(12)それぞれの向後
延享二年(一七四五)十一月、仲基三十一歳のとき「出定後語」が刊行された。翌延享三年(一七四六)二月、「翁の文」も続いて刊行された。
十六歳のときに「説蔽」を著して以来、仲基はいくつかの著作をものしてきたのだが、いずれも出版には至らなかった。このたび、三十歳を過ぎてようやく著書を世に送り出すことができた。
その喜びはひとしおだったが、仲基は体調が優れず、寝込む日が多くなった。ここ数年来、書き物で根を詰め続けた疲れが出たのだろうと仲基自身も家族も考えていた。
三歳になった仲基の娘、栄は生まれつき病気がちで、熱を出して床に臥すことが頻繁にあった。仲基は、自分の蒲柳の体質を栄が受け継いでしまったと言ってみよに詫びた。
六月上旬、みよが慌てた様子で仲基の病床へ駆け込んできた。栄が高熱を発してぐったりしているという。仲基は布団からよろよろと起き上がって栄のもとへ向かった。
町医者を呼び、診てもらったが、原因が分からない。佐幾と東華、花も栄の枕辺に寄って心配そうに様子をうかがっている。
やがて栄は咳き込んで嘔吐し、そのまま息を引き取った。
あまりにもあっけない幼女の臨終に、一同は呆然とした。
しばらくののち、みよが声を上げて泣き出した。佐幾と花も嗚咽を漏らした。
仲基は魂を抜き取られたような衝撃を受けた。めまいを覚え、かと思った次の瞬間、脳内の映像がぷつんと消えるように意識を失った。
再び気がついたときは、自室の布団の上に仰向けで臥せていた。まだ頭がぐらぐらする。栄を失った悲しみが大波のように押し寄せてきて、胸がつぶれそうだった。覚えず目をつぶり、両手で顔を覆った。
みよが部屋へ入ってきた。憔悴し、目を真っ赤に泣き腫らしている。
「すまぬ」
仲基は布団に横たわったまま、みよへ詫びた。
「私が病弱ゆえ、栄にもその体質が移ってしまったのだ。だが、まさかこんなことになるとは……本当にすまぬ」
みよは顔を覆って泣いた。仲基も涙を抑えられなかった。いたいけな幼子を一人で旅立たせてしまったことに対し自責の念に駆られていた。
仲基は再び意識を失い、しばらく目覚めなかった。
八月下旬、仲基は眠るようにこの世を去った。享年三十二歳。
愛娘の栄を失ってからわずか三ヶ月後、自著をようやく世に送り出してからまだ一年足らずのことであった。
危篤の知らせを受けた弟の蘭皐は日初とともに池田から駆けつけ、仲基の病床の傍らにずっと侍っていた。兄の穀斎も知らせを受けて仲基の病床を見舞い、感情のもつれから疎遠になってしまった腹違いの弟のやつれた姿を目にして神妙な面持ちになった。
仲基が生前、日初にも語っていた通史の執筆は、結局、果たせずじまいだった。仲基自身、みずからの健康状態を懸念し、果たして執筆に耐えられるだろうかと不安を抱いていたのだが、天分に恵まれ、人一倍の読書家であった仲基ならば、きっと時代を画するような通史をものするであろうと、日初は大いに期待していた。
だが、娘の夭折という不幸に見舞われて仲基の健康状態はさらに悪化し、死期を早めることとなった運命を日初は悔やんだ。
仲基の死後、みよは大和の実家へ戻った。後日、髪を下ろして尼僧になり、終生、仲基と栄の菩提を弔い続けた。
後年、日初は、仲基の遺志を継いで「日本春秋」という通史を執筆した。
了




