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貴族令嬢は図書室にいる  作者: こはく
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番外.ニコル・デリエリ

※ニコル視点です この話もまた暴力表現があります。



 『彼女』に初めて会ったのは、養女にする直前の事。遠くから見ただけの痩せぎすの少女。

 身なりは町の浮浪者よりもなお貧しく、伸ばしたままの黒髪を端切れで無理やり一つに束ねていた。まるで野生児のような風貌。林の中で木の根に腰掛け、裸足に胡座をかいた足の上に分厚い本が乗せられている。彼女を照らす灯りは、足元にある蝋燭の頼りない光のみだった。

 彼女は読書に没頭していて、一度も顔を上げなかった。時折頭をガリガリとかきむしり、凄まじい速さでページを捲ってゆく。

 この修道院中で一番悪い状態の服を縫い合わせて着て、食べ物も清拭用の水も年下の子どもたちに与えてしまうため、彼女が一番過酷な状態なのだという。私をここまで案内したエドワルドはそう語った。


「……アンはこの時間、毎日ああやって勉強しています。

 最初は年少に読み書き、計算を教えるためでした。今は大人たちの作る帳簿も読めますし、どうやら他国の語学本も読めるようです」


 エドワルドからそう聞かされた時はまさか……と思ったが、彼が服の下から出した紙の切れ端には帳簿の一部写しと、矛盾点の正確な記述。それらに関わる領収証数枚。帳簿原本さえ手に入れば十分不正の証拠になりうるものだ。


「アンは何も聞きませんが……俺が院の外に出て働いてることは分かっているようです。もし『なるべく偉くて信用のおける人物』に会うことがあれば、この手紙を渡して欲しいと頼まれていました」

「……」


 不正自体は子供だましのような小細工ばかりだったが、驚いたことに彼女の計算は正確で狂いがない。今後しっかりとした教育を受けさえすれば、王都で文官として働くことも出来るレベルだろう。


「これは私が預かろう。当家が全責任を持って、この孤児院運営を正常化することを約束する」

「……ありがとうございます。あいつの苦労が報われます」


 重要な着服と賄賂のの証拠を丁寧に懐にしまい込んだのを見て、エドワルドは深く頭を下げた。


「カーネリアンの処遇だが、今後は当家の養女として迎え入れる。

 先方との話し合いと手続きで王都へ行くため、10日はかかるだろう。彼女への危害を最小限に留めるように」

「分かりました」


 その後王都から戻り、その足でまっすぐ向かった修道院で見た彼女の姿は凄惨なものだった。飢餓に我を失いかけ、折れた左肩から指先まで倍に腫れ上がっている。懲罰房に入れられてはエドワルドも手が出せなかったようだ。それでも彼は何度か食ってかかったらしく、顔は痣だらけになっていた。

 院を来訪した私の顔を見たエドワルドは、彼女が確実に救われる安堵と、無力な自分への悔しさに歪んでいた。

 餓死寸前の少女の命を最優先するべく、私は孤児院の不正については何も言わずにただ彼女を連れ帰った。

 それからのひと月はカーネリアンの看病と、孤児院の不正の件に忙殺されていた。エドワルドは時折夜に院を抜け出し、彼女の様子を短時間見に寄っていた。清潔な環境と食事で大分血色が良くなり、静かに眠るカーネリアンを見たエドワルドの背中は震え、ぼろの服を握りしめながら歯を食いしばって泣いていた。

 部屋を出たエドワルドは私に再び、深く頭を下げた。


「アンを……カーネリアン様を、お救いいただき、ありがとうございました。彼女はもう身分こそ違いますが、自分の命と同じぐらい大切な家族なんです。

 俺は今後一生、侯爵様に忠誠を誓い、家族の命を救ってくれた恩を返すために生きたいです。厚かましいですが……ど、どうか俺を徹底的に鍛えて雇って下さい。どんな仕事でもやります」


 エドワルドはカーネリアンと同じ歳で長らく件の孤児院で暮らし、唯一院の大人たちを出し抜き外に出られる手立てを持った少年だった。それを利用するためカーネリアンの監視として即席で雇い入れた。

 最後こそ危なかったが、彼も非常に優秀な少年だった。頭の回転が速い上にコミニュケーションが高く、身のこなしも悪くない。少し遅巻きだが師を付けて鍛えれば立派な騎士になれるだろう。

 そうなればカーネリアンの護衛として打って付けだろう。エドワルドは家族を決して裏切らない。

 代償としてそれなりに汚れ仕事もしてもらうことにはなる。そう告げても少年の意思が変わることはなかった。

 孤児院の改善が済み、その後エドワルドを子爵家へ養子に斡旋した。その後メアリーを師に戦闘の訓練を課し、2年の間にカーネリアンと同じ学園へ入学させる手筈は完了した。



   ◇◇◇◇◇



「ニコル兄様ー」


 窓の外を見ると、庭の東屋でネリが無邪気に手を振っていた。私は書斎で書類仕事をしていた手を止め、侍従のクリスを呼んだ。


「もうそんな時間だったか」

「ネリ様は大変時間に正確でいらっしゃいますね」

「ああ」


 クリスが庭に続く窓扉を開く。私はゆっくりと庭に降りると東屋に足を向けた。

 入り口をくぐると二人の女性がいる。ネリと侍女のメアリーは私にサッと挨拶の姿勢を取り、恭しく出迎えてくれる。午後のティータイムの開始儀式のようなものだ。

 私はクリスが引いた椅子に腰掛け、注がれた紅茶で喉を潤す。そっと目の前に座るネリに視線を送ると、彼女は東屋の屋根から覗く緑深い庭を笑顔で眺めていた。その横顔には生気がしっかりと宿り、この陽気のせいか頬にほんのりと朱が差している。

 手入れをしていくうちに発揮されていく彼女本来の壮健さは、メアリーがまるで宝探しをしているようだと言っていたのを思い出した。あの土汚れとフケに塗れていた少女と同一人物だと、一体誰が分かるだろうか。

 あの頃から変わらないこともある。ネリの膝の上には厚めの本が数冊乗っていた。毎日一日一冊の読書感想を課していたが、彼女は無類の読書好きで、少なくとも3冊はたっぷり感想を語るまで止まらない。

 私も多少名の知れた読書愛好家であるし、書籍収集が唯一の趣味でもある。ネリが語る読書感想や考察は中々造詣が深い。意見交換や討論をしても、そこいらの貴族より弁が立つ。


 惜しむらくは、ネリにはやや人見知りのきらいがあったことだ。年の近い友人が居ない。

 それどころか深い交友関係を持つことを初めから諦めてすらいるような印象を周囲に与える。常に何かを諦観し、己の命に対する執着が驚くほど希薄で、奇妙なほどに儚い部分があった。まるで予め余命が自分で分かってでもいるかのような……

 読書感想をしている時は生命力に漲り、身体のどこも命に関わる持病などは無いことは検査済みだ。

 孤児院で常に生命の危機に晒されてきたからだろうか。メアリーに聞いても、周囲に不安因子は無いと言っていた。彼女の不安に起因するようなものが無いか、更に周辺を洗っておく必要があるようだ。

 私とこうして過ごす期間は絶対に安全であるということを、ネリには根気強く教えていかねばなるまい。



   ◇◇◇◇◇



 それから2年。

 ネリは16歳になり、当初の通達通り学園へ通うことが決まった。ネリはあまり気が進まないようだったが、学園の図書室に息を潜めるようにして篭っているそうだ。やはり友人と呼べそうなものは作らなかった。

 だが同時にエドワルドが学園入りしていたことには驚き、とても喜んでいた。

 予め自分で仕組んでおいた事ではあったが……エドワルドを充てがったのは少々失敗だったかも知れない。再会したエドワルドと学園で唯一打ち解けているであろうネリを思うと、どうしようもなく不快感がせり上がってくる。

 滅多に他人には見せないカーネリアンの笑顔が、惜しげもなくエドワルドには注がれているかと思うと、どうしようもなく苛立つ自分がいる。

 ……これはまずい。全く冷静ではない。恐らく非常にまずい傾向だ。

 彼女に対して私は義理とはいえ妹として扱うことを決めていた。私の両親が19歳の頃亡くなり、唯一の肉親のように育てる筈だった。更に断れない筋からの依頼で、彼女を保護している立場なのだ。年齢も13歳離れている。当の彼女も私のことを養い兄としか思っていないだろう。

 だが内心のどこかでは分かっていた。もう何もかもが『妹への家族愛』『重要な預かり物』という感情では彼女を見つめる事ができない段階にいる。ということが……


 そんな折のことだ。

 隣国エルシャーノンの留学生としてこの土地に訪れていた、ノエル・ラスガルドが行方不明になったという一報を受けた。

 最近ようやく友好的に交流を重ねてきた、元敵国同士だった関係上、ノエル嬢は学生でありながら重要な特使としての扱いを受け、この国でも護衛を付けて丁重に扱われている少女。彼女がもし傷一つでも加えられることがあれば……また国が荒れてしまいかねない。

 私は秘密裏にエドワルドを呼び、ノエル嬢の捜索に当たらせることにした。人探しに置いては、機転の利くエドワルドは私が雇い入れている者の中でも群を抜いて優秀だった。

 しかしそこに更なる懸念が発生した。

 ネリの様子に変化がある、という報告だ。メアリーからは、ネリは読書量が減りぼうっとしていたり、思いつめたような表情を見せるようにもなった。ということである。

 私の脳裏に、10代にして何もかもを諦めたように微笑むネリの横顔が浮かび、ツキ……と胸が微かに傷んだ。

 年若く賢い彼女が観念するような、抗いきれない悩み。それを取り除いてやれたらどんなにいいか。

 しかしどんなに深く探りを入れてみても、その事にまつわるものはおろか、その出自に関わる情報すら未だに入手できないでいた。

 当の本人も驚くほど強固に口を閉ざしている。メアリーやエドワルドにすら打ち明けていない。


 深い思考はノックの音で遮られた。失礼します、と珍しく切迫した表情のクリスが入室した。


「どうした?」

「お嬢様の馬車が、いまだ屋敷に戻りません。先発からの情報で……当家の御者が遺体となって発見されたとの報告がありました」

「……

 即刻エドワルドに通達しろ。もし誘拐であればノエル嬢との接点が考えられる。それからメアリーを呼べ。二人のどちらかの位置が分かり次第、私も出る」

「はっ」


 腸が煮えくり返るような憤怒を体の奥底に押しやり、脳内を冷静に保つのは至難の技だった。

 礼儀作法もなく書斎に駆け込んできたメアリーは、既に騎士服と外套纏い、帯剣を済ませていた。既にネリを探し、辺りを駆けずり回っていたのだろう。


「失礼いたします。ノエル・ラスガルド様の所在が判明しました。

 更にエドワルドより、その建物裏にデリエリ家の馬車が放置されていると」

「馬車の用意は既に整っております」

「向かうぞ」


 普段ネリに見せるようなたおやかさなど今は微塵にも無く、メアリーは鬼神もかくやといった殺気を放っている。退役したとはいえ腐っても一国の近衛騎士。放つ殺気は凄まじく、肌にビリビリとした痺れすら感じる。

 同じく黒い外套を羽織った私もクリスに渡された剣を受け取り、走るメアリーの後を追った。


 離農した農家の廃屋に、ノエル嬢は監禁されていた。馬車が到着すると、既に先発隊が争っている音が聞こえてくる。メアリーは停車を待たずするりと馬車から飛び降り、入り口で戦っていた敵の顔面を夜闇にも関わらずピンポイントに踏み潰し、隠し持つナイフで喉の急所を抉り殺した。そのまま地を滑るように素早く開いたドアから家に入っていく。

 私はメアリーに一階を任せ、全速力で二階に駆け上った。廊下の奥からエドワルドの怒り狂う声が聞こえる。微かにだが、ネリの声も聞こえた。一番奥の部屋のドアが壊れ、灯りが漏れている。

 一にも二にもなく、私はそこに飛び込んだ。


 ――私は思わず己の目を疑った。

 ネリの背中の服は破れ、素肌が大きく顕になっている。そこには幾筋もの傷。引き攣れた古い――傷。恐らく鞭打ちの跡だ。

 弾けるように振り返ったネリは私を見ると大きく目を見開き、途端に絶望の色を濃くした。傷を見られたくなかったのだろう。引きずるように体を反転させ、壁に後ずさろうと震える足を必死に動かしていた。

 数瞬だけ、私は心の整理に時間を使わねばならなかった。状況を冷静に見れば、服こそ裂かれたが、最悪の展開は未然に防げたことは明確だった。

 視線をすっと下げると、男が二人生かさず殺さず寝転がっている。もうフォークすら持てないだろう腕にはなっていたが、ネリにその汚い手を出そうとしたのだ。当然生ぬるい。

 男達は私の視線に何かを感じた様子で、我を失うほどに怯え失禁していた。

 その横を通り抜けながら外套の留め金を外し、ネリに巻き付けた。ネリは縄の跡が残る手で外套の前をくしゃくしゃに握りしめ、地べたに小さく蹲って震えた。


 ……もう限界だ。


 ぴんと張っていた頼りない糸が、心の中で切れて落ちた。

 私はネリの小さな体を強く抱きしめ、つややかな髪を撫で梳いて、そこに顔をうずめて思い切り息を吸い込んだ。

 どんな汚い手を使ってでも、ネリの全てが欲しい。

 私の全てがそう訴え、思わず戦慄き震えた。奥歯を噛みしめる。


「ネリ……っ」


 ポタリ……と、床に水が落ちた。何事かときつく抱き寄せていた体を離すと、ネリは息を詰まらせてボロボロと泣いていた。

 大粒の涙がとめどなく頬を伝い落ちていく。次第に歯を食いしばり、ギュッと目を強く閉じて手は私の服に縋る。

 再び私はネリの体を外套ごと包み、細い背中をひと撫でした。涙が全く止まらない。萎れてしまうのではと思うほど泣き続けている。

 彼女を抱き上げエドワルドに簡単な指示を出すと、彼はノエルには見えないように目の前に転がる男達を射殺さんばかりの殺気で睨めつけた。

 彼がこれまで何よりも大切に思ってきた家族を辱められた怒りは、恐らくこれから彼らに遺憾なく注がれることだろう。形はともかく命だけは残しておくよう、念を押して足早に退室した。ネリを一刻も早く連れ帰りたい。

 馬車に到着し、返り血一つ浴びていないメアリーと共に屋敷に向かう途中とうとうネリの意識が途切れた。


 ネリのことをメアリーに任せ、丸一日が経過した。

 報告書の作成に取り掛かっていると、流暢なノックが耳に届いた。メアリーだ。


「失礼致します」

「ネリが目覚めたのか」

「はい。まだ動揺なさっておいでですが、旦那様にお会いになると」


 気丈な娘だ。今は誰にも会いたいと思えないだろうに。

 私は小さく嘆息し、目を伏せた。


「……わかった、これからネリに会う」

「承知しました」


 メアリーを伴い、私は書斎を出た。ネリの寝室のドアをノックすると、小さな声が聞こえた。

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