第5話 終わった初恋と、新しい恋と、兄たちの乾杯
最終話です。
断罪の後に来るものは、だいたい書類である。
ロマンも余韻もへったくれもないが、王宮という場所はそういうものだ。
処刑が決まれば執行手続きがあり、爵位剥奪には署名が必要で、財産没収には目録がつき、護衛騎士の解任にも当然ながら理由書が要る。
「夢がありませんわねえ」
「現実ですので」
イリスが即答した。
「王族の断罪は、事務作業込みでございます」
「言い方」
「事実です」
ヴェロニカ・リリス・サロメ・ド・ラ・クロワ・フォン・ローゼンブルクは、自室の長椅子にくったりともたれながら、目の前の書類束を眺めた。
「でも、満足よ!」
「でしょうね」
「よきかな、よきかな」
「ここ数日の姫様、それしか言っていません」
「だって本当に良い気分なのだもの」
ビアンカは落ちた。
オルロフ家も裁かれた。
王家を舐めた代償は、きっちり払わせた。
それで終わり、ならたいへん美しいのだけれど。
人生というのはだいたい余計な後始末がついてくる。
終わったはずの初恋である。
あれだけ好きだったのに、いざ燃えかすになってみると、びっくりするほど邪魔だった。
「姫様、ご機嫌ですね」
「これから片づく予定のものを思うと、少しね」
「目が輝いています」
「希望の光よ」
「処分待ちの男に向ける目ではありません」
イリスはさらりと言ったが、だいたい合っている。
ヴェロニカは机の上の書類を閉じ、ぱたんと音を立てた。
「さて。お兄様の方はどうかしら」
「ちょうど、ゼノ卿をお呼びになっています」
「まあ」
ヴェロニカはすっと席を立った。
「散歩に行くわよ」
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王太子執務室は、今日も無駄なく静かだった。
余計な飾りも、余計な温情もない空気で満ちている。
執務机の前に立つゼノは、以前よりひと回り小さく見えた。
顔色は冴えず、背筋だけが妙に強張っている。
体面を保とうとして、かえって崩れていた。
クロードは机の向こうで書類を置き、淡々と告げた。
「お前を、本日付で王太子護衛の任から外す」
ゼノの肩が跳ねる。
「で、殿下……!」
「理由は、理解しているか」
低く、平坦な声だった。
怒鳴っていないのに、追い詰められるように逃げ場がない。
「護衛騎士に必要なのは剣の腕だけではない。周囲を見て、意を汲み、危険の芽を拾う目だ」
ゼノは唇を引き結んだ。
「お前には、それがなかった」
クロードは容赦なく続ける。
「王家周辺で動く野心に気づけない。王女の感情も把握できない。私の不興にも気づかなかった。そのうえ私情と女の問題で王家の周辺を乱した」
一個ずつ刺していく言い方だった。
そう優しくないところが、たいへん兄らしい。
「学友の縁もあり、これまで置いていた」
クロードは淡々と続ける。
「だが、それが失敗だった。私が甘かった」
ゼノの顔色が、目に見えて変わっていく。
ようやく、自分が何を失ったのか理解し始めたらしい。
侯爵家三男としての体面。王太子護衛という職。それに付随していた将来の見込み。そしてたぶん、まだどこかに残っていた「なんとかなる」という甘え。
「申し開きは」
「……ありません」
ゼノの声はかすれていた。
クロードは短く頷く。
「これ以上、王家の近くに置く理由がない。下がれ」
クロードは感情で罰しているのではなく、職務不適格として切っているのだ。
それがむしろ、いっそう冷たかった。
ゼノは一礼し、ぎこちなく執務室を出ていった。
扉が閉まる。
クロードはそこで初めて、ひとつ息を吐いた。
「聞いていたな」
「ええ」
隣室の扉からヴェロニカが顔を出しても、クロードは眉ひとつ動かさない。
妹が盗み聞きしているくらいではもう驚かない。慣れとは恐ろしい。
「やっぱり外しましたのね」
「当然だ」
「お兄様、容赦がなくて素敵」
「褒めるな」
「褒めますわよ」
ヴェロニカは楽しそうに笑った。
その笑みを見て、クロードはほんの少しだけ嫌な予感がした。
「……お前、変なことをするなよ」
「変なこととは?」
「今の顔で言うな」
失礼な兄である。
もっと妹を信用していただきたい。
もっとも、今回に関しては若干、いやかなり、よろしくない企みがあるのだけれど。
向こうから飛び込んでこない限り、発動はしない。
⌘
ゼノがヴェロニカに取り次ぎを願ったのは、その日の午後だった。
場所は王宮の小さな応接間。
日当たりがよく、花が飾られている。
終わったはずの初恋を処理するにはなかなかよい環境だった。
ゼノの顔色は悪かった。
けれど、まだどこかで期待している目をしている。
人というのは、いよいよ追い詰められると都合のいい幻想にすがるものらしい。
「ヴェロニカ殿下。俺は間違っていました」
ヴェロニカは首を傾げた。
「何を?」
「あなたの気持ちに、応えるべきでした」
「……わたくしの気持ち?」
「はい」
「あなたに?」
「はい」
「いつの話?」
ゼノが固まった。
その顔を見て、ヴェロニカは本気で不思議だった。
怒っているわけではない。
皮肉ですらない。
本当に、いまさら何を言っているのだろうと思ったのだ。
「殿下は、俺を……」
「昔、好きだったことはあるわね」
あっさり言うと、ゼノの目にわずかな希望が戻る。
馬鹿というのは最後まで希望の持ち方が雑だ。
「なら……!」
「昔のことでしょう?」
「昔……」
「わたくし、もうビアンカ様も落としたし、だいたい満足しているのだけれど」
あまりにもあっさり言われて、ゼノの顔が引きつる。
彼はやっと知る。
怒りより無関心の方が、よほど刺さるのだと。
「やり直せないでしょうか」
縋るように言う。
「俺たち、もう一度……」
ヴェロニカは不思議そうにまばたいた。
「どうして?」
「どうして、とは……」
「わたくしが?」
「……はい」
「あなたと?」
「……はい」
「なんで?」
残酷なほど無邪気だった。
もうヴェロニカの中で、ゼノという存在は、感情を揺らす対象ではない。
ビアンカを落としたことで、初恋に絡んでいた意地も未練もまとめて片づいていた。
あとに残ったのは、燃えかすみたいな記憶。
それと、夜会でのゼノの様子を見たあとの少々の面倒くささだけだ。
「殿下、俺は……俺は愚かでした。あなたの価値も、気持ちもわかっていなかった。今ならちゃんと──」
「まあ」
ヴェロニカは、ぱんっ!と大きく扇を鳴らした。
「あなたに語られる価値など、ないのと同じね」
その瞬間、ヴェロニカの中でゼノの行き先はきれいに決まった。
王女の、王族の価値をこのように持ち出す愚か者に用はない。
イリスがそっと部屋を出た。
ゼノの顔が、ますます青ざめていく。
「で、殿下……」
「でもね」
ヴェロニカは、きれいに笑った。
「次のお仕事なら、紹介して差し上げるわ」
ゼノの顔がぱっと明るくなる。
まだ見捨てられていないのかもしれない、とでも思ったのだろう。
「ほ、本当ですか……!」
「ええ。とても向いていると思うの」
「ありがとうございます、殿下!」
そこでヴェロニカは、たいへん優雅に告げた。
「裏通りの宿屋なのだけれど、とても人手を求めているそうよ」
「宿屋、ですか」
「ええ。男娼が従業員として働く、評判のいい裏宿ですって」
「……は?」
「あなた、お好きなのでしょう?流されやすいあなたに、ぴったりだと思って」
ゼノの顔色が、今度は白を通り越して灰色になった。
「待ってください、殿下!俺はそんなつもりでは!」
「まあ」
ヴェロニカは目を丸くする。
「わたくしの気持ちを受け流して、ビアンカ様には流されたのに?」
「そ、それは……!」
「自分の意思で踏み台になったのか、気づかず踏まれていたのかは知りませんけれど、結果は、だいたい同じでしょう?」
こん、こん、と扉が叩かれる。
イリスが涼しい顔で連れてきたのは、二人の屈強な男だった。
どう見ても宿屋の従業員ではない。
どちらかというと、問題客を静かに運び出すのに慣れている類いの男たちだ。
「お迎えです」
「い、いや、待っ……!」
「さあ、ゼノ卿」
ヴェロニカは手をひらりと振る。
「適職紹介って大事でしょう?」
「で、殿下っ……!殿下ああああ!!」
引きずられていくゼノの叫びが、廊下の向こうへ消えていく。
ヴェロニカは優雅にカップを持ち上げた。
「ごきげんよう、終わった初恋さん」
「容赦がございませんね」
イリスが言う。
「これで本当に、よきかな、よきかな」
「ようやく聞き飽きてきました」
「ひどい侍女ね」
ヴェロニカは確かに満足していた。
これで本当に、全部終わったのだ。
⌘
数日後、 今度はもっと建設的な話をするために、ヴェロニカは再びクロードの執務室へ突撃した。
「お兄様には、セレスティアがお似合いだと思うの!」
「入ってきて第一声がそれか」
クロードは書類から顔を上げ、げんなりした。
最近の彼は、妹が来るたびにまず天井を見る。
神に祈っているのかもしれない。
「ええ」
「なぜそうなる」
いい?お兄様、とヴェロニカは得意げに話し出した。
「あの子は控えめだけれど聡明よ。派手な野心はない。でも、必要な時にはちゃんと耐えて、見るべきものを見られるわ」
さらに重ねる。
「王太子妃には、目立つ強さだけじゃなくて、黙って支え続ける強さもいるでしょう?」
「……続けろ」
クロードは腕を組み、椅子の背にもたれた。
「カスティル侯爵家との結びつきは国にとっても有益ですもの。ベアトリクスも跡取りとして優秀だし、家そのものが安定していて信頼できるわ」
「そこまで考えていたのか」
「まあ。わたくしを何だと思っているの?」
「勢いで国政に口を出す妹」
「……だいたい合っているわね」
クロードの口元が、少しだけ緩む。
「それに」
ヴェロニカはにやりと笑う。
「あの子、お兄様のことが好きよ」
クロードが少しだけ黙った。
本当に少しだけだったが、ヴェロニカはそれを見逃さない。
王女は恋と陰謀の匂いに敏感なのである。
「あら」
「何だ」
「今、間が意味深でしたわ!」
「お前は時々、余計なところまでよく見るな」
「王女ですもの!」
クロードは小さく息をついた。
そして、書類の端を指先でとんとん叩く。
考えている時のクロードの癖だ。
実際のところ、彼もセレスティアの資質は以前から見ていた。
控えめで、浮つかず、しかし必要な時には芯がある。
数字を読み、学びが深いことも評価している。
王太子妃候補として、十分視野に入る娘だ。
そして、彼女の視線が自分に向くときの熱にも、薄々気づいていた。
「正式に検討に入る」
「まあ、話が早い」
「お前が珍しく、私情と国益を両方並べてきたからな」
ヴェロニカは胸を張ってふふんと笑った。
「これでお兄様の未来も安泰、国も安泰、わたくしも満足!」
「私情の方が強そうだがな」
「まあ。人の気持ちを軽んじる組織は、だいたい足元から崩れるのよ」
「そういうことにしておこう」
⌘
後日、その話を聞いたセレスティアは見事に真っ赤になった。
「え、え、ええっ!?わ、わたしが……!?」
隣でベアトリクスが満面の笑みを浮かべている。
姉というのは、妹がこういう反応をするとたいへん楽しそうだ。
「よかったわね、セレスティア。長年の片思いが、ようやく日の目を見そうで」
「お、お姉様っ!」
「落ち着きなさい。まだ正式決定ではないわよ」
「もういまの時点で十分落ち着けません!」
ヴェロニカは満足げに頷いた。
ひとつ片づけたついでに、次の恋路まで整えてしまった。
たいへん王女らしい仕事ぶりである。
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すべてが片付いた午後、ヴェロニカは王宮の庭園を歩いていた。
薔薇は盛りを少し過ぎ、風に乗って花びらがゆっくり散る。
噴水の水音が遠くで跳ね、空は高く明るい。
隣を歩くのはクリストフだった。
いつものように気負いのない足取りで、けれどさりげなくヴェロニカの歩幅に合わせてくれている。
「ビアンカはいない。ゼノもいない。お兄様にはセレスティア。国も安定」
満足げに指折り数え、ヴェロニカは胸を張る。
「わたくし、完璧では?」
隣を歩くクリストフが噴き出した。
「完璧な王女は、自分の報復を国策に混ぜたりしない」
「王女らしい応用力と言いなさい」
「言い換えてもだいぶ危ないぞ」
「失礼ね。結果的に全部きれいに片づいたでしょう?」
「それは認める」
クリストフは少し笑って、それからふっと表情を変えた。
「リリ」
思ったより真剣な顔をしていて、動揺する。
「な、なによ、クリス」
言い返した瞬間、しまったと思う。
自然にこちらも幼名で呼んでしまった。
クリストフの顔に、どうしようもなく嬉しそうな笑みが広がる。
「今の、もう一回」
「いやよ」
「そこをなんとか」
「調子に乗らないで」
「無理だな。今かなり嬉しい」
やめてほしい。
そういう率直なのは心臓に悪い。
クリストフは少しだけ真面目な声になる。
「昔から好きだった」
ヴェロニカは固まった。
「……なにを?」
「リリを」
「わたくし?」
「そう。わがままで、プライドが高くて、妙な言葉の使い方をして、怒ると国を巻き込む」
「褒め言葉が迷子よ!」
「全部褒めてる」
「どこが!?」
「全部まとめて、リリだから可愛くて、好きなんだよ」
胸の奥がどくんと鳴る。
「ずっと、俺のお姫様だって思ってた」
鼓動ひとつでは済まない。
どくどくとうるさい。
ヴェロニカは思わず胸元を押さえた。
「なにこれ。心臓が反乱を起こしているわ」
「恋だな」
「恋って、もっと優雅で、花びらが舞って、弦楽器が鳴るものじゃないの!?」
「リリの恋だからな。大砲くらいはぶっ放されるだろ」
「やだ、納得しかけたじゃない!」
ゼノへの初恋は、遠くから見上げるみたいな憧れだった。
少しの意地と、たくさんの自尊心を混ぜた、きれいで扱いにくい感情。
けれど今ここで暴れているこれは、もっと近い。
くすぐったくて、熱くて、逃げたいのに逃げたくない。
見つめられるだけで落ち着かなくなる、ひどく厄介なものだ。
「……クリス」
小さく呼ぶと、クリストフは幸せそうに笑った。
「何、リリ」
「にやけすぎよ」
「無理だな。今、人生で一番嬉しい」
ヴェロニカはさらに赤くなった。
こんなに正面から好意を向けられると、王女だって困る。
「すぐに何かを決めるとか、そういうのは──」
「いいよ」
クリストフはやわらかく言った。
「急がない。リリの恋の速度で来い」
その言い方がずるい。
優しいくせに、逃がす気はない顔をしている。
「……ずるいわね」
「知ってる」
「そこは否定しなさいよ」
「好きな子には、ちょっとくらい狡い方がいいだろ」
よくない。
でも少しだけ、すごく、かなり嬉しい。
ヴェロニカは視線をそらして、小さく息をついた。
「保留よ」
「うん」
「でも、逃げる気はないわ」
「最高だ」
ひらけた庭園に、噴水の音がやわらかく響く。
恋はまだ始まったばかりだ。
それくらいが、今の二人にはちょうどよかった。
⌘
その日の夜。
クロードとクリストフは、王宮の一室で酒を酌み交わしていた。
派手な席ではない。書棚と灯りと、簡素な酒器。
男が腹の内をさらうには、そのくらいで十分だ。
「オルロフ家の密通疑惑は、以前から掴んでいた」
クロードがグラスを傾けながら言う。
「だが証拠が足りなかった」
クリストフは頷く。
「ビアンカを王太子妃候補にしたのは、近くに置いて証拠を引き出すためか」
「半分はな」
「残り半分は?」
クロードは少し黙ってから、実に平然と言った。
「ヴェロニカが怒っていた」
クリストフは呆れたように笑った。
「王太子が妹の私怨を国策に混ぜるな。ほんとに昔から妹には甘い」
「妹の私怨が国益に合致しただけだ」
「便利な言い換えだな。似たもの兄妹め」
クロードは気にした様子もない。
「隣国からの養子を入れたくなかった。ビアンカも、いずれ必ず害になると見ていた」
「まあ、否定はしない」
「ゼノはもともと護衛騎士から外すつもりだった」
「学友の情で近くに置いたのが失敗か」
「そうだ」
「俺も学友だけど?」
「お前はまともだ」
「ヴェロニカを好きな時点で、まともかどうか怪しいぞ」
「それもそうだな」
「おい」
二人は笑った。
酒の熱が少しだけ場をゆるめる。
それでもクロードの目は、王太子のそれのままだった。
「ヴェロニカは危なっかしい」
「知ってる」
「意志を押し通せる立場があり、高いプライドを守る術もある。そのうえ妙な方向へ走るから、小さな話で済んだためしがない」
「でも、国を害する一線は越えない」
「越えそうになったら?」
クリストフは迷わなかった。
「俺が止める」
クロードはその答えを静かに受け止める。
そして短く言った。
「頼んだ」
「妹を好きになった男への仕事が重すぎる」
クリストフは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
「王女を好きになるとは、そういうことだ」
まったくその通りで、反論しづらい。
「面倒な姫君だな」
「最高に面倒だ」
「でも可愛い」
「非常に」
窓の外で夜風が木々を揺らす。
クロードは、ゆっくりと杯を掲げた。
クリストフもそれにならう。
「わがままで、誇り高く、どうしようもなく愛しい王女に」
ちん、と澄んだ音が、小さく鳴る。
国の安定のために。新しい恋の始まりに。
そして、きっとこれからも誰より騒がしく、誰より眩しく生きていく、可愛い王女の未来に。
二人は静かに杯を傾けた。
夜は深く、王宮は穏やかだった。
──少なくとも、次にヴェロニカが何かを思いつくまでは。
「さて、次は何で遊ぼうかしら」
「できれば平穏と戯れてくださいませ」
「つまらないわね」
「でしょうね」
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