拾
どこまでも続く青の中にドラゴンと少女はいた。黒い体、大きくて立派な翼、鋭い爪、何でも噛みちぎれそうな牙、相手を威嚇するには十分すぎる鋭い目、人間たちを恐怖へと誘う怪物がそこにはいた。
その怪物の背中で仰向けになって青を見ているのは人間の少女。吸い込まれそうなぐらい青い瞳をしていて、白すぎず黒すぎない健康的な肌で、綺麗な髪の毛。何故少女はこんなところにいるのだろう。
かつてこの世界ではドラゴンが空を自由に泳いでいる姿をよく見かけたという。各地に点在したドラゴンの聖域、そこは決して人間が踏み込むことができない場所だった。その一帯はドラゴンによって支配された、小さな国とも世界ともいえた。
人間はドラゴンを恐れ、機嫌を損ねてはいけないこちらから手を出してはいけない、そう強く心に念じることでお互いに刺激を与えないようにする。ありがたいことにドラゴンは人間に興味がないのか何もしてこない、だから人間もドラゴンに何もしなければこの関係は保たれるのだ。
このまま何もなければそれにこしたことはない、多くの人間はそう思っただろう。だからあの日、境界線を越えて突然ドラゴンがやって来たときはどんなに驚き怯えたことだろうか。均衡は破られた、もうおしまいだ人間はドラゴンの餌になってしまうんだ。
今まで空を泳ぐ姿しか見たことがなかった。だからすぐそこに手が届くところにドラゴンがいるのは、まるで夢の中にいるような光景に感じただろう。境界線を越えて、聖域を踏み越えて、人間の生活を脅かすようなことをするなんて信じられない。言葉は通じない、だから人間を怖がらせないという約束はできない、しかし何も言わずともわかりあっていると思っていた。
それは人間が勝手に作った想像だったのか、そうなってほしいという妄想だったのか。とにかく人間は足がすくんだ。突然現れた怪物を前に、蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。今すぐ逃げないといけない、そうしなければ食べられる。
恐怖と緊張と焦りが混じったものが身体中を走る。なんだか頭が痛い、何故か胸が痛い、吐きたいぐらい気持ち悪い。あの何でも噛みちぎれそうな牙にこの体は噛みちぎられてしまうんだ。
人間は絶望の中にいた。目の前にはのしのしとこっちへと歩いているくる怪物、わざわざここに来たのは食欲を満たすためだ。もう終わりだ、肉は一つ残らず食べられて骨だけになってしまうんだ。人間を一人食べたら怪物の食欲は増すだろうか、もしそうなったら逃げ惑う人間や怖くて動けない人間を次々食べるだろう。
人間は涙を流した。迫りくる恐怖に一歩も動けない、胸の鼓動がとても早くなる、風のざわめきで木々が揺れて悍ましい雰囲気を演出している。怪物は歩いてくる、大きな口を開いて牙を見せてこっちを見ている。餌になるのは嫌だ、早く動いてくれこの両足!
しかし両足は言うことを聞いてくれない。動かそうとしても動かない、自分の足なのに自分の足じゃないみたいにかたくて重い。そうしてる間に怪物は人間のすぐそばまで来た。震えていて、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている人間は怪物を見上げる。怪物は涎を滴ながら人間に向けて口を開ける。
人間は神に祈った、仏にも祈った。この命どうかお助けください、どうかこの通りよろしくお願いいたします。どこかにこの祈りが届いてくれればそれでいい、命が助かるのなら何だってする。ドラゴンは鋭い目付きで人間を見下ろし、簡単に握りつぶしてしまえそうな手を伸ばす。そして――――――
「ねえディーオ、さっきは何処に出かけていたの?」
『友達ニ会ッテイタンダヨ』
「ディーオに友達なんていたの? びっくりなんだけど」
『オ前ハ失礼ナヤツダナ。私ニダッテ友達ノ一人ヤ二人グライ』
「いいな友達がいて。私には友達なんていないから」
『……スマナイ、ソレニ気ヅイテイナカッタ。オ前カラ友達ヲ遠ザケテシマッタノハ私ダ』
「いいよそんなのは、時代とともに変わるもんなんでしょ? それを背負うのは私とディーオだけでいいよ」
『至ラナイバカリニ迷惑ヲカテイルノハ事実ダ。神龍デアル私ガ情ケナイ、恥ズカシイ。コンナ私ガイツマデモ居座ッテイルカラ皆呆レテシマッタ』
「考えていることが食い違うのは一つ一つ異なった心を持っているから。皆同じではない、それぞれに個性がある、それが面白い。時にはわかってくれないから苛々する、言い合いになる、殴り合いになる、それは自分の意見を通したいし正しいと思っているから」
『ソレガ争イノキッカケトナルコトモアル。ソコノ木々ガ豊富にアル山ガ欲シイ、アッチノ作物ガ沢山トレソウナ畑ガ欲シイ、ソッチノ魚ガイッパイ連ソウナ川ガ欲シイ。ソンナモノ手放シタクナイノガ当然ダ、話シ合イデドウニカナルトハ初メカラ思ッテイナイ。ダカラ武器ヲ手ニ取ル』
「争いからは悲しみと憎しみしか生まれない、そのことにいつ気付くのかな。気づいていないからこそ血が流れ続けているんだよね。ディーオの目には何が映っているのかな? 明るい未来なのか、暗い未来なのか」
『未来ナド見エテシマッタラツマラナイ、例エコノ先ニ行ク手ヲ阻ム壁ガアロウトモ。ダカラ私ハ未来ナド見ナイノダ』
「未来を見ることによって回避できることもあるのに? 事前に知っていたら助かるかもしれない、助けられるかもしれない」
『確カニソノ通リダ、未来ヲ見テイタラ仲間タチガ下リテ行クコトモナカッタ。ソレデモ私ハ未来ヲ見ルコトハナイ、ソレガ私ノ方針ダ』
「そっか、ディーオは未来より今が大事なんだね。今があるから未来に繋がるんだもんね」
『アノ方ハ未来バカリ見テイタ。私ハドンナ未来ヲ見テイルノカ気ニナッテ聞キ出ソウトシタ、シカシ教エテクレルコトハナク私ノ目ノ前デ永遠ノ眠リニツイタ。最期ニ言ッタ言葉ガ私ヲ動カシ、人間トノ交流ノキッカケヲ作ッテクレタ』
「それが始まり……ドラゴンと人間が手を取り合い助け合い、一緒に空を泳いでいた時代」
「アノ時ハズットアノ時間ガ続クト思ッテイタ。人間カラスレバ長イ時間続イタノダロウ、シカシ私ニトッテハアノ時間ハトテモ短クアットイウ間ダッタ」
「そんな悲しそうな声出さないでよ、神龍がそんなの恥ずかしいよ。悲しまなくていいよ、今は私がいるんだからさ」
『……アリガトウ。オ前ハ時々イイコトヲ言ウ』
「失礼ね、そんなことじゃ女の子にモテないよ」
『私ハオ前ガ、子ドモタチガ幸セニナッテクレレバソレデイイ。ダカラオ前モイズレ、私ノモトヲ離レナサイ』
「そんなこと今言わなくていいよ、今じゃなくても言わなくていいよ。ディーオの馬鹿!」
『……私ハマタ失礼ナコトヲ口走ッタノカ? スマナイ、許シテクレ』
「もういいから、いつものことだから。それよりも何処に向かっているの? 陸地から離れてるけど」
『新シイ世界ヘト向カッテイル。今カラ向カウ場所ハ何モ知ラナイ、仲間モイナイ。ソコデ私トオ前タチハ空ヲ泳グノダ』
「それはあの世界から逃げるってこと? 神龍がいないあの世界はどうなるのよ」
『世界ハ一見異ナッテイルヨウニ見エルガ実ハ繋ガッテイル。ソレハコノ大キクテ果テシナク広イ空デ。ダカラ大丈夫、安心シロ』
「ディーオがそう言うなら私は構わない。そのうちこの子たちが生まれるし、それどころじゃなさそうだし」
『落トサナイデクレ、マタ捜シニ行クノハ大変ダ。ソノ子タチハドラゴント人間ノハーフデハナイ、今コノ時モ人間ヲ咆哮シナガラ襲ッテイル本当ノドラゴンノ子ドモダ』
「彼等を救うことはできなかったの? なんだか可哀想だよ。本能の赴くままに生きているのを否定しないよ、それが本来の姿なのだから」
『私ハ人間ト出会イヤガテ愛ヲ育ンダ、ソシテ子ガデキ孫ガデキ命ハ次世代ヘト繋ガッテイク。彼等ハコノ中ニハ居ナカッタ、ハーフデハナク完全ナドラゴンデアリ続ケタ』
「ディーオの前の神龍はさ、こうなる未来も見えていたんだよね? それなのにどうして何も言わなかったんだろう、そんなの酷いよ仲間なのに」
『アノ方ハ新シイ世界ヲ作レト仰ッタ、コウナルコトガ分カッタ上デ私ニ後ヲ任セテ目ヲ閉ジダ』
「ディーオは何も悪くないと言いたいの? こうなったのは全部前の神龍のせい、だからそれに従っただけだと」
『結果的ニハソウナッテシマッタ、何モ反論ナドデキナイ。シカシ本来ノ姿、本能ノ赴クママ生キルコトハ駄目ナコトナノダロウカ。ドラゴント人間ノハーフガ良イトハ限ラナイ』
「なにそれ、無責任じゃないの? ディーオがそんなんだから神龍という地位だけが残って、その他は何も残らなかったんだよ。今となっては崇められ敬われ愛されているのか物凄くあやしい」
『ソンナモノジャナイノカ神龍トイウモノハ。世界ノ均衡ヲ保ツ、世界ノ平和ヲ見守ル、ソンナノハ誰カガ作ッタ物語ニスギナイ。ソウアッテホシイ、夢ガアッテ面白イ、神ガイルト信ジタイ』
「……ディーオあなた最低ね、そりゃ威厳もなくなるわ。何故前の神龍はディーオに後を任せたのか不思議でしょうがない」
『ドウ思ワレヨウト私ニハ関係ナイ、ソレゾレガソレゾレノ心ノ中デ様々ナコトヲ思イ描ケバイイ。ソウシタラ一人グライイルダロウ、ソレデモ私ニ着イテクル変ワリ者ガ』
「それってひょっとして私のこと? ひょっとしなくても私のことだよね? なにその冷からの温、冷たいのか温かいのかハッキリしてよ!」
『私ハソノドチラデモナイ、私ハ私デアリ私以外ノ何者デモナイ』
「はぁ……ディーオと喋ると疲れる……」
『疲レタノカ? 陸地ハマダマダ見エソウニナイ、今ノウチニ休ンデオクトイイ』
「そういうことじゃないんだけど、そのお言葉に甘えさせていただきます」
『ナルベク揺レナイヨウニ泳イデヤル。ダカラユックリオヤスミ』
「いやさっきも寝たし全然眠たくないよ。一日のうちに何回も寝過ぎだよ私」
『ジャア何カオ話シデモスルカ? タダ空ヲ泳イデイルダケデハツマラナイダロウ』
「つまらなくないよ。空を泳ぐのは風が当たって気持ちいいし、ディーオの背中は乗り心地良いし、この果てしなく広がる空がある限り何処へでも泳げるから」
『ソウカ、ナラ泳ゴウ。落チナイヨウニシッカリト乗ッテオケ』
少女はディーオの背中に乗りながら笑っている。新しい世界へと向かうのに不安などは無いのだろう。新しい世界には何があって、何が待ち受けているのかな、そう思って楽しんでいるのだろうか。
ディーオは少女を背中に乗せて空を泳いでいる。山も木も花も岩も川も湖も人間もいない空の中、今までいた世界を飛び出して海を越えて新たな世界へと目指す。これは覚悟がないとできない、生半可な気持ちでは痛い目をみる。
ディーオと少女は空を泳いでいる。もう狩られる心配などない、自由に泳ぐことができる。
その姿は美しくて絵になる。その姿に目を奪われる。その姿はやがて見えなくなっていく。
おわり
短い間ですが最後まで読んでくださってありがうございます<(_ _*)>
短いのに色々詰め込みすぎました、短いお話ならあれこれ詰め込めずにシンプルにしたほうが読みやすいとは思っているのですがね。
結局ファンタジー要素はドラゴンだけでしたがファンタジーって難しいです。絶賛?連載中の悪い夢の時間もファンタジーですがあんまりファンタジーしてないような気もしますし。
ディーオと少女どうでしたか?ディーオは自己中だなと書いてて思いました、そんなディーオに着いていく少女は偉いなって。まぁそれだけで片付けるのはあれですが。
またサクッと書けたら短めの連載やりたいです!その時はよろしくお願いいたします。それまで長めの連載読んで待ってくれると喜びます(о´∀`о)




