第9話 一人分の席
晴登は、俺が断ることを認めなかった。
残り十九日。
出勤前の駅前で待っていると、晴登の会社の車が歩道へ寄った。
窓が開く。
「乗れ」
「仕事だ」
「五分で済む」
助手席へ乗ると、晴登は車を発進させず、追加保証の申請画面を出した。
「氏名と住民番号を入れれば仮申請できる。
あとはお前の同意だけだ」
「昨日言っただろ」
「朋江さんは何て」
「行けって」
「なら行け」
晴登は迷わなかった。
「母さんは本心で言ってない」
「本心かどうかを、お前が決めるな」
「見捨てろっていうのか」
「俺は親父を見捨てなかった」
言葉がぶつかり、二人とも黙った。
「そういう意味じゃない」
「同じだよ。
俺が区域へ入ったのは、親父と母さんを助けるためだ。
外に残る誰かの枠を奪ったかもしれない。
でも、だから親父に手術を断れって言えるか?」
「言ってない」
「お前は自分に同じことを言ってる」
晴登は申請画面を閉じた。
「一人しか助けられないなら、誰も助けない。
その方が正しいって顔するな」
「正しいなんて思ってない」
「じゃあ何だ」
「分からないんだよ」
駅前を、非継承通知を持った人々が市役所へ歩いていく。
俺が窓口で同じ説明を返す相手だ。
「俺一人なら行ける。母さんは残る。
診療所の人も、町の大半も残る。
向こうで水を飲むたびに、何人を置いてきたか考える」
「生きてれば考えられる」
「晴登」
「死んだら終わりだ」
晴登はハンドルを握った。
「俺はお前に生きてほしい。それの何が悪い」
悪くなかった。
だから、返事ができなかった。
「申請期限まで、まだある。
今日決めろとは言わない」
俺は車を降りた。
扉を閉める直前、晴登が言った。
「助かることを、裏切りにするなよ」
市役所へ入り、自分の席に着いた。
母から受け取った古い政府広報を鞄から出し、机の脇へ置く。
《全国民の七割へ、継続可能な生活保障を》
現在の保障対象は十七%。
八年で五十三ポイント減っている。
昼休み、広報に記された資料番号を業務端末へ入力した。
該当なし。
一般検索にも、行政文書庫にも出てこない。
廃止済み制度の資料は、現行検索から切り離されていた。
「何を探してる」
荒谷が弁当を持って、向かいの席へ座った。
「国家存続条項ができたときの保障人数です」
「七割」
「知ってるんですか」
「投票したからな」
「賛成?」
「お前は?」
「行きませんでした」
荒谷は弁当の蓋を開けた。
「なら、結果だけ聞くな」
「今は十七%です。
いつ減ったんですか」
「知らなかったのか」
「ニュースで基準変更があったのは見ました。
でも、七割からここまでとは」
「見なかったのと同じだ」
荒谷は箸を割った。
「教えてください」
「俺は移行責任者だ。
歴史の教師じゃない」
「判定は正しい。
保障区域も動いてる。
なら、最初から十七%しか救えない制度だったんですか」
荒谷はしばらく俺を見た。
「違う」
短く答えた。
「七割は、本当に維持できる数字だった」
「じゃあ、なぜ」
「自分で見ろ」
荒谷は紙片へ六桁の管理番号を書いた。
「地下資料室。
廃棄前の旧行政端末が一台残ってる。
現行文書へ移されなかった通達も読める」
「入っていいんですか」
「休憩時間に、公開文書を見るなとは言わない」
「どうして俺に」
「仕事中に同じ質問をされるよりましだ」
荒谷は弁当を食べ始めた。
地下資料室には、紙の簿冊と使われなくなった端末が積まれていた。
照明の半分は切れている。
管理番号を入れると、一台だけ起動した。
検索欄へ、広報の資料番号を入力する。
八年前の国家生活保障計画。
対象人口、当時総人口の七〇・一%。
次の年の改定通知が紐づいていた。
《保障対象基準改定 五五・三%》
数字の横に、赤字も警告もなかった。
七割は、最初の一年しか続いていなかった。




