第4話 聖女はすべてを知っている
花々は、そこに立つ女性——聖女セレナ・アストレアを祝福するかのように、やわらかな風に揺れていた。
その花自体は、カナンにとって珍しいものでは無かった。国境付近でよく咲いている。
しかしカナンは、彼女とその花畑から目が離せない。
——こんなに綺麗な人、見たことがないかもしれない。
この人が、婚約者である王子に捨てられて追放される——?
カナンの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
そのとき、セレナが、ゆっくりとこちらを振り返った。
柔らかな髪が風に揺れ、その隙間から覗く瞳が、まっすぐにカナンを捉える。
視線が合った。
「すみません。貴女はカナンさん、でしょうか?」
穏やかな声が届く。
「は、はいっ!?」
突然名を呼ばれ、カナンは肩を跳ねさせた。
「新しく入ったメイドの方ですよね。ちょっと……、変わった方がいらっしゃると聞いていました」
セレナは悪戯っぽく微笑む。その声音には、からかいではなく純粋な興味が滲んでいた。
「へ、変わったって……」
カナンは頬を赤くし、視線を逸らした。
そこで気付いた。
“くれぐれもお相手に失礼のないように”
メイド長が言った“お相手”というのは、他でもない。聖女セレナのことだったと。
自分を気遣って、聖女に会わせてくれた彼女に、カナンは感謝した。
このチャンスを逃すわけにはいかない。二度、三度深呼吸をし、意を決して、聖女に話しかけた。
「でも……その、聖女様にお会いできて、すごく嬉しいです。わたし大好きなんです。あなたは歴代最高の聖女です!」
一瞬、セレナの瞳が微かに揺れる。
「……ありがとうございます」
そして、静かに問いかけた。
「カナンさんにとって、“聖女”とは、どのような存在でしょうか?」
「……え?」
カナンは素直に答えることにした。
「ただ、美しいだけじゃなくて、何よりもその心が自分の身を顧みず、人に尽くす……女神みたいな存在です」
「そう……、自分の身を顧みず……ですか」
セレナは、どこか遠くを見るように呟いた。
「それでしたら、私以上に、そういう方はいらっしゃいますよ」
控えめな声音に、カナンは思わず首を振る。
この国一番の女性の謙遜に面喰ってしまう。どうしてこの人はこんなに、と、純粋に不思議でならなかった。
カナンは必死に話題を探った。
「……あの、そ、それにしても、本当に綺麗なお花畑ですね」
「でしょう!!」
セレナは突然声を上げ、大きな瞳を輝かせた。
「この庭、朝と夕方で光の当たり方が違って、同じ花でも、時間によって表情が少しずつ変わるんです」
セレナは花壇の方へ一歩進み、しゃがみこむ。
「花ってすごいんですよ。ちゃんと見ていないと、昨日まで元気だった子が急にしおれてしまったりして。逆に、もう駄目かと思っていたのに、手を入れてあげただけで、驚くくらい綺麗に戻ってくれたりもするんです」
そっと花びらに触れるその手つきは、壊れ物を扱うというより、我が子を慈しむ人のものだった。
「それに、この花は可愛いだけじゃなくて、香りもすごいんです。実は特別な効果があって……」
くるりと振り返って、セレナは少し照れたように笑う。
「ごめんなさい。つい、話しすぎてしまいました」
「い、いえ!」
カナンは慌てて首を振った。
「その……すごく、お花が好きで、大事にされているんですね」
「はい。大好きです。この子たちを見ていると、世界はまだちゃんと優しいんだって思えるんです」
目の前の聖女を、カナンはますます好きになってしまっていた。
その笑顔を見ていると、カナンの中の緊張は気付けばすっかりと溶けていた。
だからこそ――次に続いた言葉は、あまりにも不意打ちだった。
「ところで――カナンさんは、冒険者ギルドの方でしょうか?」
「えっ!?」
カナンの声が裏返る。
「な、なんでそれを……?」
問い返すと、セレナは再び悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、女神の加護によるものです、と、言っておきましょう」
軽やかに煙に巻くような答えだった。
その瞳は――すべてを見通しているように澄んでいた。
「……あー、あはは、バレちゃいましたか」
カナンは観念したように頭を掻いた。
「わかっています。あなたは、私のために王宮まで来てくれたのでしょう?」
「は、はい。わたしはセレナ様を助けたいんです!」
どうせ見抜かれているなら、取り繕う意味もない。
折角の機会なのだから、聞きたいことは全て聞いてしまおう。
「率直にお伺いします。第一王子——エドガー・ランドルフ様のことを、どう思っていらっしゃいますか?」
「私は、あの方を愛しています」
セレナは迷わなかった。
それだけに、辛かった。エドガー王子の愛の行方が見えなくなってしまっていることが。
「聡明で、思慮深く、常に民のことを考えておられる……素晴らしい方です」
淀みなく言葉が続く。
セレナの語るエドガー王子像は、多くの関係者が語るそれと一致していた。
しかし、それは、あくまでも、過去のエドガー王子のものである。
現在は、恋に夢中の愚かな王子になってしまっていると聞いている。
その意中の相手というのが——。
「じゃあ、その……侍女のミレイ・ベルノアについては?」
「ミレイは、私の大切な親友です」
即答だった。
「彼女ほど信頼できる友はいません。優しくて、賢くて……本当に、いい子なんです」
カナンは、ぽかんと口を開けたまま固まる。
王子と侍女がただならぬ関係にあるという噂を、聖女が知らないはずがない。
なのに——どうして、こんなにも迷いなく褒められるのか。
カナンには、まったくわからなかった。それが聖女の在り方だと言うのならあまりに哀しい。
「……あの、辛くないんですか? あなたは、これまで尽くしたこの国から追放されるかもしれないんです!」
口に出してしまってから、カナンは気付いた。
自分は何を聞いているのだ。この人が辛くないわけがないのに。
「ごめんなさい! わたし無神経なことを」
「いいんですよ。そうですね。辛くないと言えば嘘になります。この国とこの花畑と、何よりも、一番辛いのは、大切な人と別れることです」
その言葉に、カナンは息を呑む。
王子と侍女の関係を知って、それでもなお、こうして穏やかに、誰のことも悪く言わない。
そのことが、カナンはたまらなくもどかしかった。
セレナは続ける。
「聖女として、皆に尽くしたいという思いは未だに変わっていません。ただ、それがもう、エドガー様に、皆さまに、望まれていないのなら……」
胸の奥に、じわじわと熱が溜まっていく。
——この方に、こんな顔をさせるだなんて。
悲しげに微笑むその姿を見た瞬間、カナンは頭の血が一気に沸騰するのを感じた。
「もう我慢できない!!」
気づけば、声が出ていた。拳を握りしめる。
「私、言ってやります!」
カナンはエドガー王子の元へと向かう覚悟を決め、踵を返した。
理不尽に立ち向かう英雄のようにカナンは走り出した。
「……え!? カナンさん!? 待ってください! どこに行くんですか? 待って、カナンさーん!!」
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