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第三部 阿吽仁王 五

 浅茅村から本郷の瑞竹寺までは一日の距離である。

 黒鷹精久郎が阿弥陀堂に戻ったのは夕暮れであった。

 部屋の中を見渡す。

 部屋の隅には、本が重なっている。

 『孫子』、『呉子』や『甲陽軍鑑』などの兵法書、『史記』、『吾妻鏡』といった歴史書だ。

 それに『唐詩選』や『三体詩』のような漢詩の本もある。

 もちろん、『塵劫記』もあった。

「薬草については、ほとんど知らない。迂闊であった」

 浅茅五郎左右衛門から薬草の本が届いたら、読破しなければならない。

 黒鷹精久郎は寝た。

 火傷の傷が痛むが気にはしない。


 次の日。

 朝の鍛錬を終わると瑞竹寺を出た。

 昼まで、いくつかの刀屋を尋ねた。

 阿仁王丸のことを聞いたのである。

 だが、どこの刀屋でも、詳しいことは分からなかった。

 分かったのは、次の伝説だけであった。

 大刀の阿仁王丸、小刀の吽仁王丸が、揃いになっている――。

 越中呉服郷郁正が鍛えたとされている――。

 銘は無い――。

 茎には、大刀では阿仁王丸、小刀では吽仁王丸と彫られている――。

 大小が分かれているときは、お互いを捜して、血を求める――。

 大小を揃えて腰に差した者は、人を斬りたくなる――。

 明智光秀の怨念が取り憑いている――。

 子は怪力乱神を語らず、という言葉があるが、黒鷹精久郎も武士として、こうした伝説は信じていない。

 ただ、阿仁王丸をこの眼で見た、それは確かであった。

 やがて昼になった。

 黒鷹精久郎は雑司ヶ谷音羽町の本多道場へ向かった。

 先日、見学をした道場である。


 昼までは、稽古があり、見学の武士もいる。

 昼過ぎからは、道場主の本多万太郎と側近の者たちだけであろう。

 こう考えて、昼過ぎまで往訪を待ったのである。

 黒鷹精久郎は、玄関で往訪の声を出した。

 出て来たのは師範代の後藤寅三郎であった。

 この前、門弟たちに稽古をつけていた師範代である。

 後藤寅三郎は、黒鷹精久郎を見詰めて、言った。

「どこかで見た顔だと思ったが、確か、この前、見学に来た奴だな」

「道場主の本多殿は、ご在宅か?」

「ああ、だが、何の用だ?」

「聞きたいことがある」

 後藤寅三郎は、薄笑いを浮かべて、言った。

「先生にお目にかかるのは、稽古の後だ。

 道場へ来い。

 一手、教えてやる」

「稽古をしに来たのではない。

 聞きたいことを教えてくれれば、それでよい」

「稽古が恐いか?」

 黒鷹精久郎は、左手で大刀の鞘を掴んだ。

 同時に、右手で柄を持つ。

 腰を捻る。

 三尺三寸の白刃が出る。

 刀の先端が、後藤寅三郎の喉に触れた。

 後藤寅三郎は、その場に棒立ちとなった。

 黒鷹精久郎が、刀を突き出したまま、言った。

「これで、稽古は、終わり」

 黒鷹精久郎が、刀を鞘に収めて、言った。

「本多の所へ、案内して貰おう」

 後藤寅三郎は、腰砕けの姿勢で、細い声を出した。

「こ、こちらへ、どうぞ」

 黒鷹精久郎は、後藤寅三郎の後から廊下を進んだ。

 奥の間の前で、後藤寅三郎が言った。

「先生」

 部屋の中から、声がした。

「何だ?」

「そ、そのう……」

 黒鷹精久郎が、障子を開けて、言った。

「失礼する」

 中にいた道場主の本多万太郎が、黒鷹精久郎を見た。

 黒鷹精久郎と後藤寅三郎が、部屋に入った。

 後藤寅三郎は、本多万太郎の後ろに、力なく座った。

 本多万太郎は、後藤寅三郎の姿を見て、事情を察した。

 本多万太郎が言った。

「貴公は、この前、見学に見えられた方ですな?」

 黒鷹精久郎は、本多万太郎に対座して、言った。

「その見学のことで、聞きたいことがある」

「何でしょうか?」

「あの時、道成寺流楠山真伝斎殿のことを話していたな」

「はい」

「あの話は、いつもするのか」

「いいえ、あれが初めてですよ」

「初めて?」

「ええ、実は……」

 本多万太郎は、次のような説明をした。

 本多万太郎は、道場へ見学に来た者たちに、剣の達人の逸話を話すことにしていた。

 愛洲移香斎、上泉信綱、滋音などの、戦国時代の伝説上の達人たちの逸話である。

 だがしかし、さすがに話の種が尽きてきた。

 そこで思い出したのが、父親で先代道場主の本多宇兵衛から聞いた話である。

 本多宇兵衛は、壮年の頃、剣を悟るには禅の修行をしなければならない、と思い至った。

 それで、駿河の国へ行き、禅僧白隠に入門したのである。

 その時、弟子の中にいたのが楠山真伝斎であった。

 同じ剣術をやる者どうしとして話が合った。

 二人は、並んで、禅の修行に励んだ。

 その後、白隠が入滅した後、本多宇兵衛は江戸へ戻り、本多道場を開いた。

 楠山真伝斎は、風の便りでは、諸国武者修行へ旅立った、ということであった。

 そして、今から十年ほど前。

 それは、本多宇兵衛が死ぬ直前であったが。

 楠山真伝斎から手紙が届いた。

 剣を捨て、市川真間浅茅村に隠棲した、という手紙である。

 本多宇兵衛は、一度尋ねてみたい、と思っているうちに、死去したのであった。

 本多万太郎は、黒鷹精久郎に、こうした説明をした後、付け加えた。

「楠山殿は、剣の天才だ。

 そのように父は、言っておりました」

 黒鷹精久郎は、思い出しながら、言った。

「天才。

 そうかもしれない」

「今の時代に、そんな凄い人が、まだいるんですよ。

 これは、ぜひ、達人の逸話に加えなければならない、そう思いました」

「では、楠山殿や阿仁王丸のことを知っているのは、あのときの五人だけか」

「ええ」

「あのとき、記帳したが、その写しが欲しい」

「いいですよ。

 おい後藤、用意しなさい」

 黒鷹精久郎は、写しを書いた懐紙を貰うと、部屋を出た。

 玄関まで送って来たのは、後藤寅三郎である。

 黒鷹精久郎が玄関を出るとき、後藤寅三郎が声をかけた。

「あ、あのう」

「何だ?」

「い、いえ。なんでもありません」


 本多道場を出た黒鷹精久郎は、富士見坂を登った。

 本多道場で貰った、写しを書いた懐紙を見る。

 四人の武士の名前と、人別が書いてある。


  上山銅之助、伊勢国奥平松平家。

  下谷大学、摂津国永井家。

  左川次郎、旗本。

  右岡貫太郎、旗本。


 ちょうど二人は、陪臣。

 残り二人は、旗本である。

 あの四人は、それほど、骨があるとは見えなかった。

 おそらく、四人のうちの誰かが、某に阿仁王丸の話をしたのであろう。

 某は、刀の収集をしていたので欲しくなった。

 だが、楠山真伝斎が阿仁王丸を呉れるはずはない。

 楠山真伝斎に剣術で勝って手に入れるほどの強さもない。

 それで、強奪したのである。

 黒鷹精久郎は、こうしたことを考えた。

 では、四人のうちの誰であろうか? 


 黒鷹精久郎は、八丁堀へ向かって、歩き出した。

 伝通院へ出て、そこから市谷御門へ向かう。

 市谷御門からは、御城を右に見て、濠沿いに進み、日本橋へと歩く。

 海賊橋で楓川を渡り、八丁堀へ入る。

 九鬼式部少輔上屋敷に近い一画の組屋敷に、芥川行蔵が住んでいた。

 芥川行蔵は同心である。

 昼の時間なので、同心の芥川行蔵が家にいるとは思えない。

 黒鷹精久郎は、用事がある、と書き置きをするつもりで、いた。

 だが、芥川行蔵は在宅していた。

 庭の松の木を見ながら、難しい顔をしている。

 黒鷹精久郎が、言った。

「家にいるとは、暇そうだな」

 芥川行蔵が、難しい顔のまま、言った。

「とんでもない。忙しいから、家にいるんですよ」

「どういうことだ」

「辻斬りがありましてね」

「ほほう」

「辻斬り、と言っても、一件は、槍で突かれたのですが」

「それを、調べているのか?」

「ええ。目明かしたちを、方々へ、走らせています。

 私は、ここで報告待ち」

「ここが、本陣、というわけだ」

 芥川行蔵は、難しい顔を解いて、言った。

「それで、何か御用ですか? 

 まさか、私の庭を見に来たんではないでしょう。

 これでも、自慢の庭なのですが」

「聞きたいことがある」

「はい、どうぞ」

「抜け荷をしている薬種屋を知らないか?」

「ええ? 

 とんでもないお尋ねですな。

 抜け荷をしてることが分かれば、すぐ御用にしていますよ」

「そうだろう。

 だが、抜け荷の疑いはあるが、うまく立ち回っていて足を出さない、という店は、どうだ?」

「あります」

「それを、知りたい」

「薬種屋小松屋仁右衛門」

「抜け荷をしている、という疑いは?」

 芥川行蔵は、次のような説明をした。

 もちろん、信用第一の大店では、抜け荷などしない。

 小商いの店では、抜け荷をする資金がない。

 抜け荷をすると思われるのは、中堅どころの店なのだ。

 そんな中で、芥川行蔵が、臭いぞ、と眼をつけているのが薬種屋小松屋仁右衛門であった。

 普通、薬種屋は、和製の薬と同時に、清から輸入された唐物、長崎の出島を通してもたらされた南蛮物も取り扱っている。

 だが、薬種屋小松屋仁右衛門で取り扱っているのは和製の薬だけであった。

 輸入関係は、一切していません、というのが、返って怪しい、と芥川行蔵は、思っていた。

 また、目明かしが、偶々、小松屋仁右衛門が、大川で大尽遊びをしているのを見たそうである。

 厳密に言うと、誰かが派手な遊びをしているのを、目明かしが、不審に思ったのだ。

 誰が遊んでいるのか、と船宿に聞くと、それは秘密だ、ということであった。

 なにしろ目明かしなので、おかしい、と思い、調べたのである。

 そして、小松屋仁右衛門だと分かったのであった。

 小松屋仁右衛門は、堅い人物で、通っていた。

 それなのに遊んでいる。

 しかも、その遊びは、小松屋仁右衛門の身代では、出来るはずのない、大きなものである。

 こうしたことで、薬種屋小松屋仁右衛門は、抜け荷をしているのではないか、と疑っているのであった。

 芥川行蔵は、続けた。

「しかもですよ。

 小松屋仁右衛門は、出歩くとき、用心棒を連れていることがありまして」

「用心棒? 

 堅い者にしては、おかしいな」

「はい。

 用心棒と出歩くときは、抜け荷関係の用事だ、と読んでいるんですが」

「まだ、証左が掴めない?」

「そうです」

「小松屋仁右衛門の店は、どこだ?」

「須田町。

 この近くです。

 八丁堀の近くに店を構えて、抜け荷などするわけないでしょう、と言うつもりなんですな」

「分かった。

 かたじけない」

 黒鷹精久郎は、立ち上がった。

 芥川行蔵が、聞いた。

「小松屋仁右衛門を、斬るんですか?」

「そうなるかもしれない」

「終わったら、私の名前を出しなさい。

 後始末して差し上げます」

「そうしよう」


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