第30話 名前
国家が消えたあとも、人の呼吸は止まらなかった。
最初の夜。
診療所の発電機が低い音を立てている。
子供が泣き、誰かが水を配り、母は酸素を使っている患者の数値を確認した。
国がなくなった瞬間に、世界が爆発するわけではない。
明日の朝までに必要なことが、残るだけだった。
水道はまだ出た。
配水池の高低差だけで流れているらしい。
電気がなければ半日ほどで圧力が落ちる。
冷蔵庫の薬は発電機へつなぎ、照明は待合室と処置室だけに絞った。
国家が消える前に用意された手順書は、零時より先が白紙だった。
母は白紙の余白へ、午前一時の血圧と酸素残量を書き始めた。
俺は鞄から耐火ケースを出した。
「それが名前?」
母が聞いた。
「読めれば」
診療所には、八月停止のとき使った災害端末が残っていた。
電源をつなぎ、媒体を差し込む。
《復号鍵を確認できません》
心臓が止まりそうになった。
国家の復号鍵は零時に破棄された。
書き出した記録には、自治体用の非常鍵を付けたはずだった。
端末の設定を変え、地域復旧モードを選ぶ。
《媒体に破損があります》
一覧の一部が欠けていた。家族関係の欄にも読めない部分がある。
それでも、開いた。
四万一千八百二十七人。
昨日まで、この市の住民だった人々。
市の人口統計では四万一千七百九十人だった。
三十七人多い。
閉庁直前の出生、死亡、転入、所在確認のずれかもしれない。
数字が合わないからといって、余った三十七人を削ることはできなかった。
画面から顔を上げ、待合室の奥にいた女性へ声をかけた。
「お名前を教えてもらえますか」
待合室の奥にいた女性が、顔を上げた。
「杉原久恵です」
検索欄に名前を入れる。
見つかった記録を開き、声に出して読み返した。
「杉原久恵さん」
「家族は?」
「夫がいました。三年前に亡くなりました。息子は保障区域です」
記録の欠けた箇所を、本人の言葉で埋めた。
「ここに来ていない人で、安否を確かめたい人はいますか」
「有川正春さんは」
女性が聞いた。
その名前も検索すると、記録が見つかった。
待合室を見渡した。
「有川正春さんのことを、知っている人はいますか」
「隣町だ。兄貴なら連絡先を知ってる」
誰かが答えた。
次。
次。
全員を一晩で確認する事はできない。
生きているかも分からない。
記録に名前があっても、明日を保証するものではない。
呼ばれた名前に返事がないと、誰かが知っている住所を書いた。
区域へ入った。
先月亡くなった。
避難所にいる。
分からない。
分からない名前には印を付けた。
削除ではない。
探すための印だった。
それでも、一人ずつ人間へ戻っていった。
母が紙を出した。
「名前だけじゃなく、できることも書こう」
看護ができる。
発電機を直せる。
井戸がある。
車がある。
子供を預かれる。
畑に芋がある。
三日分の燃料を持っている。
「俺は何もできない」
若い男が言った。
「車の免許は?」
「ある」
「夜、起きていられる?」
「たぶん」
「じゃあ、見回りをお願い」
母が紙へ書いた。
男は自分の名前の横に、《午前三時まで》と付け足した。
能力は、国が点数を付けた資格だけではなかった。
井戸の場所を知る。
足の悪い隣人を知る。
暗い道を歩ける。
泣いている子供の名前を知る。
国家の記録から捨てた情報を、人々が自分の口で話し始めた。
誰を保障する価値があるかではない。
明日、誰が誰を助けられるか。
「直路」
母が言った。
「あんたの名前もある?」
検索した。
片山直路。二十七歳。
片山朋江の子。
それだけだった。
納税額も、雇用保証も、将来収益もない。
「ある」
「私も?」
片山朋江。五十九歳。看護師。
片山直路の母。
「あるよ」
母は笑った。
外は暗い。
警察も救急も来ない。
食料がいつまで持つか、次の薬がどこから来るかも分からない。
国家を作り直そうと宣言する者はいなかった。
革命を始める者もいなかった。
朝になれば、食料を巡って争うかもしれない。
共同体が媒体を探しに来るかもしれない。
薬が尽きれば、名前を知っていても救えない人が出る。
これは希望の国ではない。
国ですらない。
ただ、誰を先に切れば長く持つかという計算を始める前に、そこにいる全員を一度は呼ぶことにした。
ただ、名前を呼ばれた者が返事をし、その人を知る者が情報を足した。
俺は次の名前を読み上げた。
日本国民ではなくなった俺たちは、その夜初めて、隣にいる人間の名前を知った。
-完-




