第一部 尼子秘帳 三
諸般の事情で訂正いたします。
深くお詫びいたします。
本郷小石川の根津権現と白山権現を結ぶ道筋には寺が多い。
その道筋の中間あたり、大田備中守下屋敷の近くに瑞竹寺がある。
黒鷹精久郎の人別は、京都の北野天満宮の客分になっている。
江戸へ出るとき、北野天満宮から、いくつかの神社や寺を紹介された。
その一つが瑞竹寺であった。
なぜ瑞竹寺にしたのか。
瑞竹寺を選んだことに、とくべつの理由はなかった。
江戸の寺社について選別するだけの知識は、まだない。
しいていえば、竹という字が気に入ったからである。
真っ直ぐに伸びる竹は、どこか黒鷹精久郎の野望に通じるものがある。
黒鷹精久郎が瑞竹寺に着いたのは辰一ツころであった。
宿で道を聞き、道筋を確認しながら来たのである。
出来るだけ早く絵図を買い、江戸の地理を覚えなければならない。
名前の通り、瑞竹寺の庭には竹が配してあり、寺の裏手は竹藪になっている。
この寺の離れ座敷に寺の円仁和尚が入ってきた。
その後ろから黒鷹精久郎が続く。
円仁和尚は窓の障子を開けた。
裏手の竹藪が見える。
「ここですが、如何かな?」
黒鷹精久郎は、十分すぎる部屋だ、という顔つきで頷いた。
「よかった……。他に何か……」
「二つ」
「はい?」
「江戸の絵図を拝借したい。すぐに買うつもりですが、それまでの間」
「私が持っているのをお貸ししよう」
「それと、食事ですが……」
「心配なさるな。酒ですな。心得ておりますわい」
「そうではありません。食事は玄米をお願いしたい」
「江戸へ来て玄米?」
「もしご面倒なら、私が作ります。それに、生味噌があれば、それで結構」
「ふうん……」
円仁和尚は、皮肉な口調で続けた。
「剣術修行も大変ですのう……」
その日の昼過ぎまで、黒鷹精久郎は絵図を見続けた。
江戸の地理を頭に叩き込む。
午後は、江戸の町を歩き回った。
外堀を作っている川沿いに江戸の町を一周した。
歩きながら考えた。
もし江戸城を攻めるとすれば、どうするか。
武士として、軍略を考えるのが習慣になっている。
これで一日が終わった。
次の日、北野天満宮から紹介されていた寺社を回り、挨拶をした。
それが済むと、足を日吉山王大権現へと向けた。
江戸の鎮守の神であるから見ておく必要がある。
広大な敷地を歩き、左手に算額が架かっているのを見つけた。
これは見ておく必要がある。
ひときわ大きな算額を見つけ、首をかしげた。
その、真新しい算額には、三角形や円が描かれていた。
そして、問題と答えが書いてある。
つまりは、幾何学の問題を解いた、と誇らしげに宣言をしているのだ。
そして、遺題も書いてある。
つまりは、「応用問題として、次の問題を解け」ということなのだ。
黒鷹精久郎が首をかしげたのは、応用問題が難しかったからではない。
この算額の奉納者の名前が、〈算士吾郎〉だったからである。
室町時代の末期に明から算盤による計算法がもたらされた。
これで日常の計算が各段に簡易になり、人々に歓迎された。
江戸初期に、実用計算の仕方を説明した計算書『算用記』が発行された。
そのすぐ後に、純粋な算術書である『塵劫記』が出版され、大いに歓迎されて、算術が興ったのである。
江戸時代には、趣味としての算術が大流行した。
多くの人が、楽しみから算術の難問に挑戦し、その結果は、算額として寺社に奉納した。
武士のたしなみの一つとして囲碁がある。
軍略の訓練としては恰好のものなのだ。
黒鷹精久郎としては、囲碁よりも算術が好きであった。
囲碁では相手が必要だ。
囲碁と違い、算術ならば、独りで考えを巡らせることができる。
折に触れて寺社の算額を見て、遺題を考えることがあった。
そして、今日、偶然に日吉山王大権現へ来て算額を見つけたのだ。
そして、〈算士吾郎〉という名前を見つけたのだ。
(しかし、算士吾郎とは……)




