2 記憶喪失の男
それは三年前のこと。
春祭りが終わって、新緑が青々と茂り始めた森。
その男は鬱蒼たる小径の真ん中に、丸太のように転がっていた。
荷車を牽く牛を引き連れ、紺色のマントのフードをすっぽり被り纏った女は、薄暗い森の中に溶け込むように立ち、小径の真ん中にくたばっている邪魔者を見下ろした。
紺色マントの女―――ユイルは首を傾げた。
小径は森の奥へと続いている。舗装されていない木の根が剥き出しの道は、人が一人、獣や馬が一頭、行き来するには充分な横幅といえる。もっとも、慣れない者にとっては、ところどころ盛り上がってデコボコしたこの土道は歩くのすら困難であり、ましてや馬に乗ったまま道を進もうとするなど愚行以外のなにものでもないのだが。
どうやらこの男は落馬したらしい。道に新しく馬の蹄鉄の跡が残っていることで、ユイルはそう判断した。
―――困った。物凄く、困った。何でこんなところに人が寝ているのだろう。家へ帰れない。
ユイルは見覚えのない男に困惑と不信感を覚えた。森の奥にあるのは自宅だけである。ユイルは自分を訪ねてくる知り合いがいないことを自分で知っていたし、滅多なことでは人が入って来ようと思わない場所に小径の入り口があるから、こんな所まで誰かが来ること自体が不可解であることも理解している。
ともかく、森の奥にある住居に辿り着くには、この男を越えてゆくしかなく、そして、ユイルには良心があるから、この男を置いていくことはできない。
仕方なく、ユイルは男を調べることにした。
そばにしゃがんで、背をゆすって呼びかける。
「おぅい、なしただが~。こんなァとこで寝んねしとっと風邪ひくが~」
うんとこしょと、ユイルはうつぶせになっていた男を仰向けに引っくり返した。
男は端正で品のよい顔立ちをしていた。薄暗くても、見目がいいことが分かる。白いシャツに乗馬用のズボンという簡素な格好だが、手触りから上等のものを身に着けているのだと知れた。
何でこんな坊ちゃんのような若い男が、とユイルは首を傾げたが、額から血が出ているのを見つけ、少し同情した。あちこち傷もあるようだ。
ざわ、ざわ。森の木々が風に揺れ、まるで相談するかのように、ユイルの頭上で濃い葉を触れ合わせてざわめく。
ユイルは溜め息をついた。何はともあれ、意識を戻してもらうのが優先と、男の肩を叩いて呼びかけた。
「起きなせェ。なしただが~起きなせェ~」
男の瞼がぴくりぴくりと動いた。
薄ら開いた瞳は、暗がりに灰色に見えた。
やっと起きたか、とユイルは覗き込む。
「起きたな。なしただが。なしてこんなとこに寝てるが」
焦点が合っていなかった男の目が、ユイルの目と合う。
男はぼんやり呟いた。
「妖精・・・?」
「なァに言ってるだが、おめェ。ボケてねェでしっかりせェ」
真綿を鋼鉄の剣でぶった切るようなことを言うユイルの顔を男はじっと見つめたが、二、三回瞬きすると、また意識を失った。
ざわ、ざわ。
揺れるごとに、森の囁きが広がっていくみたいに、その音が降ってくる。
朦朧とする中で、彼は穏やかで優しいぬくもりに包まれ安堵した。
妖精を見た気がする。
馬の上に荷物のように乗せられて、風を切って夜の草原を走り抜けた。
草原は露を散らしてキラキラと輝き、美しい人々が馬を駆って疾走する。
風と共に笑い声が聞こえ、浮遊感に包まれた。
そして、光が差したら、キラキラとエメラルドのような瞳が光ったのだ。
薄暗がりの森の中、自分を見下ろすその影。
あんな美しい顔は、この世のものではないから、きっと妖精だ。
『なァに言ってるだが、おめェ』
ん?
宝石の瞳がゆらめいて、景色が掻き消えそうになる。まだその瞳を見ていたいのに、と目をぎゅっと瞑ると、虚しくも彼女は掻き消え、意識が浮上した。
目が覚めた男の視界に飛び込んできたのは、天井の木目だった。
壁際に様々な種類の乾いた草や実が縄で括られてぶら下がり、ランプが部屋の中を照らしている。
ぼんやりとした頭を押さえつつ、体を起こすと、丸テーブルの側に、紺色のフードをすっぽり被った人物が座っているのを発見した。
誰だろう、と見つめていると、
「気ぃついたかぁ?」
若い女の声で、男はびっくりした。
「ああ、どうも」
「どうも、じゃないがぁ~。介抱してやっただに、礼はなしか」
「ああ・・・」
言われて気が付いた。そういえば、頭が重い。手をやると包帯がしてあった。怪我をしたのだろうか。
「薬草を塗って、包帯をしておいた」
「ありがとう」
ようやく礼を言った男だったが、いまいち釈然としない。
一体、自分はどこでこんな怪我をしたのだろうか。全く覚えがない。
「僕はどうして怪我を?」
「こっちィが聞きてぇくれぇだ」
体のあちこちに触れると、かすり傷がたくさんあるようだ。少し背も痛む。重症ではないが、満身創痍と言っても過言ではない程度には怪我をしていた。
「森の奥さ続く道に倒れていたかんら、連れてきただ。馬さ落ちたやうだったせ」
「落馬?」
男は不可解そうに、首を傾げる。
ユイルはそんな男の様子を見て嫌な予感がした。
背が高くて牛の荷車に乗せてやるのも大変な男だった。つるつるとした、光沢のある黒髪。端正な顔立ち。目が開くと、澄んだ小川のような色だった。雰囲気からして、気品が漂う。この人間が、わざわざ変な小径に入り込んで、ただ落馬した馬鹿だとは思えなかった。何処ぞで大事にされている人間なのだろうと察しはつく。
怪我が思ったより酷かったのと、後頭部にも瘤があったので、丹念に介抱してやった。後は目が覚めれば自力でこの男は出ていけるようになるだろうと見繕っていたのだが。
不安そうにこちらをチラと見た男が口を開く前に、ユイルは立ち上がって言った。
「とりあえず飯にすっか」
「あの」
「・・・・・」
「お名前は、何とおっしゃるのですか」
「・・・ユイル」
「ユイルさん」
「・・・そだ」
「あの、ここは何処なのでしょう」
「ハルファッファの東部地区サーコイの外れの森の中だ」
「ハルファッファとうぶちく・・・」
ぼんやりした目をする男に、ユイルはキツい口調で促した。
「食わねぇと冷めるかんら」
「ああ、すいません」
男は目をぱちくりして、豆の粥を啜る。温かく、まろやかで素朴な風味に、思わず「おいしい」と呟いた。
その呟きは当然、ユイルに届いていたが、何も言わず黙々と粥を啜った。
男は女の様子を観察した。食卓についても紺色のマントをすっぽりフードまで被ったまま。何故か、フードや俯き加減で、常に巧妙に顔を隠しているので、何を考えているのか分からなければ、顔も分からない。男は戸惑った。
若い女だとは思うけど、と粥を啜りつつ、男はこの食卓を共にする影のような女と、室内を見回した。
先程の寝室と続きになっている部屋だった。台所はすぐそこにあり、釜とパンの焼き場がある。瓶に詰めたベリーや野菜やナッツを収納している壁際の棚に、タペストリー。出入り口のそばには上着と鞄がかけてあった。食卓は四角テーブルで、椅子は四却ある。だが、食卓についているのは、ユイルと男のみだ。他に誰かがいる気配はなく、静かな部屋にスプーンが皿の底に触れる音だけが響いた。
「ここにはユイルさんだけですか」
「・・・・・」
「あそこに置いてある編上げの靴、随分細かく模様が編まれていますね。すごいですね」
「・・・・・」
応えようとしない女に、男は会話を諦めて、とりあえず、食事に没頭することにした。
豆の粥以外には、蜂蜜、木の実、カブの煮物、それから炙った干し肉が食卓に並べられていた。干し肉は怪我をした男の為に出して来てくれたらしく、ユイルの分はない。
何も分からない男だが、これが質素であることは分かる。しかし食材の一つ一つの味が美味しい。
手当もしてくれ、もてなしてくれ、大事な保存食まで用意してくれるのだから、この人はいい人なのだろう。男は食べる内に、そう納得した。
夢中で干し肉に齧り付いたが、ギリギリと犬歯を使って肉を噛み切ろうとして、なかなか噛み切れない。顎が鍛えられそうだと真っ白になる頭の片隅で考える。
「おめぇ、どこぞの王子様か。そげな肉も噛み切るのにいっぺぇになるたぁ」
ユイルは呆れたように言い、その次の瞬間にしまった、と口を噤んだ。
男は肉を必死に噛み、急いで飲み込むと前のめりになってユイルに向き直った。
「そのことですが、実はぼく」
「何もしらん。わたは、何もしらん!!」
「お願いです、聞いて下さい。貴女しか頼れる人がいないんです!!」
手にすがろうとした男の手をするりと抜けて、ユイルはマントを体にぴたりと巻きつけた。
「知らん。手当はしたった。もう夜だかんら、今宵は泊まるがいいが。それから、うちさ帰りぃ」
「そんな」
「そもそも、わたは家に男を入れたらいかんと親に言われて育ったかんら」
若い女の弱った声。紺色マントは肩を竦めた。
「やぶっちまったかんら」
「・・・それは申し訳ない」
「おめぇのせぇだ!!」
男はびくりと飛び上がった。
だが、一にも二にも、とりあえず、このままではまずい。男は必死に言った。
「しかし、帰るにしても、ここが何処だか分からなければいけないのです」
「ハルファッファが分からないが?その言葉遣い、都人がな。森の奥に住むわたも聞いたことあるが。そなでば王都ホルンに帰りぃ」
王都ホルン。
「・・・何処ですか、そこ」
「そこからかいぃ?」
ユイルが呆れた声を出して、がっくり椅子に腰を下ろした。
「あのぅ、言い難いのですが、僕は僕が誰なのか分からないのです」
フードで顔は隠れているが、男にはユイルがぽかーんとしてこちらを見ているのが分かった。
「そいつは、記憶喪失というものかんら?」
男は困り顔で頷いた。
「どうやら、そのようです」
「名前は?」
「・・・分かりません」
「年齢は?」
「それも」
「え゛~~~~~~」
心底驚いた、という声を出して、ユイルは迷惑をアピールし、考え込んでしまった。
へぇ、マントを被っていて、一切顔が見えなくても、この女性は声の調子がコロコロ変わる。
仕草を見ていれば、表情と同じく、その人の感情が伝わってくるものだな。
男はしげしげとユイルの様子を見つめてそんなことを思った。
腕を組んでいたユイルは、きっぱり言った。
「わたがおめぇを拾ったが、森の小径の最中が。そのほかは分からん。」
「そうですか・・・」
「長くも置いておけねぇ。今日はもう遅いかんら、明日早くに村の駐在に申し出るこった。めぇごの案内してくれるろ」
めぇご。
僕は迷子か。
何ともいえない気分だ。
「今夜は泊めてやるだ。うちさ帰っても、ここのことだ話すな」
「それはどうして?」
「森の奥で静かに暮らすのが我が家の方針かんら」
我が家の方針。
男は言葉に詰まった。
〝我が家〟と言ったって、ここにはあなた一人しかいないのではないか?と、思わず言いそうになる。
「まぁ、とにかく、寝ろ!明日の朝、家を出ろ!そして二度とくんな!それでよかろ?」
何がどうと方針があるわけではない男は、頷くほかなかった。
「んんでィ?」
翌日。
フードをすっぽり被った女、ユイルは、腕組みをして自宅の前に仁王立ちすることになる。
「なしておめぇがここにいるだ!!!」
戸の前で草を抜いていた男は悪びれず、笑って言った。
「いやあ、駐在所に行ったら、追い返されまして。行くところがないので、戻ってきました」
「二度とくんなと言ったが―――!!!てかそりゃ薬草だ勝手に抜くなな――――――!!」
ぴ、と指を差して高い声を上げるユイルの姿を見て、男は「すいません」と言って思わず笑った。
追い返されたのは、本当である。
ユイルの家で夜を明かし、朝食をもらってから、薬草を売りに行くというユイルに案内されて森の入り組んだ小径から抜け出した。
サーコイ村でユイルと分かれ、駐在所を見つけるまでは順調だった。
草色の制服を着用した若い駐在は、金髪を綺麗に撫でつけ、きちんと制服を着こなした男前だった。
駐在は村の若い娘と話していたところにやって来た「記憶がない」「自分のことが分からない」と話す記憶喪失の男に対し、ひどく不機嫌な顔で応じた。
おまけに、若い娘は記憶喪失の男を見ると頬を染めたのである。駐在は更に不機嫌になって娘を追い出した。
鳶色の気だるい目で頭から爪先までじろじろ眺め、ふぅーと溜め息を吐いて駐在は煙草を吸い始めた。
「見たとこアンタずーぶん怪我しとんが」
「起きたらこのようになっていました」
「都ことばが」
「そのようですね」
「んで、あすこの森の女に介抱されたが?」
「はい、大変親切にして頂きました」
駐在はがしがしと頭を掻いて、とりあえず、というように調書を書いた。
男は駐在の態度と応対に不信感を持った。駐在はきちんと訓練をし、騎士の精神を学んだ人物であるはずなのに、この不親切さは何であろう。
いや。自分はどこでこの知識を得たのだろう。
引っ掛かりを感じてモヤモヤし始めた男に、駐在があっけらかんとして言った。
「ま、喧嘩して、頭殴られて、記憶が一時的に飛んだってとこかんら」
男は片眉を吊り上げて、問うた。
「あなたは医者か?」
「医者だねーが、だいてぇそんなもんだかんら」
駐在は下品に大きな笑い声を上げる。不愉快な気分で黙りこくった男を、じっくり眺めて言う。
「記憶喪失の信頼できる判断は医者しかできないと思いますがね」
「ずーぶんはっきりした記憶喪失だな」
「そのようで」
「おめぇ、芝居してんが?」
「まさか。今一番困っているのは僕ですよ」
ふーん、と、駐在は煙草の煙を吐き出す。
「それともあれか?おめぇが領主様なのか?」
「領主?」
駐在は乱雑に紙が入れられている書類箱から、紋章付の紙を取り出した。
「行方不明で見かけたら城に知らせろだっせ。ほら見ろ、つい昨日、城からのお達しが。特徴は薄い青ぇ目に、ブラウンの髪・・・はっはっは、おめぇは黒髪だ、惜しかったな!」
駄目だ。まともに取り合わない。
男はこの駐在と話す行為自体が徒労であると悟り、席を辞して他にまともに話を出来る人間を探しに行くべきだと腰を浮かしかけた。
その時。
「どうせ地主の放蕩ヤロウだなおめぇ。森の奥の陰気な女に引っ張りィ込まれて、シケこんでやがったな。まーまー間違いはあるもんかんら、さっさ思い出して家さ帰りぃ」
男前の、白い歯を剥き出しにした笑い顔に、男は昨夜の怪我も構わず長い足で蹴り上げて、目の前にあるテーブルを叩き込んだ。
と、いう話を、記憶喪失の男はユイルに茶を入れながらかいつまんで話をした。最後の部分は、「少々腹の据えかねることを言われたので駐在と揉めることになってしまいました」とぼかした。
「それでその後、駐在をぶちのめした代償に、村の中を逃げ回る羽目になりまして」
「そらそうだ」
「人目につかないところ、つかないところ、と思って逃げていてふと思い出しました」
男はにっこり微笑んだ。
「ここは大変、人目につきにくい」
「何ここさ逃げてきてんだボケ!!」
ぶち切れ気味の藍色フードに、よい香りがする紅茶を「まあまあ」と優雅に薦め、男は懇願した。
「お願いします、僕は誓って、理由もない野蛮な暴力を振るったわけではない。彼は僕や他の人間をも愚弄するようなことを言った。侮辱を甘んじて受ける男など、男ではないのだ。しかし、あの駐在はそれなりに権力を持つ人間だ。僕は今、丸腰の記憶喪失の男。どう考えたって、公平でない、分の悪い状況に僕は置かれているのです」
男が木のテーブルに寝かされていたユイルの手を両手で握ると、はっと息を呑む音がフードから発せられた。構わず、男は訴えた。
「僕をしばらく、ここに匿ってくれませんか。ここにいる間、あなたの役に立つよう頑張りますから」
ユイルは口をむぐむぐとさせた。困った。ほとんど知らない男に手をとられるのも初めてであれば、このように頼みごとをされるのも初めてである。
いつの間にかちゃっかり居間に入られて、お茶まで淹れているので、何か巧妙な感じがしなくもないが、昨日拾ったボロボロの男であるのは確かである。
昨日から何だか変な感じだ。まるでまったく違い世界に入り込んでしまったような気がしている。壁にかけられた気に入っているドライフラワーも、棚に並ぶ様々な種類のベリーの瓶詰も、昔家族で使った茶器も、この男のせいで全く違うものに見えるのだ。
どうにか断れないかと、お父さんが、と言いそうになって、この家にはもう自分以外の人間はいないという事実を思い知らされる。自分の判断で左右される他人の処遇や、自分の運命に、ユイルは恐れを感じた。
「家に、他人は入れるなと」
「お願いします。あなたが困るようなことや、危害は決して加えません」
祈るように頭を垂れる男に、ユイルは溜め息をついた。
荷車を引いて、いつもの日のように帰ってきたつもりだった、今日。
この男が扉の前にいるのを見た瞬間、昨日で何かが変わってしまったと、悟ったのも確かだった。
何か、が何なのか、まだ分かりたくないけれど。
「分かったが」
「本当ですか?!ありがとうございます!」
歓喜の表情で、男はユイルに感謝して頭を下げた。
男がユイルに居候を頼み込んだ理由に嘘はない。
だが、目の前にいる、未だ顔を見せない女に対する好奇心は、否めなかった。
森の奥へと続く入り組んだ小径。藍色のフード。長いこと家族が住み続けてきていると感じさせる家や畑。
肌理細やかな白い手はほっそりと美しく、手の中に温かい。
一体、このユイルという女が、何者なのか知りたかった。
男は自分が何者か分からない恐怖よりも、その好奇心に飲まれている自らの余裕のある心を発見した。案外度胸の据わっている人間であるらしい。
それだけ分かれば、まず十分だ。名前や身分や立場はその後でいい。
「ただし」
ユイルはふっと男の手から抜き、マントを翻して立ち上がった。
「条件があるかんら」
「何でしょう」
ユイルは堅い口調で、告げた。
「わたの顔を、絶対に見たらなんねぇ」
頑なな藍色のフードに、秘密が閉ざされていた。




