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筆者のストレス解消小説です。大体、二部ずつあげていく予定です。
『司くん、おはよー!』
そんな声で目が覚めた。俺は布団から這い出て、まだ鳴っていない目覚まし時計を止める。この目覚ましが最後に鳴ったのはいつのことだっただろうか。忘れてしまった。
『もう! ほら起きてっ! このままじゃ遅刻しちゃうよー? せっかく作った朝御飯も冷めちゃうよー?』
昨日のうちに作っておいた煮物をレンジで温め、納豆をかき混ぜてご飯に乗せる。父母は既に家を出たらしい。誰も居ない家がやけにむなしく感じる。恐らくは、気のせいではないはずだ。
『司くんっ、寝癖ひどいよ? 制服もヨレヨレだし、脱いだらちゃんと引っ掛けておかないとっ』
アイロン掛けされたシャツに腕を通し、第一ボタンまで閉める。常用しなくても可とされているネクタイも締めて、身だしなみに不備が無いかチェックする。全くもって完璧だ。寝癖も直してあるし、歯も白く輝いている。筋肉も今にもはち切れてしまいそうなほどに盛り上がり、シャツを引き伸ばしている。
『忘れ物だよこれ! 今日体育あるんでしょ? アタシが洗濯しておいたから、ね?』
自分で洗濯しておいた体育着は既に学校のロッカーの中に置いてきた。忘れ物など高校に入ってから一度もしたことが無い。カバンには今日の科目の物がしっかりと収められている。
『じゃあ、準備はいい? あ、口にご飯粒が付いてるよ? ……えへへ、食べちゃった!』
……大丈夫だ。顔は歪んでない。ほんの少し青筋が浮かんでいる程度だ、問題ない。いや、問題が無いわけじゃないが、今はそんなことを言っている場合ではないのだ。抑えろ、俺。さぁ、彼女に最高の挨拶を見せてやろうじゃないか。
「おはようっ! 美衣ちゃん! 司!」
俺が自宅から出ると、隣の家から女の子と共に手を引かれた男が出てきた。女の子のほうは元気溌剌人畜無害といった、人を元気に与えるような声で俺に挨拶を返してくる。
「おはよう仁くん! 今日もちょうど同じ時間だねっ」
男のほうは低血圧なためボーッとしており、前髪で隠れた目からはヤル気といったものが一切感じられない。
「……仁、お前は相変わらずうるさいな。また悪いものでも食ったのか、ん?」
煩いのはどちらだ朝から美衣ちゃんと一緒に居やがって羨ましい妬ましい羨ましい憎らしい……と、文句がダース単位で出そうになるのをグッと堪え、笑う。ここで怒りをぶちまけると美衣ちゃんに嫌われてしまうからだ。
「ハッハッハッハッ! 俺の取り柄と言ったら元気ぐらいなもんだからな! じゃあ俺は先に行くからな! 美衣ちゃん、そのネボスケを任せたぜっ」
俺は親指を立てて、そう言うと二人に背を向けて学校へと向かい始めた。後ろからは、「リョーカイしましたっ!」という美衣ちゃんの声と「脳筋は楽で羨ましいな……」という司の声が聞こえた。俺はそのとき、自分の顔が先ほどまでの笑顔を保てていたか自信が無かった。そして、同時に、何度も何度も問い続けた、あの考えが頭によぎった。
――なぜ、神は俺に”主人公補正”を与えなかったのだ……!
俺の名前は炎燈寺仁。地元の学校に通う高校二年生だ。俺は自分で言うのも何だが、勉強が出来る。運動神経も良く、親父に習った格闘技のお陰で喧嘩は滅多に負けない。しかし、これら全てのことは努力の賜物だ。ガキの時分から血反吐が出るどころか絞っても一滴も出ないんじゃないかという努力によって手に入れたものだ。何故、これほどまで努力するようになったか。それを言う前に彼らの説明をさせてもらおう。
先ほど会った男女は両方とも俺の幼馴染だ。家も三軒一緒に並んでおり、小さい頃から一緒だった。男のほうは藤堂司。女の子の方は橘美衣。
俺は橘美衣にどうしようもないほど惚れている。それも物心つくかどうかという時からだ。しかし、運命は非情だ。彼女が好きになったのは俺ではなく、司のほうだった。
司は常にダルそうにしており、低血圧でぶっきらぼう。線が細く、小さい頃は女の子に間違われるような奴だ。彼を美衣は、小さい頃から甲斐甲斐しく世話をしている。俺はそれを小さい頃から傍でずっと見てきている。
子供の頃の俺は、どうにか美衣に振り向いて欲しくて、あらゆることで一等賞になることに励んだ。小学生の頃は、スポーツマンこそ羨望の的だった。俺は駆けっこだろうが腕相撲だろうが、最初は適わないようなものでも努力することで、最終的に頂点まで登り詰めた。しかし、運動会で俺は何故か司に徒競走で負けた。俺が勝つはずだった。なのに、何故か負けた。特に特訓などもしていない奴に、だ。小学生の頃の俺がそのときに見たものは、一等賞の旗を持った司に抱きついている、満面の笑みを浮かべた美衣の姿だった。俺はあの光景を一生忘れないだろう。
中学生になり、今まで見向きもされていなかった成績というものに皆の目が向き始めた。俺は、足りない頭をやり繰りし、眠い眼を擦りながら学年トップを取り続けた。本気で勉強すれば全教科満点なんて誰でも取れる、その事を知った俺は、「きっと、俺も頑張れば美衣に振り向いてもらえる……」なんて思った。しかし、やはり神は非情だった。俺が必死に勉強していた間、二人は一緒に勉強会を開いていたのだ。俺は、誘われなかった。一度も、だ。涙が出た。百点の解答用紙をビリビリに破いて、庭で燃やした。そして親父に思いっきり殴られた。
そして高校生になり、毎朝美衣が司を起こしに来る声で目が覚めるようになった。高校生になって、美衣は両親不在の司の世話を焼いているらしい。高校生になった俺は、二人の前では”幼馴染の単純馬鹿”を装うようになった。そうでもしないと俺は彼らから隔離されてしまうような気がしたからだ。入学したばかりのうちは、もう美衣と司が幸せになってくれればそれで良いと思うようになっていた。彼らがすぐに結ばれるよう、祈っていた。
しかし、そんなことは無かった。この一年で司はよく分からないうちに二人の女の子に好かれ、異常なほど高スペックな親友までこさえていた。なんだよ、それ。
俺の友人が言うには、司の持っている類まれな幸運、稀に見せる高い能力、それらをひっくるめて”主人公補正”と呼ぶらしい。彼が言うには、『主人公には誰も適わない。主人公の前では敵対する者は全て悪になり、絶対に負ける。だれも勝てないから”主人公補正”なんだ』といったものらしいのだ。
……なんだ、それは?
それじゃあどんな努力しても適わないのか? そのとき俺は、十年以上積み重ねてきたことが全て無意味なことだったのではないかと、自分の世界が揺らいだ。それに付け加えて、彼は言った。
「……主人公がルートを選択するまでは女の子は絶対に他の誰にも靡かないんだ。特殊なゲームでも無かったら、女の子は主人公にずっと一途だ……裏切ることもない。しかも、ルート選択の後も、選択されなかった女の子は操を守るようなこともある。つまり、主人公が他の女の子を選んでいるのにずっと好きってことだね」
この言葉を聞いた時、俺のなかで再び鎖が外された。そう、高校以前の俺だ。”必ず美衣に振り向いてもらう”、これだけを掲げ続けていた俺だ。二人の幸せを祈っていた俺など何処かへ消えてしまった。今、頑張らなければ美衣は絶対に手に入らない。この思いに突き動かされるように俺は行動を始めた。しかし俺は自分にルールを負わせることにした。それは、『高校の間に振り向かせられなかったら、スッパリと諦める』といったものだ。さすがに高校卒業してまで、そんなことをやっていたら精神が捻くれてストーカーになって御用になってしまうような気がしたからだ。
俺もこの一年、何もしていなかった訳ではない。今まで通り、成績もトップを取り続けていたし、心身の鍛錬も欠かさなかった。何より、以前とは違って仲間もいる。
――まだ、決着はついていない……いないんだ。
そう自分に言い聞かせると、俺は自分の頬を叩いて気合を入れた。
「よしっ、行くぞお前ら! 俺は絶対に美衣ちゃんを寝取ってやるぞ!!」
この物語はしがない熱血漢のサブキャラが、無敵の主人公様に立ち向かい、足掻く物語。最強の”主人公補正”とチートスキル満載なヒロインと親友。それに歯向かうサブキャラたちに勝利の女神は微笑むのか。答えは誰も知らない。知らない、が……努力はきっと彼らを裏切らないだろう。
やっと顔が落ち着いて元の状態に戻る。これでどうにか小学生たちに逃げられたりしないだろう。そう思うとようやく、堂々とお天道様の下を歩ける。
ズンズンと学校へ向かっていると、腕を叩かれた。
「ん?」
「おはよう、仁。どうした、そんな体に筋肉張らせて。シャツから筋肉が浮かび上がって金剛力士像みたいになっているぞ?」
俺に挨拶をしてきたこの男は煙崎晃。痩せぎすで常に辛気臭い顔をしているが、今は気分が良いようだ。何かあったのだろうか?
「男子たるもの、外に出ると三度の死闘が待ち構えているものだ。この筋肉で『俺は一向に構わん!』という意思表示をしてるだけだぜ? それより晃、何やら嬉しそうだが……何かあったか?」
そう訊ねると晃は目をギラギラさせながら答えた。
「いやなに、今やっているゲームがやっと終わりそうなんだ。『天使の御足は蜜の味』というものなんだが、ただのバカゲーで足フェチだけが得するゲームなのではないかと言う下馬評だったのだが、実際にやってみるとこれが案外やるものでな。メタトロンを主人公のお姉さんに当てたことには驚かなかったのだがサンダルフォンが妹役で出てきて、堕天させることで被虐体質だったのが加虐体質に……おい? ちゃんと聞いているのか?」
想像通り、ゲームについて話し始めた。”主人公補正”についても教えてくれたのは彼だった。真面目に真摯に話す彼の話に、適当に相槌を打つのも失礼かと思ってどうしたものかと悩んでいると、こちらに女の子が歩いてきた。
「煙崎くん、朝からそんな話はよしなさいな。ほら、炎燈寺くんも困ってるじゃない」
俺に助け舟を出してくれたのは夏瀬緋織。彼女はこの高校の生徒会長をやっている才女だ。今日も校則をビシッと守った制服の着こなしをしており、長い髪も校則に従って纏められているため、何処か堅苦しい印象を受ける。眼鏡とその鋭い目線も相まって尚更だ。しかし、この堅苦しい、緊張した空気を生み出すのが夏瀬くんの良いところであると思う。
「おはようっ、夏瀬くん。……あと、ありがとうな」
後半、意図的に声を小さくして彼女にだけ聞こえるように伝える。
「……何か納得いかないが、挨拶は重要だね。おはよう」
俺と晃が挨拶したのを見て、優雅な仕草で夏瀬くんが挨拶をする。
「ごきげんよう、二人とも。今日も天気が良いですわね。一日、頑張っていきましょう」
彼女も俺の横を歩き始める。と、なるともう一人やってくるはずだ。
「遅いですわね。そろそろ竈門くんが騒がしく現れるころだと思うのですが……」
夏瀬くんが俺と同じ事を考えていた。そう思うと、何故か笑いが漏れてしまう。朝、美衣ちゃんに見せたものとは違う、自然な笑みだ。
「な、何ですかっ? 私、何か変なことを言いましたかっ?」
焦って手をパタパタと動かし始めた夏瀬くんを見て、晃が呟いた。
「こうしている時はあの”鉄血令嬢”とは思えないね。こう、何ていうかドジっ娘?」
「ド、ドジ……!」
夏瀬くんがさらに手をパタパタし始めた。そろそろ助けてやるか、と思っていると、やっと彼がやって来た。
「いよう大将! それと晃と会長もッ! 今日も太陽さんが元気いっぱいだ! 思わずバッグもダンスしちまう!!」
俺たちの横を走りぬけたジャージ姿の彼は竈門清十郎。制服を詰めているのであろう肩掛けバッグが彼の動きに合わせて揺れている。見た感じは細身の彼だが、こう見えてもボクシングにのめり込んでおり、本人曰く”超高校級”らしい。実際に一度殴りあったことがあったが、「そこそこ」強かった。その騒音とも取られかねない賑やかさは立派なムードメーカーという役割へ変化している。
「竈門くん、教室へ入ったらちゃんと着替えなさいな。校則ではジャージでの授業を許可していませんよ?」
「いや、大丈夫だと思うが、夏瀬さん。清十郎はちゃんと校則守ってはいるからね」
目がギラギラしていないときの晃は非常に温厚だ。無愛想にも見えるが、今の彼の目は柔和なものに変化している。常にこうだと良いとも思うが、あれも彼のある意味良いところだと思うと複雑だ。
「そうですか……」と夏瀬くんが答えるのをよそに清十郎は「ハッハー! 太陽最高―ッ!」と空に向かってガッツポーズを取り始めた。これこそ”俺たち”だ。これで、いつもの”俺たち”が揃った。彼らの前なら”幼馴染の単純馬鹿”という仮面を外して”炎燈寺仁”として振舞える。それが俺にはとても心地よいものだった。
しばらく下らないことを話しながら登校する。基本は清十郎がはしゃぎ、夏瀬くんが諌め、晃がフォローする。そして俺はそれを一歩引いて眺め――ようとするのだが、必ず彼らに巻き込まれて、中央に据えられてしまう。
「大将! 大将ォ!!」
「何だ? あとボリュームを下げられないのか? 晃、清十郎の背中に音量調節のツマミが無いか調べてみてくれ」
「いや、無いね。あったら僕がもう下げてる」
「……私も下げてるわね」
二人が清十郎の背中を触ると、「ヒャハハハハッ!」と笑い始め、二人が同時に「気持ち悪い……」と離れた。そんなことも一切、気も留めないで清十郎が話を続けた。
「大将、昨日の夜のロードワークサボっただろ? 俺は寂しかったぞ……」
「すまん、昨日は夕飯を急遽作ることになって、いつもより1時間遅く出発することになった。行きに、戻ってくるお前に会えるかと思ったんだが」
「二人とも、まだロードワークしてるのかい? アレって確かすごいキツイよね?」
晃の疑問に答える。
「そんなことないぜ、晃。家から少し離れた神社まで全力疾走して、短い階段を5往復したらそこからまた少し離れた神社までまた全力疾走。そしたらその神社で筋トレを規定数こなす。それで組み手してまた全力疾走で帰ってくるだけだ。楽なものだろう?」
「……”楽なもの”のはずなのに全力疾走って言葉が三回出てくるんだね。確か夏瀬さんは一回参加したことがあったよね?」
晃に話を振られた夏瀬くんは何故かうんざりした顔をして答えた。
「一度、ね。煙崎くん、筋肉痛の彼岸ってご存知かしら? 全身に針が突き刺されて、そこを毛虫が這い回る感覚っていうのかしら、あれ」
「いや、もういいよ……。僕ら凡人には無理だってことは分かったから」
なにやら、晃がやる前から諦めようとしている。それはいけない!
「諦めるもんじゃないぜ晃! 何事も努力だっ。継続は力となって、より困難な修練に立ち向かわせてくれる。やる前から諦めていたら何も始まらないぜっ!」
「さすが大将ッ! そうだ晃! あと会長も! たまには体を動かさないと錆びちまうッ!」
清十郎が俺に同調して騒ぎ出す。しかし言っていることは正しい。夏瀬くんはたまにジョギングをしているようだが、晃は授業の体育以外は何もしていない。これでいいのだろうか? 友人として何かしてやれることはないのだろうか? そんなことを考えていると、晃は何かを察知したのか、慌てて口を開いた。
「……僕なら間に合っているぞ? いや本当に。仁のそう友人思いな所は非常に有り難いし嬉しい。だが、その”生きるか死ぬか”みたいな体力作りは御免蒙るからなっ」
「ハッハッハッ! 嬉しいこと言ってくれぜ!! 俺こそお前みたいな奴と友達になれて嬉しいぜ!」
俺がそのまま感情を発露させると、晃は居心地が悪そうにそっぽを向いて、
「……そ、それならほんの少しぐらいやってみようかなっ」
と、答えた。言質は取った。あとで必ず連れて行こう。
「そういえば、炎燈寺くん。朝は橘さんに挨拶はしたの?」
夏瀬くんが心配そうに訊ねてくる。俺が美衣ちゃんのことが好きで、司から奪おうとしていることも彼らは知っている。もちろん『高校の間に振り向かせられなかったら、スッパリと諦める』という制限についても知っている。彼らはそれら全てを理解した上で、俺について来てくれている。有り難い。心配を打ち払うために親指を立てて答える。
「おう、完璧だ! 最高の笑顔をお届けしたぜっ! ……まぁその後、一緒に登校するのは怖かったから学校とは逆のほうへ歩く羽目になったが」
しかし、俺の言葉を聞いて三者三様、それぞれ別の反応を見えた。晃は空を仰ぎ、夏瀬くんは溜息を吐き、清十郎はおいおい泣き始めた。
「悲しすぎるぜ、大将……!」
「なっ……! 挨拶はしたぞっ? ちゃんと笑顔で返事もくれたぜ!?」
「これがヘタレってやつかな? それとも空気を読む友人A?」
「ゆっ……!? 友人A……だと……!?」
「あのね、炎燈寺くん? 何でそれで一緒に登校してこないの?」
痛いところをつかれた。俺は口笛を吹いて目線を泳がす。
「諦めて吐きなさいな。私たちはもう一蓮托生、炎燈寺くんの為に私たちは、君以上に本気なの。ね、教えてくれるわよね?」
そこまで言われると俺も誤魔化せない。恥ずかしさを飲み込んで、正直に話そう。
「怖いんだ司が……。俺は今まで努力してきた。なのにアイツには絶対に勝てないんだ。理由が分からないのに負けるんだ……。美衣ちゃんとだけならまだしも、司が居たら俺はただの”脳筋馬鹿野郎”を演じることになるんだ。俺だって嫌なのに、まるで”それを演じることを強要”されているみたいに体が勝手に……」
思わず人差し指を突き合わせてしまう。これがきっと『トラウマ』というものなのだろう。俺は正直言って怖いものなどない――司以外は。小さい頃から何故か司に勝負を挑むたびに負けてしまい、ただの引き立て役になってしまうのだ。その小さな敗北が今は積み重なって巨大な重しになってしまったのだ。
「”主人公補正”だね。これは思っているより厄介だね」
「そんなキツイのかァ? その”主人公補正”って。炎燈寺の大将が負けるとこなんて実際、想像できないぜ?」
「私も藤堂くんの”主人公補正”を味わったことがありますわ」
「え……?」
夏瀬くんがふと、そんなことを言った。
「去年の文化祭でのことです。私はそのときはまだ只の役員でしたが、藤堂くんに文化祭を滅茶苦茶にされましたわ。本当は禁止されているバンド演奏を藤堂くんたちに強行されて、必死に防ごうとしたのですが、彼らだけではなく一般生徒まで何故か藤堂くん側に味方し始めまして……何というか薄ら怖かったですわね。全ての行動が容認されると言うのでしょうか、知らないうちに”正義”になってしまっている辺りが」
俺はそのときの事を覚えている。学園祭で何故か司は他の友人たちとバンドを組んでゲリラライブを始めたのだ。司が校庭に敷き詰められていた屋台を押しつぶして作った即席会場で演奏していたのを俺は食いかけのイカ焼きを片手に呆然と眺めていた。生徒たちは自分たちの屋台を潰されたことで最初は怒りはしていたが、司たちの演奏を聞き終わる頃には万雷の拍手を送っていた。確かにアレは怖かった。傍目で見てる限り、どう見ても新興宗教の洗脳会場だった。
「秩序の戦士である我々生徒会が悪役に……。アレは忘れられませんわね」
夏瀬くんはそのときの事を思い出したのか、ほんの少しの怒りを込めてそう言った。
「いやでもッ! それでも大将が負けるとこなんてマジで想像できねぇよ!?」
そこまで俺を買ってくれているのは嬉しいが、難しいものは難しいのだ。清十郎のその言葉に、俺の代わりに晃が答えてくれた。
「藤堂司の周りには、化け物ばかりが集まっているんだ。長宗我部秀久、一条巴、アリシア・マルムスティーン……どれも名前ぐらいは聞いたことはあるだろう?」
その名だたる学校の有名人たちの名前を聞いた清十郎は「あー、アレかぁッ!」と叫び、何ともいえない、苦虫を潰したような顔になってしまった。当然だ、彼らはこの学校で”四天王”と呼ばれている。むしろ、知らなかった清十郎が珍しい。……ちなみに俺は”化け物”と何の捻りもないあだ名で呼ばれていることを夏瀬くんから聞いた。泣きたかった。
彼ら”四天王”は学内では非常に目立つ。
長宗我部秀久は泰然自若としたどこか悟ったような顔をしている長髪の男だ。彼は常に『勝利』と書かれた扇子を手にしており、運動神経も成績も俺には及ばないがトップクラスだ。なにやら格闘技を嗜んでいるらしいが、詳しくは知らない。
一条巴は地元の神社の巫女をやっている、如何にも”大和撫子”と言った少女だ。見目麗しいのはもちろん、大変な人格者でもあり、成績も良い。そして――帯刀している。俺はその刀が鞘から抜かれるところを見たことがないが、恐らく真剣だろう。
アリシア・マルムスティーンは金髪、紺碧の目とまるで人形のような少女だ。しかし口を開くと清十郎も霞むほどうるさい。晃に言わせると”ツンデレ”といったものらしい。どこかの企業のお嬢様らしく、大金持ちらしい……と言っても俺は詳しくは知らないが。
最後の一人は司に関係している、と言えばしているが障害にはなり得ないので問題ないだろう。とにかく、一筋縄ではいかない奴らばかりだ。もちろん、それだけならただの名物生徒だ。しかし何故か彼らは司に味方をしており、女の子二人は傍目から見ていて分かるほど司のことが好いている。
以前、俺が司不在を見計らって、美衣を二人きりで話したいと誘いに行ったときも、あぁだこうだ文句を付け、邪魔をされたことがある。それ以外にも”司は誰が好きなんだ”と本人に問いただそうとしたときも、何をどう勘違いしたのか、あの三人に訳も分からないうちにボコボコにされたことがある。思い出すと涙が出そうだ。それ以来、俺自身は彼らには近づかないようにしている。
「あー……大将、良かったら俺のタオル使えよ。なッ!」
清十郎がやけに汗臭いタオルを手渡してきた。親切には素直に甘えておこう。
「うぅ……っ! 言っておくが泣いてないぜっ!? 泣いてなんかないぞぉ! 血の汗が目から出ただけだ……!」
「そっちのほうが問題のような気がするがね。どちらにしろ、僕たちは”主人公補正”だけでなく、あの超人たちにも挑まなくてはいかない訳だね。分かったね、清十郎」
「でも、炎燈寺くんだって彼らに負けないぐらい強いわよ? ただ藤堂くんに勝てないだけで」
夏瀬くんの言うとおり、その気になればあの三人を同時に相手しても勝つ自信がある。だが、だがしかし――
「――俺は女を殴れないぜ。……それに美衣ちゃんの前では暴力を振るいたくないっ」
「あら? 私は殴れてよ。それも拳で顔面を」
「夏瀬さんは少し特殊だと思うが彼女の言い分は最もだね。仁が出来ないことでも僕らなら出来ることもある。その逆もしかり。僕らは互いに助け合って、仁の願いを成就させよう」
涙が治まってきたというのに、その言葉でまた目が潤んでしまう。
「お前らぁ!! 俺はお前らみたいな友人に恵まれて幸せものだぜっ!!」
「きゃっ!」
「うお、何だよ大将ッ!」
「ぐむ……っ!」
思わず、人目も憚らず三人を抱きしめてしまう。三人とも恥ずかしそうではあるが、嫌がるそぶりを見せないので良しとしよう。……さすがに周囲にいる登校中の生徒からの目線が痛くなったので三人から離れる。
「と、ともかく! 炎燈寺くんは諦めずに橘さんにアピールを! 私たちも何か良い作戦が無いか考えますから!」
夏瀬くんが顔を赤くしながら言った。そんなに注目を集めたのが恥ずかしかったのだろうか? それで生徒会長をやっているのだから大したものだ。
「…………はぁ」
晃も顔が赤い。恥をかかせてしまったようだ。今後は気をつけよう。
「大将、アイツらってよう……」
顔を赤くしている二人とは違い、清十郎が何かを指差している。横道のほうだ。俺もそちらへ目を向ける。そこには――
「――美衣ちゃん、だ。あと司たちもだ」
向こうから美衣ちゃんが歩いてくる。美衣ちゃんは司に腕を絡めようとして邪険に扱われており、アリシアも同様にあしらわれている。その光景を長宗我部、一条が微笑ましく眺めており、その幸せな空間がこちらにまで伝わってくるようだった。しかし、しかし俺は……。
「ん? 仁か? 俺たちより先に行ったのにまだそんなとこにいるのか? やっぱ筋トレばっかしてると脳に栄養が回らないのか……」
司が相変わらずダルそうに話しかけてきた。”軽口”というのはお互いに揺るがない友好関係があって成立するものだと、その時の俺は痛感した。
「……どうした? まさかアレか? 日本語を解せないほど馬鹿になったのか?」
司の周りの人間がアハハと笑う。一条は「司さん、良い過ぎですよ」などと言っているが口元は笑っている。美衣ちゃんも、笑っていた。当然だ、昔の俺の役割とは笑われる道化だったのだから。
美衣ちゃんとの腕組みを面倒そうに断っていた先ほどの姿を見て、俺は司に対して冷静を保てずに居た。今すぐその、野暮ったい前髪ごと顔面を叩き割ってやりたくなる。怒りが心のうちを染め、いつもの”脳筋馬鹿野郎”を演じられない。
もう、駄目だ。そう思ったとき、
「――仁、そろそろ購買がしまるぞ? シャー芯を買うだとか言っていただろうに。僕からペンを借りたくなかったら急ぐんだね。僕のペンは痛ペンだから目立つぞ?」
そう言って晃が腕を叩いてくれた。その言葉で我に返った俺は、どうにか顔を作り、
「そういう訳で俺は急ぐぜっ! じゃあな!」
カラカラに乾いた舌をどうにか動かして言葉を紡いだ。どうにか怒りを抑えると、体も動き始めた。晃たちも付いて来る。後ろから何か聞こえてくるが聞こえない。いや、この茹った頭では理解出来ないのか。
少し歩くと随分と冷静になれた。俺は司を恨んでいるのか? いや、それは無い。腐っても幼馴染だ。ただ、今は少し拗れているだけだと思い込むことにした。
「さっきはありがとうな、司。本当、助かった」
俺がそう礼を言うと、晃は珍しく笑みを浮かべて肩を竦めた。
「そりゃ、仁が今にも殴りかかりそうな顔をしてたからね。清十郎と夏瀬さんも臨戦態勢だったし」
「……えっ?」
「……自分の大将がコケにされて黙ってられっかよッ! でも大将が動かない限りは俺は動かねェから安心しな! ハッハー!!」
清十郎が頭に血が上がりやすいのは知っていたが、夏瀬くんまでそんな状態になっていたとは思わなかったので、思わず驚きの声が出てしまう。
「あら? 私だって怒りますもの。炎燈寺くんが立ち直らなかったら私が動いてましたわ」
夏瀬くんが心まで凍てつかせるような笑顔でこちらを見てくる。ものすごく恐いので、やめて欲しい。
「しかし、彼らも酷いものでしたわね。また藤堂くんたちが嫌いになってしまいました」
事も無げに夏瀬くんがそんなことを言う。
「おいおい、会長がそんな事言うものじゃないぜ?」
「ふふっ、私は生徒は平等に扱いますが、個々人は別ですわ。私にも感情がありますもの」
「おっかねぇな、この会長……!」
「上司には絶対に欲しくないタイプだね。仕事がなまじ出来るから厄介だ」
晃と清十郎の言葉で思わず笑ってしまった。さっきは軽口で怒り、今は笑う。人間なんていい加減なものだな、なんて思ってしまう。そう思うと更に笑えてくる。
「ちょっ、ちょっと炎燈寺くん! 笑いすぎですっ! 何がそんなに面白かったのかですか!?」
夏瀬くんがまたも、パタパタし始める。俺は三人を見渡し、こう言った。
「いやなに、俺にはやっぱりお前らが必要だと思っただけさ! さぁ授業が始まるぜっ! とっとと学校へ行こう!!」
そう言うと俺は胸を張って歩き始める。夏瀬くんも釈然としない顔を浮かべながらも歩き始めた。清十郎は笑いながら、晃はいつも通り辛気臭い顔で。とにかく、授業だ。授業すら真面目に受けられない男が、女の子にもしっかりと向かい合える訳がないのだから。