(8)心躍る構想も……
三年後、一切経の校合作業が終了した。仲基は二十歳になった。
この三年間、知人の居ない宇治で校合作業に従事し、ときどき大坂へ顔を出したり、池田で息抜きしたりするという生活を仲基は半ば楽しんだ。
そんな生活に終止符を打ち、仲基は大坂へ戻ったが、体調が優れず、自室で寝込む日々が続いた。長きにわたる校合作業の疲れが出たのか、はたまた大坂での窮屈な環境が健康に悪影響なのか、仲基には分からなかった。
病床で憂うつな気分で過ごしてはいたものの、萬福寺での校合作業を通じて相当量の一切経を精読したことで、仲基はある見解を抱くようになっていた。
一般的に仏教経典は、そのすべてが釈迦の思想が元となって敷衍、展開されたものとされているが、それは誤りではないか。以前、「説蔽」で儒学思想の変遷について述べたときの主旨と同様に、大乗仏教の経典においても、後代の経典が先代の経典を凌駕するために「加上」が行われていることは、どうやら疑いようがない。
教相判釈という、仏教経典を体系化する大掛かりな作業がある。この作業において、すべての仏教経典を釈迦の金口とするために辻褄を合わせ、論理に瑕疵がないように大系化する作業そのもの自体が無理筋なのではないだろうか。まるで後代の何者かによって加上された思想が、釈迦の名を借りて語られているようにしか見えない。仲基はそう考えた。
このことは、恐らく多くの仏教者が潜在的に疑問を抱いていながら、目に見えぬ大きな圧力でもってそれを口にするのさえ禁忌とされている問題であるようにも見受けられる。
なぜ人々は、明晰な論理をかざして理の当然ともいうべきものを素直に提示することができないのか。それを封じる現行仏教とはいったい何なのか。
仲基にとって、それは怒りにも近い思いであった。
この思いを書物として著し、理不尽とも言える仏教界の風潮に風穴を開ける。自分が今生においてなすべき畢生の仕事はそれであると仲基は見定めた。
小康を得ると、仲基は池田へ向かい、蓮秀庵に日初を訪ねた。
久闊を叙するのも性急に、仲基は病床で考えた自分の構想を日初へ熱く語った。日初ならもろ手を挙げて賛同してくれるものと思っていた。
ところが、日初は渋面をつくって目をつぶり、腕組みしたまま動かなくなった。
「ご同意いただけませんでしょうか?」
しばらくしてから、日初は目を開けた。
「仲基殿の主旨だと、教相判釈を否定することになり、当然、天台宗の五時八教を否定することにもなります。ひいては本邦における仏教そのものを否定するものと解釈され、仏門全体から激しい非難が巻き起こることは必定です。その非難は仲基殿だけではなく、仲基殿が関係しているとみられる懐徳堂へも向けられるでしょう」
「私はすでに懐徳堂とは無関係ですが?」
「世間はそうは見ません。懐徳堂の五同志の一人である道明寺屋のご子息である仲基殿は、内実はどうあれ、懐徳堂の関係者とみなされます。もしお話しされた主旨で著述をなさったとしても、以前の『説蔽』のときと同じように、懐徳堂の学主やお父上から公表を差し控えるようにと制止されるのは間違いないでしょう。事は仏教に関わることですので、『説蔽』のときとは比較にならないほどの反響につながる懸念があります」
「何と……」
仲基は天を仰いだ。せっかくの心躍る構想が、実現を見ぬまま葬り去られることになるのか。
仲基の悲嘆ぶりを見て、日初は気の毒に思った。
「時期を待つことです。今はまだ期が熟しているとは言えません。それに仲基殿の考えを書物にするのであれば、それ相応に説得力のある根拠を明示したものに仕上げる必要があります。気が急く気持ちは分かりますが、今はその構想を温めつつ、時期を待つことです」
日初の言うことは常識である。世の中とはそういうものであり、たとえ正しい理屈であっても、蓋をして触れられないようにしてあるものにあえて触れようとすると、大きな反撃を食らう。儒教は孔子がまったく新規の考え方でもって創始したものであり、また、すべての仏教経典は釈迦の言行を何らかの形で表現したものである、というのはいずれも公理であり、誰も触れてはならない大前提である、というわけだ。
仲基は肩を落として蓮秀庵をあとにした。
この時期に仲基が詠んだ漢詩は、もう長年持病に苦しめられている、いったいいつになったらこの苦しみから抜け出せるのだろうか、とか、私が詩を作るのは憂いがあるためである、といった内容のものが多かった。呉江社では毎年、同人が創作した詩を集めた詩集、「呉江水韻」を発行しているが、仲基の漢詩も掲載された。
生来の病に、穀斎との不和、それに自分の意見を吐露できないもどかしさ。仲基は身体の不調に加えて、精神的にも気鬱になりそうな状態で日々を過ごすしかなかった。




