第六夜 ユニコーンの角
22
弓をつがえるアイルの足首を何かが掴んだ。
アイルはバランスを崩したが、縁につかまって耐える事ができた。足首を掴んだのは、最初に追いかけてきた連中の残りだった。振り回して落そうとするが、足首に捕まるヒトモドキはビクともしない。
カノンは部屋のドア近くの壁に背をもたれている。顔を沈めていて、微動だにしない。
「カノン!」
アイルは呼びかけたが、少女は起きる気配はなかった。
肉屋のエプロンをかけたヒトモドキが、彼女の姿を遮った。顔の皮は半分までめくれ、眉のない不気味な白目と、角張った頬、陥没した鼻が垣間見える。いびつに捻じれた口元が勝利に歪んだ。
『悪いが、落ちてもらうぞ』と、ヒトモドキは手をかざして、アイルに向けた。
トモドキの爪先は鋭利な上、致命傷に至る毒が含まれている。アイルは縁から上がろうとするが、足にすがりつく怪物が重くて力が入らない。縁を掴む手が痺れてきた。
怪物の三本の指から、紫色の爪が発射された。
アイルは意を決し、残った少しの力を最大限に放出して上昇した。少年がいた位置に、代わりに足を掴んでいたヒトモドキが入れ替わるようにして引き上げられ、猛毒の爪が怪物の胸辺りに深々と刺さった。
文字通り、人ならぬ断末魔が足元でこだました。同時に、足首に食い込む力が消える。アイルの足を放したヒトモドキは、数回壁に激突しながら遥か地上へと姿を消した。
『貴様、同胞を殺しやがったな!』
風前の灯があえなく消えるようにして、アイルは中空から部屋の床に落ちた。今までにない疲労が襲いかかる。重りを背負っているみたいだった。しかも運悪く捻挫していた足が悲鳴を上げた。激痛にアイルは小さく呻いた。
『力も運も底を尽いたみてえだな、おい』
アイルは、傍にある勉強机に手をついて体を支える。足首が悲鳴を上げている。立っているのがやっとだったが、痛みをかき消すような勢いで怪物をにらみつけた。
「カノンを返せ」
『骨と内臓は返してやるともさ』
アイルは再び弓をつがい、目の前のヒトモドキの顔に向けた。
「その子を傷つけてみろ。ただではすまさないぞ!」
自分でも信じられない凶暴さ、アイルは初めて困惑した。違う、それではいけない。目の前にいるヒトモドキと変わらない。心の中に籠った暖かい光が冷めていくのを自覚し、アイルは後悔した。
『やなこった』怪物はなお、不気味な嘲笑を続ける。『前々からこの金持ち娘を狙っていたんだよ。オレはこの小娘の代わりになって、豪勢な暮らしをしてやる。もう外は御免だ』
「あんたは人じゃない。ここには入って来てはいけないんだ」
ヒトモドキの主食は、人間である。人間を喰う事で、彼ら自身に成り代われるとあくまで盲信している。どう考えても相容れず、共存などできない。だからと言って、無駄に殺生をしてもどちらも獣に堕ちるしかなくなる。
「もうどこにも逃げられない。もうすぐ、人がたくさんやって来る。今のうちなら逃がしてやる」
『俺達はその人間になるんだ。偽者だってかまいやしねえ。ホンモンが一人残らず死ねば同じだろが!』と、サッと手を少年に向けた。
怪物の腕が伸びるのを、アイルは咄嗟に勉強机の陰に隠れた。机の引き出しを貫通した爪が獲物を探す軟体動物のようにうねる。鼻先に避けていたが、挫いた足にまた痛みが走り、アイルは今度こそ呻いた。高らかな笑いが聞こえてくる。ヒトモドキは力一杯に腕を振ると、刺さっていた机が椅子ごと吹っ飛んだ。
机の影に隠れていたアイルの姿ががら空きとなる。少年に逃げる暇を与えず、ヒトモドキの手が迫りその首に巻きついた。
アイル手をばたつかせては抵抗した。しかし、一気に締め上げる力が気道を狭め、少年は苦しげに呻くしかできなかった。
『あいつらは時間稼ぎだ。ただのガキなら殺すのに造作はねえ。俺達は、貴様ら人間よりも頭が良いぞ。これでも俺達は人外か? え?』
「人は……力や知恵を、そんな事には……」首吊りの状態のまま宙に浮かされながらも、アイルは言葉で抗う。「つか……わ……ない。使っちゃいけないんだ」
ヒトモドキは握力をさらに強めた。少年から苦悶の色が浮かぶ。口の端から涎が垂れ、ばたつく手足も徐々に弱まり、顔からも生気が抜けていく。
床に倒れていたはずのカノンが、頭を抱えながらゆっくりと起き上がった。アイルが怪物に首を絞められているのを見て、大きく叫ぶ。
『こいつの顔もついでに頂いておくかな。その次がお前の番だ』
ヒトモドキは嘲笑すると、机を飛ばした手を少年の顔に近づける。見習いピエロの化粧が剥げた、赤く火照る肌に鋭い爪が向ける。
「やめて」
カノンの声は凛としていた。今までの弱気さが嘘のように消えている。深い記憶の棚の奥に押し込めていた感情が息を吹き返し、少女の体を立ち上がらさせ、怪物の背中を睨ませる。少女の瞳に輝きが宿った。
怖気が走ったのか、ヒトモドキが訝しげに少女の方を向く。餌の様子がどうもおかしいと気づいたのか、少年の首に加える圧迫を緩めた。
「やめてぇぇぇっ!」
叫んだ少女の背後から、黄金の光が立ちのぼる。やがて光は角の生えた馬、一角獣へと姿を形作った。
突然の出来事に唖然とするヒトモドキを白目で睨みつけると、獣の毛並みが瞬時に黄金色から紅色へと変貌した。丸みを帯びていた角先が針のように鋭く尖る。
一角獣は腹の底からいななきを轟かせ、ヒトモドキに向かって猪突猛進した。避ける暇などあるはずもなく、ユニコーンの角先が、怪物の胴を貫き通した。肉屋に扮したヒトモドキは、人ならぬ断末魔を上げる。そしてそのまま、見えない力によって、体を串刺しにされたまま中空に持ち上げられた。
訳が分からない。最初はそう思った怪物であったが、自分を見据える少女の周りを星の粒子が舞っているのを薄く見え、すべてを悟ったのか顔を恐怖に歪ませる。
『小娘も星使いって……そういうのありかよ?』
一角獣は満足したように、頭を激しく振り、角先に刺さる得物を解放した。
放り出された瀕死のヒトモドキは、言葉にもならない罵りを残しながら、底の見えない摩天楼の谷間へと消えていった。
23
カノンの頭の中に思考と感覚が流入した。失われていた記憶の断片が互いにつながり合い、無色に色彩が帯びていく。すべてを思い出すのにハッとする驚きには程遠く、どちらかと言えば、夢から覚めた時に似ていた。
カノンは床に倒れている少年に歩み寄った。薄い胸の上から手を置いた。ピエロの衣装の下から、小刻みの鼓動が波打っている。飾りの多い衣装は所々が裂け、もともと傷跡の多い顔にできた、新しい打撲痕が痛々しかった。
「アイル……助けてくれてありがとう」
少女は、取り出したハンカチで少年の顔を拭いた。こんなに傷だらけの体で、ここまで上がって消えくれた少年をただただ愛おしく思えた。
アイルに耳元で、彼女は囁いた。
「全部、思い出しちゃった。わたし、ここで死のうと思ったんだよね」
アイルの体を壁にゆっくりともたれさせると、カノンはフェンスへ歩き出そうとした。その手をアイルが弱々しく掴んだ。
「カノン……」
少年の手を放させると、再び歩き出した。
ようやく意識が明朗としてきたアイルは、立ち上がって彼女を追いかけようとしたが、すぐさまその足を止めた。赤い一角獣が慄然と立ちはだかったのだ。使い魔である少女を庇護するように、角の先を少年の胸に向けている。尖った先には、先刻のヒトモドキの血がベッタリとこびり付いており、少年は背中を震わせた。
一角獣に負けじと睨み、アイルは一歩を進もうとした。角先がチョンと胸先に触れた途端、チクリと焼きつく痛みが走った。
「今度は助けないで。お願いだから下がって」
小さな声だが、風にかき消される事なく聞こえた
「カノン、心を力に委ねちゃいけない」
少女と、眼前に立つ獣の双眸が重なってアイルを見据える。
一角獣は凶暴であると同時に、気位が高く、孤高の星座でもある。星使いのアイルが手を増した数少ない存在だった。仕える者の質を見定めていると最初は思った。しかし今、一角獣とカノンは同じ感情を共有しているのだと、アイルは確信した。
いずれにせよ、一度、一人の星使いに対して強い忠誠心を抱いた獣は、主のためなら殺生も厭わないだろう。
角先から伝い、ヒトモドキの粘着質の血が衣装に着いた。洗濯係にまた怒られる――突如飛来した呑気な考えを打消し、アイルは仕方なく一歩下がった。
その時、部屋のドアが弾かれたように開いて、マイントワース氏と複数の警官、ノエルが続々と殺到してきた。アイルは駆け寄ろうとした一同を制する。
「こっちに来ちゃダメだ。一角獣がいる」
少年の言葉に困惑する一同に、遅れて部屋に入って来たミコ探偵が静かに語る。
「やはり、カノンさんは星使いなのですね、マイントワースさん?」
マイントワース氏は苦い顔を浮かべると観念したように力なく肩を下ろした。「その通りだ」と押し殺すように返答を漏らした。
「御息女が星使いであるのを知り、あなたは理解する前に恐れを抱いた。悩んだ挙句、大病を理由にこの座敷牢に幽閉した。【ドーム】一のメディアを誇る企業の社長の子が、地下層の力を持っているのが露見すれば一大事になる。地下層に対する差別もいまだ根強い。すべては、星使いと地下に住む人々への勝手な恐れに過ぎないにもかかわらず……」
「では、どうすればよかった? 私だって、この子がかわいい。亡き妻が残していったたった一人の子供だ。目に入れても痛くない、たった一人の娘……。世に晒すなんてできる訳がない。例え治らなくとも、一生この子の面倒を見るつもりだ」
「それでカノンさんは、はたして幸せでしょうか? ミスター・マイントワース、彼女の心を理解した事になるのでしょうか? 彼女がこの鳥籠を突き破ってあなた方の元を去ろうとしたのは、あなた達の想いを解さなかったわけではないと私は思います」
「一体何が言いたいのですか?」
マイントワース氏は力なく反論するが、沈黙が生まれるばかりであった。
「一緒に戦えばよかったんだ」アイルは声を漏らした。「カノンは一緒に戦ってくれる味方がほしかっただけなんだよ。そうすれば――」
「そんなのいるものか!」
カノンの声がほとばしった。同時に、見えない力が壁や天井を引き裂き、床の絨毯が燃えて蹄の形をした焦げ跡をつくる。
アイルを除く全員は突然の出来事に騒然としていた。少年の目には、部屋の中を暴れ、今にも自分達の方に猛進しようと威嚇する一角獣の姿がはっきりと見える。
カノンは顔を上げた。失望の眼差しを父親に向ける。すると、部屋を破壊する動きが止まった。しばしの沈黙が続いた。
「どうして分かってくれないの? パパは私が嫌いなの?」
口を震わせる少女は泣いていた。全員が彼女に視線を奪われていたためだったのか、縁から跳躍してきた影に隙を与えてしまう。異様に手が長く、ボロボロの前掛けをつけた怪物の胸には小さな空洞があった。
さきほど落ちたはずのヒトモドキの顔は、被っていた人の皮が完全にはぎ取られ、異形の顔から殺気に孕んだ三白眼をのぞかせる。
『クソガキも道連れだ!』
カノンとその場にいた全員が異変に気づくより早く、口から血反吐を飛ばしながら、ヒトモドキが手を伸ばした。三本指から飛び出した爪が、呆然とするカノンに向かって――。
つづく
次回の最終夜「夢が追いつくとき」は23日(日)の同時刻に投稿します。




