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(7)池田の枝垂桜と、宇治萬福寺


 仲基は自室に籠って読書に明け暮れる日々を送っていた。桐江からは身体をいたわるようにと言われ、そう心がけるつもりでいたものの、池田から帰ってきてから気鬱なまま時間をやり過ごしているうちに、またもとの生活習慣に戻ってしまっていた。「中庸」というのはなかなか難しい、と桐江が言っていたが、まったくその通りだと実感していた。

 道明寺屋の邸内は広いため、家族ともめったに会わない。それぞれが義務や用事を抱えて暮らしているため、ふだんは食事も個々別々に摂っている。仲基にとって、穀斎と顔を合わせないで済むのは幸いであった。たまに廊下ですれ違ったときは、目礼して足早に通り過ぎて、二人はほとんど会話を交わさなかった。

 冬が過ぎ、春の陽射しが温かく感じられる陽気になった。仲基は庭の桜の木が開花し始めたのを見て、池田の(れん)(しゅう)(あん)枝垂桜(しだれざくら)を思い出した。日初が、息をのむほどに美しいと言っていた枝垂桜が満開に咲き誇る景色を見てみたい。

 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。急いで旅装を整え、両親に断りを入れると、翌早朝に家を出立し、池田へ向かった。

 家から離れると、仲基は見えない呪縛から解放されたかのように心が軽くなるのを感じた。大坂にいると、穀斎の冷たい目線や、懐徳堂の中井甃庵(しゅうあん)ほか、仲基のことを良く思っていない者たちの気配などが混然一体となり、仲基は窮屈さを感じながら暮らさざるを得なかった。それもおのれの不徳の致すところだと仲基は自覚してはいたのだが、年若い仲基にはその事態を打開するすべもなく、心の底に沈潜する悩みとして抱え続けるしかなかった。

 (らん)(こう)宅で旅装を解くと、さっそく蓮秀庵へ赴いた。枝垂桜は三分咲きであった。

「いいときに池田へ来なさった」

 日初は庵で坐禅の最中だった。

「あと数日もすれば満開になります。もう村人がちょくちょく様子を見に来ております」

 そこで仲基は、三日後にまた出直すことにした。

 三日後、果たして枝垂桜は満開であった。

 仲基は、(たい)(こう)色の花弁を枝から垂れ下げたその全姿を遠くから眺めたり、木の下にたたずんで五月雨のように咲く花を見上げたりした。

「見事です」

 興が乗った仲基は、同道してきた蘭皐と共に雅楽を演奏した。蘭皐宅から持ってきた(しょう)を仲基が奏で、蘭皐は神楽(かぐら)(ぶえ)を吹いた。一曲が終わるごとに花見に来ていた村人たちから歓声が湧き、二人は何曲も奏した。

 演奏を終えると、村人たちに交じって佳肴を食べながら談笑したりして、仲基は日頃の憂いを忘れる一日を過ごした。

 夜、村人たちと蘭皐が帰ったあと、蓮秀庵で日初と仲基は対坐していた。日初から、話があると言われて仲基は居残っていた。

「実は、宇治の本山(黄檗宗(おうばくしゅう)(まん)福寺(ぷくじ))で、一切(いっさい)経の校合作業を行うことになりました。そのための人数が必要なのですが、拙僧にも本山の老師から、めぼしい御仁を推薦せよとのお達しが来ています。恐らく数年がかりの作業になるため、それなりの閑暇を有し、かつ漢文、和文を流暢に読みこなすことができる教養の持ち主でなければなりません。(そつ)()ながら、仲基殿はまさに適任ではないかと」

 仲基は興味を抱いた。儒学についてはほぼ学び終えたと言える水準であり、今後何を学ぶべきか思案をしているところであった。一切経の校合作業を行いながら、膨大な仏教経典を渉猟してみるのは知的好奇心を大いに満たす経験になるであろう。

「校合作業が完結するまで、ずっと宇治で暮らすことになるのでしょうか?」

「いいえ。途中、宇治から離れて大坂へ戻ったり、池田で休養するのも問題ありません。場合によっては、未了のまま途中で職を辞しても構いません」

 起居には寺の宿坊が充てがわられ、作業に対しては相応の謝礼が支給されるという。窮屈な大坂から離れ、かつ働きもせず好きなことばかりしていると穀斎から酷評されている今、こんな形でも給金を稼ぐことでその矛先を回避できるかもしれず、一石二鳥である。

「分かりました。その仕事、お受けいたします」

 仲基はその場で承諾した。

 大坂へ戻り、さっそく両親へ宇治行きについて話した。仲基の身体のこともあって、両親は容易に首を縦に振らなかったが、仲基の意志が固いこともあって、押し切られる形で認めざるを得なかった。

 すぐに宇治へ向けて出立した。途中、枚方で一泊し、翌日、宇治の黄檗宗総本山萬福寺の広大な伽藍にたどり着いた。先に到着していた日初と落ち合い、日初に案内されて責任者の老師と面接し、校合作業を行う宝蔵院と宿坊を巡った。

「拙僧もときどきこちらへ顔を出します。この仕事をお願いした拙僧がこういうのもなんですが、どうかくれぐれも根を詰め過ぎずにお取り組みなさって下さい。お身体をいたわりつつ、夜はしっかりと休んでください」

「お心遣い、痛み入ります。お言葉通り、休み休みで進めます」

 仲基は宝蔵院の文机で校合作業を始めた。ほかにも校合作業に雇われた人がいて、別の文机で作業していた。机の横に仏教経典が積み上げられ、複数の書写本を交互参照して修正する。その際、内容を吟味するので、おのずと精読することになる。

 仲基は夢中になった。生来の凝り性と性急な性格とが経典への没入を促進した。儒学に代わる新たな興味の鉱脈を掘り当てたような気がした。日初から言われた、夜はしっかり休むようにという忠告の順守が早くも怪しくなったが、無理をして全身がほてり、宿坊で数日臥せる目に遭ったので、以後は控えめにした。

 仲基は自分が校合を分担する経典以外にも、余暇時間に可能な限り別の経典にも目を通した。膨大な一切経は読んでも読んでも読み尽くすことは容易ではなかった。


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