第二部 巖頭孤鷹 一
その日、江戸の町は、一面の銀世界であった。
昨日は、一日、雪が降っていたのである。
だが、春を告げる雪でもあった。
晴天になった今日、雪は、凍りつくこともなく、溶けかかっている。
泥濘んでいる道を、黒鷹精久郎は歩いていた。
湯島天神裏門坂通りである。
甍に積もった雪が輝いている。
道が泥濘では足が取られる。
雪が輝いていては、眼が眩むおそれがある。
今ここで斬り合いになったら、充分の動きができないだろう。
黒鷹精久郎の歩行は、いつもより緩やかあった。
板倉攝津守の上屋敷を過ぎる。
そして、ふと、歩を止めた。
また、すぐに、歩き出す。
左手に塀が切れている。
その道から白刃が出た。
黒鷹精久郎は、身をかわし、相手の両手を掴む。
そのまま、捩って、投げる。
相手は道に倒れた。
黒鷹精久郎は、振り向きもせず、歩き続けた。
下谷廣小路に出る。
寛永寺の壮大な伽藍を左手に見て、右へ曲がる。
廣徳寺や泰宗寺などの広い寺を過ぎると、小さな寺が並んでいる。
黒鷹精久郎は、そうした小さな寺の一つ、紫雲山正法寺の山門を入った。
境内では、小僧が泥濘を整えていた。
小僧が黒鷹精久郎を見た。
「あっ、あなた様は、ええと……」
前に来たのを覚えていたのだ。
だが、名前が出ない。
「黒鷹精久郎。和尚にお眼にかかりたい」
黒鷹精久郎の人別は、京都の北野天満宮の客分になっている。
江戸へ出るとき、北野天満宮から、いくつかの神社や寺を紹介された。
本郷の瑞竹寺に泊まっているのは、そういった関係からであった。
寛永寺近くの正法寺も、紹介された寺の一つであった。
黒鷹精久郎は、江戸へ出てきてすぐ、正法寺へ行った。
正法寺の月仙和尚に、江戸へ出てきた旨、挨拶しに行ったのである。
それから二度ばかり正法寺を訪ねた後で、月仙和尚が言った。
「黒鷹様、折り入って、お願いがございますが」
願いとは、『三体詩』の書写であった。
さる旗本から『三体詩』と『唐詩選』が欲しい、と頼まれたのであった。
「私は『唐詩選』を書写しておりまして、それだけで手一杯でございます」
それで、黒鷹精久郎に『三体詩』の書写を頼んだのであった。
別に、拒む理由もない。
それどころか、『三体詩』は、黒鷹精久郎が好きな本であった。
そして今日、完成した『三体詩』を持参したのである。
正法寺は狭い寺である。
客間は、本堂に隣り合う書院造りの部屋しかなかった。
その部屋に、黒鷹精久郎は、月仙和尚と対座した。
黒鷹精久郎が、『三体詩』を月仙和尚に手渡した。
月仙和尚は、すばやく中を一覧した。
黒鷹精久郎は、黙ったまま、見ている。
月仙和尚は、頷いて、言った。
「いやぁ、大したものだ。
見事、見事。
書写をお願いした甲斐がありました」
黒鷹精久郎は、何も、言わない。
「この隷書体が素晴らしい。
黒鷹様は、剣だけではなく、書もいい。
文武両道で達人でございますな」
黒鷹精久郎が、口に笑いを作って言った。
「文武両道は和尚であろう。
正法寺月仙の王羲之風、といえば書の世界で知らない者は、いない」
黒鷹精久郎が、続ける。
「しかも、富田流の使い手。
この前、鐘を撞かれたときの腰の据わり、只事ではなかった」
「黒鷹様、江戸の水に染まりましたか」
「うん?」
「お世辞をおっしゃるようになられた。
ところで、これの礼金、五両の話ですが」
「何か?」
「二、三日、待って貰えませんか」
「別に構わない」
「もちろん、今日、お渡しする予定で用意していたのですが。
実は……」
月仙和尚は、立ち上がり、天袋を開けた。
掛け軸の箱を取り出す。
月仙和尚は、元の位置に座り、掛け軸を取り出した。
畳の上に拡げる。
月仙和尚が言った。
「ご覧下さい」
その掛け軸は、荒海に突き出た巖を描いた水墨画であった。
絵の下の方に、海に突き出た巖がある。
巖は、絵の右手で大きく尖っている。
尖った先端に鳥が止まっている。
鳥の眼が鋭い。
絵の左手には大きな波が描いてあった。
今にも、鳥と巖に覆い被さりそうな巨大な荒波である。
月仙和尚が、嬉しそうに、言った。
「昨日、巴屋がこれを持ってきましたので」
「巴屋?」
「骨董屋でございます。
巴屋八郎右衛門」
「和尚には、骨董の趣味があるのか」
「ほんの、手すさびです」
「それで、これを買った?」
「さようでございます。
その場で、言い値で買いました。
手持ちの五両と、黒鷹様に用意していた五両、合わせて十両」
月仙和尚が、頭を下げた。
「すみません。
手持ちが五両しか無かったものでして。
明後日までにご用意いたしますから、ご勘弁を」
「構わない」
月仙和尚が、謎をかけるように言った。
「如何です。その鳥は、何だと思いますか」
「鷹」
「はい。鋭い爪、濡れた羽根、凛とした眼。
なみなみならぬ技量です」
月仙和尚は、自分の言葉に酔うようにして、続けた。
「波と風が渦を巻く荒海。
そこに突き出て、波を受け止めている巌。
その巌にただ独り留まっている鷹。
ようやく休める巌を見つけて、留まっているのか」
黒鷹精久郎が言った。
「それとも、いま、まさに飛び立とうとしているのか」
月仙和尚は、うれしそうに頷いて、言った。
「巴屋は、宮本武蔵の作だと見ています。
それで、剣術好きの私の所へ持ってきたわけなのです。
私の前に、一人の武士に見せたらしいのですが。
でも、その武士は、十両なんて大金、持ち合わせがない、と言ったのだそうで。
そうしたわけで、即金なら私にゆずると。
まあ、武士に見せたという話は、商売上の嘘かもしれませんが。
だが、いずれにしろ、十両なら安い、と思いました。
どうです? 黒鷹様」
黒鷹精久郎は、考えながら言った。
「宮本武蔵が描きそうな画題ではある。
実際に、波しぶきが飛んでくるような。
鷹の深い孤独。
それでも、嵐の海に立ち向かう決断。
しかし、表面的な絵柄だけではない。
もっと深い。
何だろう?」
「さすがですな。一言でいえば、禅」
「そういうことになるか。
だが……」
黒鷹精久郎は、もう一度掛け軸を凝視して言った。
「これ、墨が古すぎる気がする。
宮本武蔵なら、せいぜい百五十年前」
「はい。私は、三百年はあると見ました。
その頃の、禅も究めた最高の達人」
「まさか」
「その通り。雪舟だと思います」
「それならば、私の五両を使いたくもなるな。
千両はするであろう雪舟が、十両で手にはいるのだから」
「すみません。二、三日うちに作りますから」
「この次に来るときで結構」
黒鷹精久郎は、立ち上がった。
「ああ、黒鷹様」
「ん?」
「よろしければ、この絵、お貸ししましょうか?
独り、荒海に向かう鷹。あなた様そっくりだ。
それに、雪舟なんて、滅多に拝めるものじゃありません。
部屋に掛けて、一日中眺めていても、よろしいんではありませんか?」
「和尚。鏡を見るか?」
「はい? そりゃぁ、髪を剃るときに見ますが」
「鏡を部屋に掛けて、一日中眺められるか?」
黒鷹精久郎は部屋を出て行った。
月仙和尚は、納得した顔つきで、独り言ちた。
「自分の姿を一日中眺めていてもしょうがないか」




