最終話 あの花は、いまもここに
王宮の露台に、一人の青年が姿を現した。
王都を見下ろす高所だ。石造りのバルコニーの下には、すでに大勢の民衆が集まっている。
セドリック・ランドルフ。
つい先日まで第二王子と呼ばれていた男は、いまやこの国の王であった。
深い紺を基調とした王装に身を包み、金糸で織り込まれた紋章が胸元に静かに輝いている。肩には重厚なマントが掛けられ、その縁には白銀の刺繍が施されていた。
風が、そのマントをゆるやかに揺らす。
セドリックはしばし、眼下の人々を見渡した。視線は逃げず、飾らず、まっすぐに民へと向けられている。
やがて、口を開いた。
「——この国は、大切な存在を失った」
低く、よく通る声だった。
その一言に、誰もが息を呑む。
セドリックは続けた。
「だが、我々は百年に一度の危機を乗り越えた」
迷いのない言葉だった。
奇跡を誇るでもなく、悲劇に沈むでもなく、ただ事実を告げる。
「私は、ある者に諭された。私の長所は、誰かに助けを求めることができることだと」
民衆の間に、小さなざわめきが起きる。
王は、ゆっくりと息を吸う。
「どうか、皆の力を貸してほしい」
その言葉は、命令ではなかった。
「どうか——これからも私に皆を頼らせてくれ」
粛々と、しかし、確かに言い切った。
その瞬間、世界が止まったかのような静寂が訪れる。
風の音だけが、露台をすり抜けた。
そして——誰かが、手を叩いた。
小さな音だった。それが、次の瞬間には隣へと伝わり、さらにその隣へと広がっていく。
やがてそれは、波となり、うねりとなり、歓声へと変わった。
王都を揺らすほどの拍手と声援が、セドリックへと降り注ぐ。
その音を受けながら、王はただ静かに、民を見つめ続けていた。
ギルド本部——副ギルドマスター、グレン・ハルフォードの執務室。
グレンはその中央で腕を組み、満足げに頷いた。
「今回の件、ご苦労だった」
対面に立つリザードテイルの三人へ、労いの言葉をかける。
カナンは大きく肩を落とした。
「もうメイドはやりたくない……」
心底うんざりしたような声だった。
その隣で、ユリウスが静かに頷く。
「僕も、今度こそ、女装は遠慮したいですね」
カナンは潜入調査を行い、その中で聖女の信頼を勝ち得た。ユリウスは災害の報告書を仕上げ、王族の秘匿した逃走経路を調べ上げた。
「君たち二人は本当によく働いてくれた」
グレンは素直にそう評した。
その言葉に、カナンは表情を緩め、ユリウスも口元を和らげる。
ヴァンが口を開く。
「……ま、というわけで、今回の件をまとめると、全部ネクラ女一人に国中が振り回されてたって話だ。俺はそいつの意志を汲んでやって、敢えて依頼とは別の方向で着地させてやった。ネクラ女も感謝してるだろうぜ」
満足げに頷きながら総括する。
ガチャンッ!!
「あっっぢぃい!!」
ヴァンの前にティーカップが叩き付けられた。
その後、全員の前に丁寧に湯気を立てるティーカップが置かれた。
爽やかな柑橘系の香りがふわりと広がる。ハーブティーだ。
そして、その湯気の先には、一人の女性がいる。
整った所作、無駄のない動き、そして、一切の隙のない静かな佇まい。
それは、完璧な秘書、と呼ぶにふさわしい姿だった。
「ヴァン……お前、本人を目の前にして、よくそんなことが言えるな」
グレンが呆れたように呟いた。
ミレイ・ベルノアは、何事もなかったかのように微笑んだ。
「お茶が冷める前にどうぞ。……セレナ様がお好きだった茶葉です。皆さまのお気に召すと良いのですが」
それは、かつて“最高の聖女”に仕えた“最高の侍女”の、あまりにも自然な一言だった。
カナンはしばらく言葉を失ったまま、部屋を見回した。
かつては書類の山が崩れかけ、どこに何があるのか当人ですら把握していない混沌の部屋だったはずだが、いま目の前に広がっているのは、別の場所と見紛うほど整えられた空間だった。
机の上には必要最低限の書類のみ。棚には分類された資料が隙間なく収まり、床には一枚の紙すら落ちていない。空気までもが澄んでいるように感じられる。
「これ、全部……」
視線が、ゆっくりとミレイへ向く。彼女は軽く首を傾げた。
「業務効率が著しく低下している状態でしたので、最低限の整理をさせていただきました」
あくまで当然のことをしただけ、と言わんばかりの口調だった。
最低限——という言葉に、三人は同時に無言になる。
グレンは大きく頷いた。
「十分だ。いや、十分どころじゃないな。過去がどうであれ、これだけ働ける人材を見逃すほど、うちは余裕のある組織じゃない。正直、助かるなんてもんじゃない。うちに来たのが運の尽きだ。もう手放す気はないぞ」
手放しの賛辞だった。ミレイは素知らぬ顔で、静かに受け流す。
ヴァンはその様子を見て、口笛を吹く。
「“仕事が出来て、口が堅くて、信用できるやつ”……か」
グレンは腕を組んだまま、満足げに頷いた。
ヴァンはミレイにだけ伝わるように唇だけを動かした。
「こいつが“魔王”になる男だ。支えてやってくれ」
「……ありがとう」
リザードテイルの三人は、誰ともなく視線を交わし合った。
——そのときだった。
扉がノックされる。
「どうぞ」
グレンの一言で、扉が開く。
姿を現した人物に、その場の空気が一気に張りつめる。
セドリック・ランドルフ。
この国の王が、護衛も最小限に、自らの足で執務室へと現れた。
カナンが目を丸くする。
「え、ちょ——」
言葉にならない声が漏れる。
だが、セドリックはそれには構わず、室内を一瞥すると、迷いなく、頭を下げた。
静かな動作だった。
「……このたびは、礼を言わせてほしい。グレン・ハルフォード殿、リザードテイルの皆様、本当に世話になった」
「いらねぇよ」
ヴァンはそれだけ言うと、ミレイを見つめた。
セドリックは覚悟を決めて、ミレイの前に膝を付けて土下座した。
「あなたは、まぎれもなく、兄上とセレナ様を救ってくださった。そのお心もわからずに無礼な言の数々、誠に申し訳ございません」
ミレイは一瞬だけ目を伏せたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「頭をお上げください」
穏やかな声だった。
セドリックはゆっくりと顔を上げる。
二人の視線が、静かに交わる。
そこには、過去を蒸し返すような激情はなかった。
「国王様がそう簡単に頭を下げないでください。それに、今の私は、冒険者ギルドの、グレン様の秘書です」
セドリックは小さく頷く。
「……そうだな。失礼した。今後とも、ギルドには頼らせてもらうことになる。……つまり、君にも」
「ええ。よろしくお願いいたします」
ミレイは簡潔に応じた。
それ以上、互いに踏み込むことはない。
その沈黙こそが、今の二人の距離を示していた。
「帰るぞ」
まるで場を読んでいないかのようにヴァンが言った。
カナンが思わず振り返る。
「え、ちょっと今いいとこ——」
「終わっただろ。用件は全部済んだ」
ヴァンはあっさりと言い、踵を返す。
ユリウスも後に続く。カナンは一瞬だけミレイとセドリックを見比べて言う。
「失礼します! それではまた!」
軽く手を振り、慌てて二人の後を追った。
外に出ると、穏やかな陽光が三人に降り注いだ。
「なんか……ようやく終わったって感じするね」
カナンが空を見上げる。
「ええ。ようやく、ですね」
ユリウスが静かに応じる。
ヴァンは特に何も言わず、前を歩いている。
ふと、カナンが足を止めた。
「……あ!」
視線の先、石畳の隙間に、小さな花が咲いていた。
紫色の、見覚えのある花だ。
「これ……」
セレナ・アストレアが大切に育てていた花。
今もそこに揺れている。
【第二章聖女の追放】お読みくださり、ありがとうございます。
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がんばって第三章を執筆中です。




