最終夜 夢が追いつくとき
24
カノンは思わず目を瞑った。爪が背中に刺さる音が聞こえたが、不思議にも痛みを感じなかった。
少女が恐る恐る目を開けると、正面にアイルがいた。カノンの盾になるように立ち、その小さな背中にはヒトモドキの爪が刺さっていた。
「アイル!」
少年の体はカノンにもたれるようにして崩れ落ちた。
ヒトモドキは唇を歪めると、もう一方の手をかざした。カノンは金縛りにあったように動けないでいた。赤い一角獣の姿はない。主の怒りに呼応する星座だが、今の少女を支配しているのは恐怖であった。横たわるアイルの体に、今度は自分の番だという実感を与える。
その硬直したカノンを遮るようにして、マイントワース氏が立った。顔を恐怖で青ざめながらも、椅子の残骸を構えて威嚇した。
「化け物め、カノンには指一本触れさせんぞ!」
ヒトモドキは哄笑した。『良いパパのままで死にたいってか?』
鋭い爪の生えた指先を、カノンから彼女の父親に標準を変える。
「だめえ!」
カノンが叫んだ時、耳を塞ぐほどの銃声が後ろで響いた。警官の一人の持つ銃から火花が散ったのだ。断末魔と共に、縁に立っていたはずの怪物が消えるのが見えた。銃を撃ったのは、ドンガル巡査長だった。万年巡査長という閑職にあり、孫と違わない年のノエルやミコに顎で使われている、このうだつの上がらない中高年警察官が持つ唯一の特技は射撃だった。
「野郎おいしい役目を……金的蹴りの刑、決定だ」
ノエルが、彼の後ろから呪詛を吐いた。
カノンは膝をつくと、倒れている少年の背中から爪を抜き取った。そして、彼の小さな体を壁にもたれさせた。
「アイル、しっかりして!」
少年が薄っすらと目を開けると、まつで他人事のように「怪我はない?」と言った。
カノンはアイルの手袋を外すとその手を触った。氷のように冷たかった。すっかり道化の化粧が落ちた顔は徐々に蒼白になっていく。
少女が首を振ると、彼は安心したのか頭を壁につけた。
「カノン……君のパパを許してあげて。あの人にとって、カノンしかいないんだ。カノンだってそうだ。君のパパは一人しかいない」
「でも、アイル、私は――」
「パパが許せないんだね。……僕には親がいない。生まれた時から他の人しかいなかった。でも、カノンは違う。だからお願い、もう一度だけ信じてあげて」
「違う!」カノンは少年の手を強く握った。「アイルは一人なんかじゃないわ」
先刻まで煮えたぎっていた、周りへの怒りは少年の手と同じく冷めて、違う思いが涙に変わりこみ上げる。
助けたい。救いたい。命を代えて助けてくれた、(もしかしたら初めての)友達を。
背後に気配を感じた。いつの間に、一角獣が少女の脇に立っていた。だが、先ほどみたいな烈火に包まれた毛並みではなくなっていた。顔つきも穏やかになり、白目には人に似た黒い瞳が宿した一角獣は白い毛並で覆われている。
――この子は雌かもしれない。カノンはその眼を見て、なんとなくそう思った。
ユニコーンは首を伸ばしてアイルに顔を寄せた。頭を下げて、角の先端が少年の胸元に軽く触れた直後――カノンは今夜で何度目かの奇跡を垣間見た。
アイルの顔色が蒼白から元の血色に見る見るうちに戻っていった。冷めていた体温が平熱を取り戻していく。
「アイル?」
少年を揺り起こしてみると、彼はゆっくりと目を開けた。
「ここは天国なの?」
少年の第一声に呆れながら、カノンは抱き寄せた。
「一体何が起こったのですか?」
後ろからミコ探偵が恐る恐る聞いてきた。
「一角獣の星座がアイルを助けてくれたの」
ノエルが頭の近くで手を回した。
「かわいそうに。とうとう令嬢も頭のネジが吹き飛んで――」のところで、ミコが助手の頭を力一杯に叩いた。小気味いい音が部屋に響いた。
「確か、一角獣の角にはあらゆる毒を癒す力があると、何かの本で読みました。まさか、空想や知識を星座の力に伝達できるとは……」
「でも社長、星座なんてどこにも見えませんよ」頭を抱えながら、ノエルは言った。
「見えなくて当然。星使いの召喚する星座達は当人達の想像力の産物なのです。我々を含めた常人には不可視の存在。同じ星使いだけが共有できるのでしょう」
だから、カノンにはアイルの呼んだ双子座や水瓶座が見えたし、彼らの外観も一角獣と似て非なるデフォルメをしていたのだ。
「彼らは夜空の星を通して、生命を与える力を持っているのか、はたま、観念の力によるのか、すべては憶測に過ぎません。いずれにせよ――」とまで言うと、訝しむマイントワース氏の方を向いた。
「アイル君はカノン嬢の命をかけて守りきり、カノン嬢は少年の命を助け、自身の殻をも破った。確かに星使いの力は謎に包まれていますが、彼らの力の使い方は決して邪ではない、と私は思います。あなた様もそうでしょう?」
マイントワース氏は少年少女を見つめた。
「妻を亡くして以来、私にはカノンしかなかった。だから、訳の分からない力をこの子が持っていたと知った時、世間の目から守ろうと誓った。だが、結局のところ、私は怖かっただけかもしれない」
「無知ゆえの過ちだったのです。この一件で知り得たはず」
マイントワース氏は少年少女に歩み寄った。
「カノン、今まですまなかった。また、私を信じてくれるか?」
「パパ……」カノンは一度、アイルを見た。彼の眼差しを何かを決意したのか、父親に向かって大きく頷いた。父親は安堵した。
「でもね、お願いがあるの」
「なんだね? 何でも言ってごらん」
「私の部屋には鉄格子も外鍵のドアのつけないでね」
「ああ、もちろんだ」
「それと……アイルと友達になっていいよね」
マイントワース氏はアイルに聞いた。
「アイル君、カノンはずっと一人にしてしまっていた。初めての友人になってくれるか?」
「はい」少年の返答の声は明朗だった。
「ありがとう」とマイントワース氏は娘の頭を撫でた。「娘をよろしく頼むよ」
ノエルがボソリと呟いた。「娘婿に言ってるみたいじゃないか」
案の定、ミコ探偵は拳骨を飛ばすと、一同に確認するように言った。
「これにて一件落着、でよろしいですね、皆さん?」
ハンカチ片手でもらい泣きをしているドンガル巡査長が頷く以外に反応はなかったが、探偵は満面の笑顔で一人合点した。
「よろしい」
静寂を打ち破るように、ノエルが抱えていた無線機が高らかに鳴り響く。耳を抑えながら受話器を傾けるノエルが、「こちら、ミコ探偵社。リーペ提督? はい、社長に変わります」と、受話器をミコに無言で渡した。少年探偵の顔は、先ほど死にかけていたアイルと同じように青ざめている。
ミコ探偵は眉をひそめながら電話を取りつないだ。
「リーペ提督、何か問題でも起きましたか?」
(ミコ探偵、大変ですよ! 早くそこから逃げて下さい!)
「藪から棒に何です? 何があったんですか?」
(飛行型のヒトモドキが《ドーム》内に侵入したんですよ。それもさっきの何倍もの数! 仲間の血を嗅ぎ付けたのか、そちらの建物にまっすぐ向かっています!)
ミコは何も言わなかったが、受話器を持つ手は震えている。
「あとどれぐらいで到達するか分かりますか?」
(ええと……すでに百メートルを切り、あと一分もありません)
「もっと早く言え!」と叫んで無線機を切った。「皆さん、一刻もここから避難して下さい!」
その時、怪物の咆哮が轟いた。それもかなり近くで。
25
格子もガラスも吹き飛んだ窓の向こうから、小さな粒がいくつも映った後はあっという間だった。おびただしい数のヒトモドキ達が両翼を羽ばたかせ、マイントワース社の屋上近く、まさにカノンの部屋へまっすぐと向かっているのが見えた。
「逃げろ!」誰かが叫んだ。
カノンはアイルの肩に手を掛けて立たせようとした。少年の足はまだふらついている。マイントワース氏が少年をおぶさる。カノンも一緒に逃げようとした時、伸びた手が少女の足を掴んだ。
一気に引っ張られるカノンは床に散らばった物を捕まえようとしたが、バタつく手は空を切るばかりであった。
「カノン!」と叫ぶマイントワース氏の声を聞いたアイルは、背中から離れると、カノンを捕えたヒトモドキにめがけ突進した。窓の縁を飛び、中空を跳躍し、ギリギリ怪物の一方の足に捕まった。
ヒトモドキが振り落そうとするのを、アイルはしっかりとしがみ付く。その間に他のヒトモドキが群がり、アイルに向けて手をかざす。
「いけない! ミコ社長、リーペに攻撃許可を」
ノエルの提案に首を振る。
「今、レーザーを放つと二人に当たります」
「じゃあ、どうすれば?」
その時、群がるヒトモドキを何かが一蹴した。散り散りになった怪物達は唖然とする。カノンの顔は明るかった。
「ユニコーンが戦ってる」
すでに怒りの赤ではなくなった一角獣が、少年に襲いかかろうとする軍団を蹴り上げ、威嚇して近づかせないようにしている。だが、キリがない。次々とビルに押し寄せるヒトモドキの数は徐々に増えつつある。
チャンスはこの時しかない。アイルは決断した。
「カノン、僕が合図したら、こいつの足に刺して」と小さなナイフを手渡した。ナイフ投げの先輩からもらったものだった。
「でも、私は空は飛べないわ。アイルだって、もう力が出せない」
「僕を信じて。きっと、二人とも助かるから」
カノンはアイルの瞳を見た。初めて会った時から変わっていない。無邪気で純粋で勇気のある輝きを放っている。
カノンは小さく「分かった」とだけ言った。
「3」
カノンも一緒に数えた。向こうから飛行船が接近している。二人が逃げれば、存分に戦えるはずだろう。
「2」
徐々に胸が躍る。不思議にも恐怖はなかった。
「1」
少女はナイフを持つ手に力を込めて振り上げた。
「0!」
カノンは目をつぶり、怪物の足に刃先を突き刺した。予期せぬ攻撃に、ヒトモドキは絶叫を上げた。そして、少女を掴む足が自由になり、カノンは重力に従って、怪物の足から離れた。やや遅れて、少年が手を放して中空に身を任せた。
カノンはその時、父親が自分の名を呼ぶのを聞いた。
エピローグ
少女の体は、重力の赴くまま、ビルの側面に沿うように落下を続けた。
窓ガラスのない遊園フロアから、巨大な時計盤を、止まったままの振り子を過ぎていく。一体、どこまで落ちるのか?
ビルの入り口に当たるかけ橋の真横を抜けた。華やかな地上から闇に包まれた地下の世界へと落下は続く。何層もの地下層を通過する。刃物のように鋭い風が頬をかすめる。服がバタバタ波打った。
ついに、落下点が視界に入って来た。そして、カノンは叫んだ。大きな顔が待ち構えていたのである。あの夢で見た、ピエロの怪物。緑の肌に、血走った目で空から降る彼らを見つめる。牙がはみ出す口の横にはこう書かれていた。
『ヘマ野郎は地獄行きだぜえ!』
まるで漫画の吹き出しみたいだった。
夢ではこの後何が起きたか? そう思った矢先、カノンの手を少年が強く握った。彼女はアイルの顔を見ようとした直後、少年と共に怪物の顔に突っ込んだ。
それはおかしいほどに弾力があり、一度、二度ぐらい大きくバウンドした。
アイルを下敷きにするように倒れていたカノンは起き上がって、気絶している少年の頬を軽くたたいて起こそうとする。
目を覚ましたアイルが起き上がろうとするものの、馬乗りになった少女が邪魔になった。カノンは慌てて横にどくと、自分達が乗っている物を確認した。それは巨大なトランポリンだった。『巨人が落ちても丈夫なトランポリン』とそのままな印刷があった。
「なんで、こんな所にトランポリンがあるのかな?」
「意外とうまくいくもんだね」
アイル曰く、それはサーカスで空中ブランコに使われているトランポリンらしい。彼はこれがあるのを知っていた。だから、危険な事が出来た。そればかりではない。アイルのいるサーカスは、マイントワース社のちょうど真下に佇んでいたのである。
「じゃあ、ノエル達から逃げる時に遠回りしたの?」
アイルが能天気に頷くと、少女は彼の頭をポカポカ叩いた。怒っているが、その口元はほころんでいる。
「ひどいよ! アイルなんて、大嫌い! もう知らないから!」
「……ごめん」馬鹿正直に反省している様子だった。
本当に申し訳なさそうに謝るアイルに、カノンは涙を出しながら笑った。怖かったのと、死ぬほど楽しかった感情が混ぜこぜだった。
しばらく、二人はトランポリンの上であおむけになっていた。はるか遠くの空で、細長い光が走る。飛行船のレーザー砲だろうか。銀色の光が黒い点々の周りを飛んでいる。ユニコーンが戦っているのだ。
「当分戻れそうにないね」
カノンの中に新しい勇気が芽生える。トランポリンから降りた。
「一人で大丈夫?」
「うん、もう大丈夫」
アイルが何かを言うとする前に、カノンは大きな扉を開けて、出て行った。しかし、少しして扉が開いて、少女が顔を出す。
「カノン?」
恥ずかしがりながら言った。「道に迷っちゃった……」
「分かった。改札口まで道案内するよ」
アイルがトランポリンから降り立ったが、バランスを崩して頭から地面に落ちた。少女が駆け寄ると、泥にまみれた顔が上がった。
彼女は微笑んだ。アイルもつられて笑った。
顔を拭いて、アイルが手を指し伸ばす。その手を掴む。
「行こう」
「うん」
二人は大きな扉を開けて、その部屋を後にした。
ガタンと錆びた鉄の音を響かせて消える。後に残るのは、煙突の底に当たる空間に満ちた、静謐な時間だけであった。
少年は掛け替えのない友を得た。言わずもがな、少女は勇気を学んだ。
ただし、アイルとカノンの冒険はもう少し続きそうだ。
THE END




