第一話 無茶です!!
「無茶です!!」
叫んだ声が、真夜中の工房にわんわんと響いた。
私、ミュシャ・アルフォンスは、しがない貧乏男爵家の三女で、王都の片隅にある版画工房「ルメルシエ」の下働き。
年の瀬も押し詰まった大晦日、家族と暖炉を囲むこともなく、ひとりインクの匂いに埋もれて雑用をしていた。
その私の前に、大女優が立っている。
サラ・ベルナデット。
王立華月歌劇場を本拠地とする華月歌劇団の座長にして、この国で知らぬ者のいない舞台の女王。
深紅の外套に雪を乗せたまま、彼女は工房の床を踏み鳴らして言い放ったのだ。
「明日から始まる新作の宣伝画がない。描け」
「え……あの、親方は年末の休暇で領地に……」
「知っている。だから残っているお前に言っている」
「わ、私はただの下働きで、宣伝画なんて描いたことも……」
サラ様は私の言葉を最後まで聞くこともなく、ばさりと外套を翻すと、続けざまに指を折った。
「舞台美術も見てもらう。衣装の意匠も出せ。ついでに髪飾りと腕輪も考えろ」
「ぜ、全部!?」
「全部だ」
「無茶です!!」
私はとうとう筆立てを抱えて後ずさった。
「舞台美術に、衣装デザインに、装身具の意匠まで一晩でやれって……そんなの、全部やった経験なんてありませんし、きっと酷い出来栄えになります……!劇場の名前に傷がつきます!」
我ながら情けない声だけれど本当のことだ。
私は絵が好きなだけの小娘で、工房ではインクを練り、版を洗い、紙を運ぶだけの人間。
誰かに「描いてくれ」と乞われたことなど、生まれてこの方一度もない。
彼女はそんな私をじっと見下ろすと、作業台の隅に積まれた反故紙を一枚、無造作につまみ上げた。
――しまった。
それは、誰にも見せるつもりのなかった落書き。
版画の余白に、思いつくまま描き散らした草花と、その中に佇む女の姿。
ただの落描きを彼女はマジマジと見つめる。
「これは、誰が描いた」
「……私です。すみません、紙を無駄に」
「馬鹿を言うな」
サラ様は紙を高く掲げ、ランプの光に透かす。
「私は三十年、舞台の上で人の視線を集めて生きてきた。だから分かる。――これは、人の足を止める絵だ」
彼女の横顔から、ふっと女王の険が消えていく。
「経験がないだと?結構。経験のある連中の絵は、みんな同じ顔をしている。私が欲しいのは、見た瞬間に、雨だろうが雪だろうが、嵐の中ですら立ち止まってしまうような一枚だ」
彼女は紙を私の胸に押しつけた。
「黙ってやれ、ミュシャ!!」
――こうして私の人生は、たった一晩でひっくり返ることになった。
演目の名は『ジスモンダ』。
異国の女王が、身分違いの男を愛し、王冠と恋のあいだで引き裂かれる悲劇。
台本を渡され、私はそれを三度読んだ。
読むたびに胸が痛んだまま、筆を執った。
女王を、玉座の上に描くのはやめた。
人の心を打つのは、権威ではないと思ったから。
私は彼女を、細長い縦の画面いっぱいに、まっすぐ立たせた。
ひとりで、静かに。
背景には、金と青のモザイク。
頭上には後光のような円環。
裾には唐草をびっしりと這わせ、その渦の中に春の草花を隠した。
手には棕櫚の葉を一枝。
「なんてひどい絵」
この国の宣伝画は、赤と黄色で人目を引くのが常識だった。
だから私は逆をやった。
落ち着いた金と、深い青と、灰がかった薔薇色。
雪の街に貼られたとき、それだけが静かに光るように。
ペンが走り、時間の感覚が消えていく。
窓の外で年越しの鐘が鳴っていたことにも、しばらく気づかなかった。
ふと顔を上げると、工房の入口に人影が。
「――ひどい絵だ、と自分で言ったな」
若い男の声。
外套の頭巾を目深にかぶり、肩に雪を積もらせている。
街の見回りの衛兵だろうか、とぼんやり思った。
「窓から灯りが見えた。年越しの夜に働く者がいるのかと」
「……すみません。うるさかったですか」
「いや」
男は近づいてくると、床に広げた下絵を覗き込む。
「なぜ、金を背景に使った」
「……この街の冬は、灰色ですから」
寝不足のせいで、あまりにも正直に喋りすぎていた。
「みんな寒くて、うつむいて歩いています。だから、顔を上げた瞬間に、少しでも暖かいものが目に入ればいいなと思って。……女王の悲劇の話なのに、変ですよね」
彼は答えなかった。
ただ、しばらく絵を見つめてから言った。
「変じゃない。……それは、王が本当はやるべきことだ」
意味が分からず首を傾げると、彼は小さく笑って私の手を指した。
「指が青い」
「あ、顔料が……。落ちないんです、これ。私が調合しているので、余計に」
「――覚えておこう」
彼はそう言って雪の中へ出ていった。
その姿を見送ると、私は再び筆を取り、朝日が版木を照らすまで描き続けた。
最後に、いつもの癖で、唐草のいちばん奥に小さな四つ葉をひとつ描き込んだ。
母が死ぬ前に、「あなたの絵には、お守りを一つ入れなさい」と言ったからだ。
誰にも見つからないほど小さく。
それが、後に私を救うことになるとは知らずに。
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