1 領主様は記憶喪失
まただ。
また、この時間がやって来た。
ハウプト・ウィクリカイトは不満を吐き出すように溜息をついた。
頬杖をつき、部屋中を視線でなぞる。
窓からは午前の日射しが差し込み、執務机に置いた金のペンとペン立てを光らせている。
目の前には、品のいい花の刺繍がされた背もたれがついた、木彫の美しい肘置きの椅子。その向こうには応接用に同じ色合いのソファが置かれている。
書類棚、本棚、ワゴンの上に水差しとコップ、絨毯、古い甲冑、王から賜った宝飾物。
何も滞りはない。領主の申し分のない仕事部屋だ。
なのに、違和感は拭えない。
主たるハウプトは見えないぼんやりとした不満の正体を自問した。
ふと空くこの時間は一体何なんだろう。
朝、執務室にやって来てから、猛烈な勢いで書類を処理し、一時の忙しさはどこへやら、ゆったりとした時が、この空間に流れている。
最近、いつもそうなのだ。そう、具体的には、五日前から。午前中に仕事をすると、昼に届かない時間に終えてしまう。手持無沙汰になったハウプトが、何か仕事はないか、と確認済み書類を持って出て行こうとする使用人に問うけれど、使用人はびっくりした顔して、後は午後の分になりますからと言う。
仕方がないので、この不思議な空き時間に違和感をもちながら、書類整理や各地の状況確認に使う。この無為な時間を、ハウプトは物足りなさを感じながら、過ごす。
それが五日続いているのだ。いくら何でも、五日も書類整理を続けていれば整理は充分行き届くし、各地の状況もほとんど例年通りだ。少しずつ変化があるに過ぎない。
この時間は、書類整理や領地の状況確認を行う時間ではないのだ。
時間の配分を考えて、もう少しゆっくり午前の仕事をすればよいのだが、それが何故だかできない。長年続いた慣習や、条件反射のように、午前の仕事をその時間通りに処理してしまう。
一体、この時間は何なのだろうか、自分はどういう行動をしていたのだろうか。思考を巡らせるも、何故か、ハウプトにはこの時間を何に使っていたのか、思い出せない。
どうも、五日前までは、この時間に何かがあった気がしてならないのに。
届きそうで届かない、大事なことを思い出せない焦燥感のみが鬱積していき、いつももやもやとしたまま午後が始まる。
四方を山に囲まれた、領邦国家ホルン王国の一地方ハルファッファは、肥沃な土地を有する広い農村地帯である。国王からその地を預かる領主のハウプト・ウィクリカイトは、若いなりに安定した領地経営をしていると評判の領主だ。領民には堅実でいて親しみやすい領主様として信望が厚い。
ハウプト自身は、経験豊富な使用人や役人に恵まれていたからそれなりにやってこれた、と思っている。早くに亡くなった両親に代わり、両親を支えていた使用人・役人・地元有力者たちは、両親に対するそれと変らない手厚さで十八で領地を継いだハウプトをあれやこれやと助けてくれた。今、ハウプトが評判のいい領主として立っていられるのは、彼らのお陰といってよいだろう。
ハルファッファは毎年大量の農作物を収穫し、国民の豊かな生活を支える、国の食糧庫という異名を持つ土地だ。ウィクリカイト家は代々温厚な人柄の領主を輩出するため、敵対する貴族もいない。田舎だから権力絡みの闘争心を向けられる面倒もないともいえる。お伽話や妖精譚の多い地方としても知られ、それらの物語は国の宝として、ハルファッファは愛されてもいた。
とどのつまり、平常通り領地経営をしていれば、ハウプトは平和に過ごせた。何不自由なく、また不安もない、幸福な生活。ハウプトは親しい支援者や領民たちに感謝し、日々を過ごしていた。目立ったこともないが、波乱もない、ハウプトは安寧をもたらすこの平和な領地を、愛していた。
もっとも、小さな波乱が起ることはある。そしてそれはいつもハウプトが原因だといって良い。
ブラウンの髪に、小川のせせらぎが空を映したような澄んだ瞳。口髭はいつもきちっと整えている。上品な服装に身を包み、物腰は柔らかい。人当たりがよく、優しい性格。王都に出入りする貴族らしい、訛りのない言葉。
これらの要素は多くの女性をときめかし、ハウプトは引く手数多だった。来るもの拒まずといった体のハウプトが女性に囲まれ、または追い駆けられ、それを彼の保護者代わりの使用人たちがやきもきして蹴散らすといった騒動が過去に幾例かある。
ハウプトがどんな人にも優しく、流されるままなわけで、その波風立てない性格が災いする唯一の欠点といえようか。
その穏やかな性格に似つかわず、今、ハウプトは苛立っている。
光沢をもったブラウンの髪を掻き上げ、違和感の正体を、空虚感の原因をその目で探していた。
五日間、執務室で釈然としない時間を過ごして、焦燥が積もっていた。
自分の勘が、それが異常事態だと告げている。
珍しく、ハウプトは自らそれを解決したがっていた。
安穏としていたい性分だというのに。
考えても考えても、思い出せない。暗い迷宮に迷い込んだかのような感覚。
さて、どうしたものか、と、再び執務室を順に見回す。この引っ掛かりのヒントを無意識に探し始めたのはいつからだったろうか。始めから、なんとなく、探し始めていた気がする。五日分の違和感が、それより前にあったはずの習慣を確信に導いて、より明確な意思がハウプトを突き動かしている。
ふと窓辺が目についた。窓の外には、石造りの城壁が見え、その上にはよく晴れた青い空が広がっている。
外は気持ち良さそうだ、とぼんやり思った瞬間、脳裏にキラリと何かが光った気がした。
そうか、部屋の中にないのなら、外へ探しにゆけばいい。何も、執務室の中に記憶が落ちているとは限らないのだ。
散歩がてら、それもいいだろう。
ハウプトはそう思い立って、勢いよく立ち上がった。
すれ違うメイドや役人に挨拶をしながら、城の廊下を抜け、外へ出た。
晴れ晴れとした初夏の空は青く、白いひつじ雲がぷかりぷかりと浮いている。
じきに暑くなる季節を思いながら、敷地内を散歩する。内心の焦りを表には出さず、ゆったりと歩きながら、城や塔、青々した木々や、活気ある人々に目をやる。顔見知りの役人や、騎士たちは顔を輝かせて、ハウプトに挨拶をした。
領主の館であるこの城の敷地は広い。城はもとより、役所と使用人の居住区、騎士舎や鍛錬所、厩舎、集会所、迎賓館、図書館、城周辺の土地から獲れる作物のための巨大な備蓄庫、武器庫、畑まである。それらをぐるりと石造りの強固な城壁が囲んでいる。
更に、城壁の周りに賑わいをみせる城下町の外側にも、堅牢な石造りの壁が聳えている。
こうした城と町の作りは、もともと地元の一有力者がこの辺りを治め、隣接する土地の有力者と小競り合いを繰り返してきた名残である。城は要塞であり、城壁は住民を守護する砦であった。百年前に領邦国家としてホルン王家が有力諸侯を束ねる前までは、必要あらばこの砦に全ての住民を収容し、敵と戦った。今はその役目を解かれているが、もともと多くの住民がその中で生活し、持ち堪えられるよう造られた城である。ひとつの村がすっぽり入ると言ってよいほど、敷地は広い。
役所に来た農民と村役人。談笑する騎士たち。馬を連れた厩務員。染物を積んだ荷車。吠える犬。大きな木の木陰に座る老婆の周りに子供たちが集まっている。「昔、昔。ハルファッファの城に、旅の者がやってきた。その旅の者は、姉姫の妬みを買い隣の国を追われたお姫様だった。とても美しいお姫様を見て、お城の王子様は・・・」しわがれた声で、お伽話が語られる。
北側を見やると、集会所の建物の向こうに、お伽話から抜け出たかのような『賢者の塔』がにょっきりと空を突いていた。
挨拶を交わしながら歩を進めていたハウプトは、井戸端で洗濯女たちがシャボンを泡立ててシーツを踏み洗いしているところに出くわした。
彼女たちは領主に親しげに挨拶をした。
「ああ、こんにちは、領主様。今日も畑ですかぃ。何日も空けるなんて、珍しいこったですなァ」
「今日はよく晴れてっから、畑の方も精が出ますなァ」
この地方特有の訛りのある女たちの言葉。
ハウプトはぴたりと足を止めて、何気ない風を装って洗濯女たちに尋ねた。
「畑はいつも通りかい」
「えぇ、みなで肥料を撒いております」
「夏の野菜がぢきに生りますかんら」
「奥方様がみな引っ張ってやってるかんら」
奥方様。
誰のことだろう。
小波のように笑いが起こる洗濯女たちの、にやにやした瞳がハウプトに集まる。
むず痒い気分が身体の奥底から湧き上がる。
おくがたさま。
何かが引っかかる。
今日も畑ですかぃ、ということは、自分は畑に行っていたのだろうか。
胸がざわめいた。自分は五日間、畑には行っていない。
ハウプトは微笑み返して丁寧に礼を言い、井戸端を後にした。
当然、足を向けた方向は、城郭内の畑である。
次第に早くなっていく足取りに、ハウプトはあることを確信していた。
分かる、分かるぞ。身体は覚えている。この道も、小石も、用水路の上を過ぎるのも、訓練所の角を曲がるのも、樫の木の前を通り過ぎるのも、繰り返してきた順序なのだと。
畑に近付いて、急いた気持ちで足を動かしていたハウプトに、突如、向かいから頭巾に長衣をまとったふくよかな中年女性が突進してきた。
ぎょっとして、ハウプトは寸前に足を止めた。すごい形相をした乳母のニームスだった。
ニームスはハウプトに飛びかかると、「旦那様!!!」と声を上げて、自らの乳を飲ませて育てた若き領主の服を掴んだ。
ハウプトは焦った。目前なのだ。厩舎とその側の木の向こうに畑はあり、作業している人たちがちらと見える。しかし、この乳母を無視することは出来ない。
ニームスはそんなハウプトの焦りも知らず、すがって泣き出さんばかりに声を上げた。
「一体、この五日間はどうなすったと言いなさいますェ!?畑の方に見えないたぁ、たまげましたわ!!」
ハウプトは呆然とした。
畑。やはりそれが、自分の失われた習慣だったのだ。
五日間という日数、己は畑に訪れていない。符号が一致する。
しかし、何故、それを急にすっぱり忘れてしまったのだろう。
ニームスがこれほど取り乱すとは、何事だ?
ハウプトは半狂乱の乳母に問うた。
「僕は五日前まではちゃんと畑に来ていたのか」
「来ていたもなんも!かんならず、いらしてたなんだ!旦那様が、旦那様がわたしが止めてもそうしてたなんだ!何の知らせも寄越さず、その態度はいけん!あの子は一生懸命やってますがな!わっちは旦那様を、旦那様を、そんな子に育てた覚えはないっだ~~~!!」
ニームスは普段、ハウプトの前では王都で使う標準語で通している。王城に召されたときも困らぬようという心掛けだ。
が、気持ちが昂ると地元の言葉に戻ってしまうのだ。随分と心乱されているらしい。
あまりの嘆きようにハウプトは目をぱちくりとさせて、乳母の背を撫で、宥めながら、頭の中に浮かんだ疑問を問うた。
「ニームス、あの子、とは?」
「・・・はぁ?」
ニームスはぽかんとハウプトの顔を見上げた。
「何言ってんだ旦那様」
「いや、分からないんだ、それが」
「覚えてないが?」
「それが、そうなんで」
ようやく、ハウプトの異変に気付いたニームスは、表情を一変させた。
「・・・こんのアホんだらァ!!!」
バシーン!と一発、ニームスはハウプトの頭を思いっきり叩いた。
くらくらとした衝撃に耐え、ハウプトは情けなさそうに謝る。
「すいません、ニームス。覚えてないことで怒られるのは悲しいけど、僕は謝った方が良さそうだね」
「当たり前です。旦那様が我を通してきたことではないですか。このニームスも承知して、あの子の手助けをしています。ふん、まあ、忘れるとは!今となってはあの子の方がよっぽどマシですね!!!」
腰に手を当てて、乳母は理路整然と叱った。
怒り心頭、振り切れて冷静になったらしい。言葉も標準語に戻っている。
ハウプトは頭をさすりながら、「心配かけるね」と言う。
やれやれ、と頭を押さえて、ニームスは溜め息をついた。
「また誰かにちょっかいを出されているようですね」
「ちょっかい?女性に?」
「違います。それも覚えてないとは、情けない。貴方は妨害を受けているのですよ。もう大分、周囲の同意を得られるようになったと思ったのですが。これはあんまりです。あぁあ、ニームスは呆れて物も言えません」
「ごめんよ」
キッと薄いブルーの瞳で睨んで、ニームスは「謝るのは私ではありません!」とキツく言った。
「まあでも、ここまで来たということは、何かしら思うことがあってのことでしょう」
「そうなんだ、さすがニームス。この五日間、何か違和感が拭えなくってね。心のどこかに穴が空いたようなんだ」
「よろしい」
よろしい、て何だ。
何を許されたのかと首を傾げるハウプトに、ニームスは腰に手を当てて臨んだ。
「私が案内いたします。いいですか、今となっては皆、旦那様よりあの子の味方ですからね!」
ニームスが先導してハウプトを畑に案内した。むせ返るような土の匂い、支柱に巻きついて広がる野菜の葉の緑。その間を縫って、小作人が作業している。
作物は順調らしい。夏の収穫を待つ野菜畑を通り過ぎると、種蒔き中の畑があった。
途端、ハウプトの目線はある人物に吸いつけられた。
やや遠目に、鍬を振り上げて、畑を耕し、畝を作る作業をひたすら続けている若い女がいた。
いた。
あれだ。
あの子だ。
その女性は、作業用の灰色のドレスに、ハルファッファ地方特有の染め方をした緑色の頭巾を被っている。顔は見えないが、白い細腕は、意外にも逞しく、躊躇なく鍬を振り下ろす。畑作業をしている小作人は、他にも男も女もいるのに、何故か最初からそのシルエットから、目が離せなかった。
一点を見つめて、固まってしまったハウプトの姿に、ニームスが呆れたように肩を竦めて、ちょびっと微笑んだ。
「旦那様、どうされました。お分かりにならないのですか?」
まるでパズルのピースが見つかった感覚とでも言おうか。予感と爆発しそうな思いが、頭痛になりそうなぐらいに膨らんでくる。
今すぐ駆け出して、抱き締めに行きたい。
いや、待て、まだ記憶がない。ハウプトは深呼吸をして、努めて冷静になろうとした。髪を掻き上げ、顔を顰める。届きそうで届かない感覚に、焦燥感で目が回りそうなほどなのに、自分に何がないのか未だ理解していないのだ。そんな状況で、あの緑の頭巾の人物と接触するのは、憚られた。
しかし、ハウプトはほとんど確信していた。洗濯女たちのにやにや笑いと、「奥方様」という言葉。ニームスが「あの子」と呼ぶ人。
そう、ニームスは前は「ハウプト様」と呼んでいたのに、「旦那様」と自分を呼んでいた。
しかし、もし自分の勘違いだったらどうしよう―――ハウプトが不安に駆られたとき、規則正しく畑を耕す動作が、ふっと止まった。
鍬を杖に、背筋をぴんと伸ばす。
一息ついた緑の頭巾がこちらを振り向いた瞬間、ハウプトは呼吸を忘れた。
宝石のような、美麗な顔がそこにあった。
「――――――――――ハウプト!!!」
目が合った瞬時、その顔が憤怒の形相に変り、女の声が高く鋭く響いた。
ハウプトは思わず微笑んだ。ほっとしたのだ。彼女が自分を知っている、というだけで。怒鳴られているのに、それにすら安心した。
無意識に、ふらりと一歩出て、腕を広げていた。
その若い女は鍬を放り投げると、スカートを少したくし上げ、身軽に畑の畝をひょいひょい跳んで横切ってハウプトに突進してきた。周囲で作業していた小作人は笑い顔でそれを眺めている。
彼女は躊躇なく、ハウプトの腕の中に飛び込んできた。
飛び込んできた瞬間にとれた頭巾から、豊かな濃い茶のウェーブのかかった髪が露わになる。
「なんで来てくれなかったが!!待ってだのに!!」
ハウプトは満ち足りた気分で、細い体を抱き締めた。
ああ、この感触!
その髪に顔を埋め、においを思い切り吸い込む。
土と汗のにおいと、緑のにおい。存分にその感触を堪能していたところ、
「旦那様」
と、咳をする者がいた。
妖気の漲る気配と怒気の籠った呟きが、求めていたものが手に入った感動に舞い上がっていたハウプトを一瞬にして墜落させた。
目の端に、憤怒の形相のニームスが見えて、こりゃいかん、とハウプトは彼女の肩に手を置いて小さな体を離した。そう、自分には確かめねばならないことがあるのだ、と努めて平常心を心がける。
が、見下ろして思わず息を呑んだ。
丁寧に磨かれて、最大限の魅力が引き出されるようカットされた、エメラルドのように煌めく緑の大きな瞳。小さな鼻と桜色に色付く唇。リスを思わせる顔立ちは愛らしく、それでいて魂を吸い取られそうなくらいな清廉な魅惑を感じる。
絹のように光沢をもった柔らかな濃い茶の髪。肌の白さといい、しなやかな体躯といい。近くに寄るだけで惑わされてしまう、妖精のような美女がいた。
離れたところで見たときも美麗らしいとは思っていたが、近くで見るともっとすごい。これが自分の腕の中に飛び込んできたのだと思うと急に動揺して、身体が熱くなった。
その美女が口を開いた。
「なんだァ、旦那様。ほうけぇた顔して、なした。こん五日間、何かあったが」
言葉は思いっ切り地元だ。
ハウプトは苦笑した。この見たこともないほどの美女は、どうやら地元の女らしい。
妖精は目をぱちくりとさせ、不思議そうにこちらを見上げる。
もう少し離れて、向き合うようにする。微笑みを作ったが緊張した。天にも昇るような気持ち、それから絶望に突き落とされそうな予感。グラグラと揺れる、この不安定な気持ちをどうしてくれよう。何としても彼女を失いたくない。
しかし、五日間と彼女は言い、明らかな符号は自分の確信とも一致する。
ならば、ハウプトは真実を確かめるためにも、彼女に言わねばならないことがあった。
「大変申し訳ない。先に言っておくが、僕は貴女を失いたくない」
彼女はぽかんとした表情になった。
「何を以て信じてくれと言って良いのか分からないが信じて欲しいし、勘違いであったら困る。だが確信している。どうか寛容な心で僕の言葉を聞いて欲しい。何なら、一発殴ってくれても構わない」
「旦那様、往生際悪ぅございます」
ニームスが半眼になって迫った。
ハウプトは一回深呼吸し、遂に妖精に言った。
「すまない。どうやら僕は五日前から君の存在を忘れてしまっていたらしい」
「は?」
「ありていに言えば、記憶喪失になっているようなんだ」
「何を―――」
「しかも、君のことだけ」
妖精は暫しの間呆然として、目を瞬かせたのち――――
ガツーンッ!!と、鋭い鉄拳をハウプトの頬に打ち込んだ。
殴られた方向に青い空が見えた。白い雲があって、鳥が飛んでいた。
ああ、なんて平和な晴天の日に災難が僕に降りかかるのだ。
じんじんと、頬は痛む。
ハウプトは穏やかな青空を恨めしく思った。
それでも、ハウプトは何一つ思い出していなかった。一体、自分はどうしたというのだろう。目の前にいる女性は、自分に関係する人間であるはずだというのに。
焦りと、悲しい気持ちとで、ハウプトが途方に暮れていると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
驚いて向き直ると、妖精が肩を震わせて、おかしそうに笑っていた。
怒っていたのではないのか、と困惑して見つめていると、目が合った。
エメラルドの瞳が優しげに光っている。
「ホンに覚えておらなんだ、な、ニームスさ」
「本当に間抜けですねぇ。奥方様、訛りをお直しなさいませ」
「おっと、いかん」
妖精は悪戯っぽく口を押えて、それからおそるおそるハウプトを見上げた。
そして、隙あり、とばかりに、ばっと腕を広げ、ハウプトに抱きついた。
呆然と抱き留めるも、笑い声の震えが伝わってきて、むっとしてハウプトは聞いた。
「一体何だ、妖精さん」
「妖精さん、ね。懐かしいです」
「懐かしい・・・か。何がおかしいんだい?」
「変な旦那様。おかしいに決まっているではないですか」
妖精はその可愛らしい顔でハウプトを見上げると、にっこりした。
「初めて私と会ったときも、あなたは記憶喪失だったのですよ」