第11話 最後のチャンスをドブに捨てる男
その日、メリッサは休日を利用して、久しぶりにダリルの下宿を訪れていた。
台所に立ち、手際よく彼の大好物である煮込み料理を作っている。漂う香ばしい匂いに、居間で寝転がっていたダリルが機嫌よさそうに声をあげた。
「なあメリッサ、やっぱりお前の飯が一番だよ。最近、騎士団の付き合いで外食ばかりだったからさ、胃が疲れちまって」
ダリルは白々しくそんなことをのたまう。カサンドラと連日、高級レストランで贅沢三昧をしていたツケが回ってきただけだというのに。
メリッサは「そう……」と、いつもの完璧な微笑みを崩さずに鍋をかき混ぜた。
客観的に見れば、街での決定的な不貞を目撃し、スティーブから熱烈な求愛まで受けたメリッサが、未だにこうして浮気男の世話を焼いている姿は奇妙に映るかもしれない。
しかし、メリッサの胸中にダリルへの情など、もう一滴も残っていなかった。
すべては、スティーブから授けられた「知略」であり、完璧な決別のための仕込みだった。
貴族社会において、弱小とは言え伯爵令息である騎士と「婚約破棄」を正当に成立させ、かつ相手にすべての慰謝料と非を認めさせるには、絶対的な証拠が必要となる。もし今、メリッサが感情に任せて世話をやめれば、ダリル側から「婚約者としての義務を放棄した」と言い逃れされる隙を与えかねない。
だからこそ、メリッサはあえて最後まで「一途に尽くす、非の打ち所がない完璧な婚約者」を演じ続けていた。ダリルに金を無心されれば、あえてスティーブが用意した裏の取れる形で手渡し、彼が家を空ければ、その日時を克明に記録する。
すべては、ダリルを社会的に完膚なきまでに叩き潰すための、既成事実の積み上げだった。
コト、と器をテーブルに置いたその時、下宿のドアが激しくノックされた。
ダリルが怪訝な顔で扉を開けると、そこには見覚えのある、カサンドラ伯爵家の紋章が入った手紙を持った使いの者が立っていた。
ダリルはメリッサに背を向け、大急ぎで手紙を開いた。
メリッサの鋭い視線は、その手紙の文面を逃さなかった。派手なピンク色の便箋に、乱雑な文字でこう書かれていた。
『今すぐいつもの隠れ家に来て。寂しくて死にそうだわ。来ないなら、あなたの不浄な過去を騎士団長にバラしてあげる』
カサンドラからの、我が儘な呼び出しの手紙だ。
手紙を読み終えたダリルは、分かりやすくうろたえ、それからわざとらしく重い溜息をついてメリッサを振り返った。その顔には、見え透いた「仕事の疲れ」が張り付いている。
「ああ、クソッ……最悪だ。メリッサ、本当に申し訳ない」
「どうかしたの、ダリル」
「急な任務が入っちまったんだ。第一騎士団の緊急招集さ。最近、王都の治安が悪くてな、急遽俺が警備の指揮を執らなきゃいけなくなって……」
ダリルはさも無念そうに頭を掻いた。
嘘だった。緊急招集がかかれば、街に鐘が鳴り響く。今、外は静まり返っている。
「せっかく作ってくれたのに、本当にごめん。俺も仕事に行きたくないんだけどさ、国を守る騎士としての義務だから。お前なら、理解してくれるよな?」
ダリルはメリッサの肩を叩き、すまないという顔を作ってみせる。
メリッサは、その男の顔をじっと見つめた。
(ああ、やっぱりね)
これが、この男が自ら破滅を回避できる、本当に最後のチャンスだった。
もしここでダリルが手紙を破り捨て、「今日は婚約者との先約がある」と残ってくれたなら、メリッサもこれほど冷酷にはなれなかったかもしれない。だが、彼はやはり、目の前の安易な欲望と、カサンドラという甘い蜜を選んだのだ。
「ええ、よく分かるわ、ダリル。仕事ですもの、仕方がないわよね。どうぞ、気をつけて行ってらっしゃい」
メリッサは深く、美しく一礼した。
ダリルは「いつも通り、物分かりの良い便利な女」の態度に完全に安心し、大急ぎで上着を掴むと、靴を鳴らして部屋を飛び出していった。カサンドラの元へ、一目散に。
静まり返った部屋に取り残されたメリッサは、テーブルの上の、まだ温かい煮込み料理を見つめた。
そして、ポケットから一冊の小さな革表紙のノートを取り出す。スティーブから贈られた、鍵付きの日記帳だ。
メリッサは羽ペンを執り、さらさらと流麗な文字で、淡々と事実のみを書き連ねていく。
『王暦百三十五年五月二十二日。午後五時四分。ダリル様、カサンドラ伯爵令嬢からの呼び出し文を受け取り、私に対し「第一騎士団の緊急招集」と虚偽の申告をして外出。手料理の給仕を放棄。これで、虚偽による婚約者への不実の証明は、十四件目となる』
パタン、とノートを閉じる。
メリッサの瞳には、かつてダリルを愛していた頃の切なさは一欠片もなかった。あるのは、ただ事務的に獲物を追い詰める、冷徹な執行官の光だけだ。
この日記帳の記録と、スティーブが裏で集めている外堀の証拠が合わさった時、ダリルに逃げ場はなくなる。
主人が用意してくれた完璧な「舞台」である王宮の夜会は、もう目の前に迫っていた。
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