリストが挟んでありました。それを参考に採ってみました」


 はっとしたように、ユイルが体を強張らせた。

 ヘルブラウは、構わず訊ねた。


「貴女のお父様が遺したものですか?」


 ユイルはヘルブラウの掌に載っているただの石粒に見える原石を眺め、言った。


「何代か(めぇ)から、そこの川で採れる石を記録したった。その図鑑だが」

「やはり、ここの生活は貴女のご一家が年月をかけて作り上げたものなのですね。素晴らしい。あの図鑑はとてもよく出来ている。図版をつけ、鉱物の特徴を記載してある。とてもただの田舎者が作ったとは思えない」

「そんなぁこった詮索してどうするがッ!!」


 ユイルが大きな声を上げたが、ヘルブラウは穏やかな表情でそれを受け止めた。


「貴女のご先祖は長年蓄積した知恵を用いてこんな森の奥に生活の拠点を築いた一家です。その歴史を感じさせる貴重な資料です」


 穏やかな顔をして、柔らかな口調で言っているのに、どうしてこうも追い詰められているような心地になるのだろう。

 ユイルは藍色のマントの端を握り締めた。

 ヘルブラウはユイルの頑なな様子に少し落ち込んで、言った。


「きっと貴女のご先祖は、教養のある身分の高い方だったのです・・・すいません、話したくないようですね」


 気まずい空気の中で、ユイルは溜め息をついた。


「そんなぁこった調べてっと、どうしようもなか。今も昔も、変わらないが」


 ヘルブラウは自分の掌の中の石粒を眺めて、考えた。

 自分はどうしてこの家の資料を調べ、こんなものを拾ってきたのだろうか?

 少なくともユイルにこんな悲しい声を出させるためではない。ただ、部屋の本や書類を読んで、彼女の境遇に推測がついて、こんな森の奥にひっそりと住むユイルのことを知ることができたと思って、嬉しかったのだ。

 そんな自分の気持ちに気付き、ヘルブラウは動揺も何もなく、あっさりと認めることにした。


「・・・図鑑にあったように、この石を研磨して光らせてみます。そしたら、何か装身具でも作りましょう」


 自分は、この悲しい藍色のフードマントの女が、愛しくて仕方ないのだ。

 記憶喪失である自分の立場に、焦燥や不安を感じないくらい、今の生活を気に入っている。

 親切で、適切な距離をとりながら、誠実に記憶喪失の自分に接してくれる女。

 ヘルブラウがユイルを好ましく思うのは、自然な流れだった。


 一方で、優しげに微笑むヘルブラウをフードの下から窺って、ユイルはやめて、と心の中で力なく呟いていた。

 まるでお父さんがいた頃のように、その図鑑を引っ張り出さないで。宝石を見つけてこないで。

 生活の中に、溶け込まないで。

 いなくなったときに、寂しくなる。



 ユイルはよく、食卓で父と笑い合い、共に畑仕事をして収入を得てきたときを思い出す。

 ユイルが十六のときに父は熊に襲われて死んだ。そのときユイルは泣いた。胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。母が十の頃に病気で死んだときも泣いたが、そのときは父がいた。

 一人ぼっちになって、ユイルは誰とも話さず、姿も見せない生活を続けた。村で森の奥の魔女、と陰口を叩かれていることは知っている。あんなところに住んでるたぁ、先祖は罪人だかんら。それが村人のユイルに対する見方だった。

 ユイルは自分たち一家が何故このように身を隠しながら生活しているのか、知らない。しかし、物心がつく前から、フードを深く被って、道行く人と目を合わせないようにしながら暮らしているから、何かそうしなければならない理由があるのだと思っている。

 父は日々、ユイルにきつく言い聞かせていた。フードを決して外さないように、顔や姿を見られてはならない、と。

 母は語った。『我々は災厄をもたらす』と。子供ながら恐ろしく思ったのを、ユイルは忘れていない。


 ところが、突如として現れた穏やかな青年は、紳士的で、常に優しく、ユイルの意志を尊重してくれた。今まで村人から向けられた言葉や、陰口とは違って、ユイルを一人の人間として認めてくれているようだった。

 だが、自分たち一家のことを知りたがっている。ユイルの頭の中に、『災厄をもたらす』という言葉が繰り返されていた。

 自分に関わった彼に、『災厄』をもたらすわけにはいけない。

 ユイルの心に、このままではいけない、という思いが募った。


   ◆


 ヘルブラウはある日、ユイルと同じように藍色のマントを着て、村について行くことにした。

 村の様子を少し覗きたかったのだ。

 ユイルに頼み込んで父親のマントを貸してもらうと、背丈が合っていたらしく、すっぽりと姿を隠せた。


「お揃いですね」

「ととさまのだかんら」

「ありがとうございます」

「・・・おめぇ、まだ思い出さねぇのか」


 ヘルブラウは肩を竦めた。


「ええ」


 事実、ヘルブラウは記憶が戻っていなかったし、困ったことに、記憶がないことに対しても困っていなかった。

 家を出発して、曲がりくねった薄暗い小径を歩く。ユイルが牛を引き、牛が首につけた鈴がリンリンと鳴り響いた。

 久々の村への外出に楽しそうなヘルブラウを見て、ユイルはあからさまに溜め息をついてみせた。


「おめぇ、いつまで家さいる気だ」

「うーん困りましたね」


 ヘルブラウは困った素振りをしてから、あっけらかんとして言った。


「記憶が戻りませんからね」

「戻る気あるのかんら」

「ユイルさん僕と結婚してくれませんか」

「はっ??!!」


 ユイルは思わずヘルブラウを振り仰いだが、フードにすっぽり隠れたヘルブラウの表情は窺えなかった。


「どうしたら結婚してくれますか?うーん、やっぱり生活能力ですかね」

「なっ なっ なっ 何を言ってるのら!わたはおめぇと結婚しないかんら!」

「冬籠りしても大丈夫なくらい、稼いでみせたらいいでしょうか」

「聞いているのかんら!」

「聞いていますよ?」


 ヘルブラウの声がおどけた。


「わりと真剣なんです。顔が見えないでしょ?貴女はいつもこんな感じですよ」


 ユイルは言葉をなくし、思わず立ち止まった。居候の言葉など、何でもないはずなのに、不安で心が揺れる。

 こっちは、自分と関わるヘルブラウに何かあってはならないと、やきもきしているのに。

 ヘルブラウは振り向いた。木々の薄暗がりの中で、口元だけ笑ったのが見えた。


「聞こえているように見えないなら、僕をよく見ていて下さい」


 何故、そうも自分に関わろうとするのか。

 先を歩くヘルブラウを、ユイルは慌てて追いかけた。


 村は朝市に賑わっていた。ユイルは牛を牽き、いつもの出店に野菜を卸していった。薬や保存食は呼び止められると安い値で売る。

「あんたァ男連れてるたぁ珍しいなァ」

「親戚だかんら」

 買い物をした主婦に訊かれて、ユイルは言い訳のように答えた。

 ヘルブラウは人波の頭一つ分出ていて、藍色のマントを被っていても目立った。フードの下から市を見物し、市の商品の値をいちいち確認している。ユイルが移動すると、ゆっくりとその後を追った。

 が、あるときヘルブラウはいきなり通りがかりの男の腕を捻り上げた。


「いててててって!!離せ、何すんだ!」

「何をするんだ、とはこちらの台詞。その懐に入れたものを出してもらおう」


 男は苦々しい顔をしたまま、動かない。

 ヘルブラウは溜め息をついて、そのまま男を押さえつけて、男の上着から小瓶を取り出した。

 よく分からないまま牛と共にヘルブラウの所業をハラハラしながら見つめていたユイルはあっと声を上げた。


「そりゃうちの薬だ!」

「お代払っていませんね」

「こんなもん安物だろ!一個とったくらい何でもねぇだろ」


 男は悔しそうに歯ぎしりしてヘルブラウから腕を抜き取ろうとするが、再び「いててて」と顔色を変えた。

 ヘルブラウは男より更に背が高かった。男は見下ろされると、身を竦ませた。腕を掴まれていることで、本当に身体が動かないらしい。

 ユイルは荷車の品を確認して、男を糾弾した。


「ふざけんなおめぇ人が作ったもんを盗るたぁ。安物だろうが売りもんは売りもんだ。金払いな!」

「なんだと、この魔女のくせに!いてて!」


 ヘルブラウがぐっと手に力を込めて、男を引き寄せてすごんだ。


「この安物を作る技能もないのに、人を見下すとは呆れた男だ。盗人として駐在に引渡そうか」

「なんだと・・・?!」


 男は力を込めてヘルブラウの手から自分の腕を引き抜こうとするが、一向に抜けらいらしく顔を真っ赤にさせた。

 市の人々が何か何かと集まり、人だかりが出来る。男は冷や汗をかいて周囲を見回した。


「おい、手を離せ!」

「物を頼むなら丁寧に頼め、盗人」

「・・・離して下せぇ」

「・・・どうしますか?」


 訊ねられたユイルは、肩を竦めてみせた。


「ま、いいせ。暫くこいつは村を歩けないが」


 うん、と頷いたヘルブラウは、男が全力で腕を引き抜こうとした瞬間に手を離した。

 勢いよく吹っ飛んだ男は前の屋台に突っ込み、引っくり返り、集まっていた人々は自業自得の掏摸師すりしの無様な姿に大笑いした。

 男は傷む腕を押さえて、ほうほうの体で逃げた。


「すまないがぁ、店主。騒がして」


 ユイルが屋台の店主に詫びに行くと、白髭を生やしたその店主は笑って言った。


「いいってことよ、久々に胸がすくようなものを見たかんら。顔は見えねぇがそいつはいい男っさ」


 ユイルの後ろでヘルブラウが会釈し、「行きましょう」とユイルの背を押し、牛を引き連れた。ユイルはなすがままで、ヘルブラウを頼もしく思っている自分を情けないような、嬉しいような気持ちになって道を進んだ。




 その日、ヘルブラウは空いた時間を使って紙にユイルが売っている商品とその値段と相場を書き出した。表にして整理し、計算をして相場に見合った金額を弾きだした。

 羽根ペンをカリカリと動かして、テーブルに向かっていたヘルブラウは、うん、と納得して頷き、すぐそばの椅子に座って編み物をしていたユイルに話しかけた。


「ユイルさん、やっぱりユイルさんは商品を安く売り過ぎです」

「なんだ?」

「これ、見て下さい」


 商品のリストと金額を綺麗に書き出した紙を見せられて、ユイルは首を傾げた。


「わかんね」

「簡単な数字なら分かりますか?相場と、ユイルさんの商品売価を見て下さい」

「ああ・・・それなら。こったら森の奥に住んでいる魔女の商品は買わないかんら」

「それです」


 じとっとした目で、ヘルブラウはユイルを見た。

 ユイルには、ヘルブラウがどんな顔をしているのか分からない。フードを目深に被って、さっき手渡された紙を見ているからだ。

 それ以前に、まともに顔を見て話したことすらない。出かけ際に言われたことで、ユイルは初めて気付いた。ヘルブラウはユイルの顔を見たことがないし、普段ユイルが何をどのように思っているのか、分かりづらいはずなのだ。それなのに、ヘルブラウは普段から様々に声を掛けてくる。素っ気ないユイルと、話そうとする。

 何故?家主だから?


 ユイルさん僕と結婚してくれませんか


 それはどこまで、本気なのだろう。

 悶々としているユイルの頭上から、気遣わしげな声が降ってきた。ヘルブラウが立ち上がって、ユイルを見下ろしているのだ。


「ユイルさん。そんな卑下することはないのです。貴女が売っている薬は、どうやら貴女の一家に伝わる独自のものらしい。若い娘が買うようなニキビ予防の薬と、特に胃薬。村に行っても、よく売れたではないですか。これはちゃんとした薬問屋に売れば、きちんと値がついて売れるはずなんです」


 ユイルはやや視線を上げた。彼の手が見えた。最初はしなやかで綺麗な手だったのに、今は土や水にまみれてすっかり荒れている。

 蜂蜜を使ったクリームがあった、と思い、ユイルは立ち上がった。その前に、ヘルブラウに語りかけるのを意識して、言った。


「おめぇ、やっぱりちゃんと記憶を取り戻せ」

「え?」


 ユイルはテーブルに紙を置いて、ヘルブラウの方に差し出した。


「こんな細けぇ計算が出来る頭だ。やっぱり、おめぇはここにいるべき人間じゃないが」


 今日の出来事といい。この計算といい。

 只者ではないはずだ。

 ユイルはふっと肩を落とした。

 クリームは何処だったか。自分の部屋だったろうか。

 部屋に戻ろうとしたユイルの背中に、声がかけられた。


「僕は、思い出したくないとさえ思うことすらあるのです。貴女のことを知りたいです。ここで暮らしたいです」


 思わず立ち止まったユイルだったが、黙って部屋の中に入った。

 胸がドキドキする。あんなことを言われたのは初めてだ。

 こんな風に、思ってはならない。彼はやがて、何処かに帰らねばならない人だ。

 だけど、ヘルブラウの声は、悲しげに聞こえた。

 自分の思い違いだろうか。


   ◆


 季節は過ぎ、森はその顔を変えた。

 深緑の夏はさまざまな虫が活発的になり、掌より大きい鮮やかな色合いの蝶にヘルブラウは驚いた。ユイルと様々な野菜を収穫し、森の果物を採り、コケモモの酒を仕込んだ。森の更に奥地にある湿地に生えた綿花を収穫して、ユイルは糸を紡いだ。糸は野で群生していた赤い花で染め、外で乾かす。ヘルブラウはユイルの指示を受けながら羊の毛を刈り、ユイルから羊毛を糸にする方法を学んだ。

 様々な質と色の糸が物干しに下がっていると美しかった。ユイルはこれらの糸の半分を売り、残った深緑色の羊毛でヘルブラウの冬の上着を作ると約束をした。

 時折激しい雨が降る。にわか雨に、家はガタガタと揺れ、古さを感じさせた。ユイルは雨漏りしている下に器を置くことで対処していたが、ヘルブラウが納屋から工具を見つけてきて修理をし、雨漏りを下手くそながら直した。


 ある日、二人は共に川に行き、宝石の原石を探した。ユイルが冷たい水に足を晒していると、ヘルブラウがふざけて水を掛け、二人はびしょびしょになるまで川で遊んだ。

 その時、初めてヘルブラウはユイルの笑い声を聞いた。日の光りがキラキラとしているような笑い声はまさしく少女のもので、ヘルブラウの胸を熱くさせた。


「貴女はどうして、マントを被っていないといけないのですか?」


 日の当たる場所で、体を乾かしながらヘルブラウは何気なく訊いた。

 ユイルはいつもより開放的な気分になっているらしく、ヘルブラウに答えた。


「昔からだな、『我々は災厄をもたらす』と言われてるだ。この姿、形が、人を混乱に陥れ、災いを引き起こすかんら、見せてはならない」


 ヘルブラウはぽかんとした。フードの横から、彼女の顔の鼻から下が見える。桜色の綺麗な形の唇は、果実を思わせる。小さな顎はなだらかだ。

 全容は見たことがないけれど、彼女はとても美しい人なのではないかとヘルブラウは思っている。それこそ、自分の思い込みかも知れない。目から上はとんでもない化け物じみているとか、そういった可能性もある。

 しかし、働き者で、即物的で、他人に頼ろうとしないくせに人を放っておけないユイルが、災厄を惹き起こす人間には見えないのは確かだ。


「誰が言ったのですか、そんなことを」

「母様だ」

「・・・お母様が?」

「お父さんも、母様の災厄に引っ掛かったと言っていたかんら」


 ヘルブラウは思わず笑いそうになったが、ユイルがしょぼんとしていて、いたって真剣らしいのでこらえた。

 父親が母親の災厄に引っ掛かる、その災厄が見た目に関するのだから、惚気のようなものではないか。ユイルの母親は、おそらくすごい美人で、ユイルがその美貌を受け継いでいるのを父親は危惧していたのだろう。

 だが、それにしては大仰な言いようだともいえる。そこには何があるのだろうか。


「もともと森の奥に暮らしていたのはお母様の方ですか?」

「んだ」


 森の奥に、潜んでいて、身を隠していた母親の「見た目」の災厄。

 長年受け継がれた一家の生活の知恵。

 どうやら、惚気だけではない重大な何かがあるらしい。それがユイルを頑なにしている。


「ところで」

「な?」

「僕との結婚は考えてくれましたか?!」

「なっ!!!」


 ユイルは口をパクパクさせて、思い切り立ち上がった。


「馬鹿なこと言って!さっさと記憶を取り戻して、帰るが!!」


 思い切り腕を振って自宅の方に帰っていくユイルをヘルブラウは笑いながら見送って、「結構見込みがありそうだ」と気分よく草むらに寝っ転がった。

 その瞬間、初めて「自分は一体誰なのか?」という不安が身をもたげた。

 自分はこの暮らしが好きだ。彼女のことも好きだ。例え見た目が化け物じみていても、大切に想えるだろう。

 しかし、こうして暮らして、彼女と寄り添っていくことは、本当に可能なのだろうか?

 ヘルブラウには自分の身分がそれなりに高かったであろうことを、村の人間や商人と自らを比較して理解していた。最初、怪我をしてボロボロだったことも忘れていない。

 何かの事件に巻き込まれたのは明らかだった。

 自分の過去にまつわる事実をつきとめなければ、どんなに自分が忘れていても、忌まわしい事実はついてまわるだろう。そして、それがユイルに影響を及ぼす可能性も、否定はできない。


 ヘルブラウは面白くなくなって、勢いよく起きあがるとそこに生えていた草を引き抜き、さらさらと流れる小川に投げ込んだ。

 草は抵抗なく、くるくると回転しながら流れていく。小川はキラキラと夏の光りに輝いた。

 側に置いてある木の桶の中には、宝石の原石と思われる小石がたくさん入っている。みんな、二人で探して拾ったものだ。

 楽しそうにしていた藍色のマントの小さな姿を思い出す。


 彼女を一人にしたくなかった。

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