後編
結果として、大した乱闘にはならなかった。
というよりも、乱闘が始まりかけ、そして始まる前に終わってしまったのだ。
船を接近させるや否や、サラファは軽い体躯を活かし大きく跳躍すると、相手の船に飛び移った。
相手が驚愕するうちに、最短のルートで船長ケヴァンに肉迫し、何かを囁いたのだ。
その言葉が何かはラシューの知るところではない。
しかし、聞いたケヴァンが目を大きく見開いて、今にもサラファに襲いかかろうとしていた船員たちを制したことから、何らかの重要な言葉であったことは推察できた。
彼らは今、二人きりで話をしている。
無事であってくれとラシューは思ったが、それ以上に、何でもいいから早く戻ってきてほしかった。
ラシューとて、サラファが些か乱暴な手で船長になったことに思うところがないわけではないが、今ではその人柄を知り慕ってもいる。
なので、これは別にサラファが嫌いだから好きだからということではない。
単に、
「お前ら一体何者だ? あぁん?」
「ヒヒヒヒッ、そう怯えんなよなぁ」
「そりゃお前の顔が強いせいだろうが」
「あ? なんだやんのかコラ」
「へっ、いいぜ受けてやる」
「おいおい、お前たちは何やってんだよ? ほら、大切なご客人が放置しちまってるぜ? ヒャヒャヒャ!」
屈強な男ども数百人に囲まれている現状が怖くて耐えられなくだっただけの話である。
そしてちなみに、騒ぎで目を覚ました他の船員たちは、船からこっそりと見えないように様子を伺っていた。
一方、別室の二人は和やかとも取れる静寂の中で飲み交わしていた。
といっても机に置かれた二つの杯の一方、幼いサラファが飲んでいる方はワインではなく、それを煮て酒を飛ばした“苦い葡萄水”である。
「それで、お前が本当に……」
「ああ。俺はザクレンだ」
むぅ、とケヴァンは低く唸った。
動物の威嚇のように聞こえるそれは、たいてい人をひどく怯えさせるが、サラファはそれがケヴァンが思案する時の声であると知っていた。
知っていなかったところで、怯えるようなことはなかっただろうが。
だが、とケヴァンが徐に口を開く。
「そんなことが本当にあるものなのか、その……」
「生まれ変わり、か?」
「そうだ」
「しかし、そうでなきゃどう説明するって言うんだ? 俺が今、記憶を持ってここにいることをよ」
「むぅ……」
ケヴァンが再び唸ると、サラファは舌打ちして葡萄水を呷った。
この男は、豪放磊落に見える外見とは裏腹に意外と思慮深い。
だからこそ大海賊の副船長が務まったのであり、そして船長となっているのだ。
その熟慮により救われたことは何度もあった。
だが、サラファは待たされるのが嫌いだった。
葡萄水を飲み干し、その木の杯を机に叩きつけると、チッとまた舌打ちをした。
「ったく、相変わらず決断が遅ェな小獅子は」
ピクッとケヴァンの肩が跳ねた。
耳元で囁かれたのと同じ、小獅子という呼び名。
それは今では呼ぶ者のいないはずの呼称であり、かの船長が彼に付けた最も古いあだ名だった。
ケヴァンが若い時、彼はすでに強さを発揮して若獅子という通り名があった。
しかし、あまりに無謀で浅慮な様を見て、船長が言ったのだ。
「お前は若獅子というよりも子の獅子だな。巣を飛び出しては外の世界を探検したがる好奇心旺盛な子獅子だ」
それから、ケヴァンは思慮深くあるように努力した。副船長にもなったのはその結果だ。
そういう意味では、彼の今の性格を作ったのはザクレンであると言えた。
その時の表情と先ほど『久しぶりだな、子獅子』と笑った姿とが重なるのだ。
なるほど、確かに。
「あなたは、船長——ザクレン船長、なんですね」
「今はザクレンじゃねぇし、お前よりも年下だし格下だ。敬語を使う道理はねぇよ」
「しかし、船長……」
「お前だってもう船長だろうが」
ククッと喉の奥を鳴らして笑う。
声の高さこそ変わったが、その笑い声を聞くのは数十年ぶりだ。
懐かしい。感傷を押し込めるように、葡萄酒を呷った。
しかし一方で、ケヴァンは冷静に分析してもいた。
あの日。
船長の姿が火と共に海に沈んでいくのを見た時、船員たちは皆、無力さに噎び泣いた。
そしてそれぞれが分かれて海賊団を作ったのは、無力でないとかの船長に証明する為で、沈んだ宝をより多く取り戻す為だった。
かの船長の形見を、一つでも多く、その手に持っていたかったのだ。
だからこそこの少女の存在は、大きな波乱を起こしうる。
「船長」
「いや、だから船長じゃなくサラファでいいさ」
「じゃあサラファ。今日こうして俺の前に現れた、その目的は何だ? わざわざ敵船に乗り込んできた訳は?」
「……チッ、子獅子が一丁前になったもんだな。目的? 訳? そんなの簡単だ、戦線布告だよ」
「戦線、布告?」
「ああ」
サラファはまた顔を笑みに歪め、そして少女に似合わぬ覇気を持って、言い放つ。
「俺が沈めた宝は——全て、俺がいただく。再び海の覇者の名を欲しいままにするのは、やはりこの俺だ。それを言いに来た」
「それ、を……」
「ああ。だから、用件は済んだ。“楽しいお喋り”は終わりだ、子獅子」
その言葉にハッとするよりも早く、サラファはドアの側へと移動していた。
「子獅子よォ、俺は昔から言ってただろ? 海賊に最も必要なものは何だ?」
「……足早くあること」
「そうだ。誰よりも早く至り誰よりも早く去れ。今の俺がその信念を変えてると思うか?」
ケヴァンは無言で首を振った。
ノブにはすでに手がかかっている。
ケヴァンが迫るより早く、外に出ていけることだろう。
サラファは逃げる気なのだ、この敵船から。
しかし。
「逃げるまで俺が何もしないと思うのか」
今のあなたなら簡単に押さえこめる、とケヴァンが言えば、サラファはまた喉を鳴らして笑った。
「何もしねぇよ、お前は。いや、俺が『何もするな』ってお前に言ってんだ」
「どういう……?」
「俺が決めた規則は今も残ってんだろう? 勝者は敗者を従えられる。317勝28敗。それが俺とお前の対戦記録だ。俺が逃げるまでに、お前が勝ちを全て返せるなら別だがな」
クククッと笑うと、ドアをあっさりと開けた。
三百人もの人間が一斉にこっちを向く。
それを物ともせずに、サラファは声を上げた。
「おいラシュー、帰るぞ」
「は、はいぃいっ! サラファ船長!」
ラシューは怯えたまま——しかし、一瞬で包囲を抜けると、サラファと合流し、その体を背負った。
その動きは誰もが驚くほどに素早い。
だが、いつの間にか持ち場に戻った者たちによってか、サラファたちの船はすでに動き出していた。
乗り込んできた時よりも更に遠くなったそこに行くのは、不可能に見えた、が。
ラシューはサラファを背負ったまま船のヘリに登り、そして、跳んだ。
「なっ!?」
何人もの驚愕の声が重なる。
それは人間離れした、跳躍だった。
ケヴァンは、ハッとして大砲を撃とうとする部下を止めた。
逃がすしかない。ただ、それは今回だけだ。
言っておくが、とサラファの得意げな声が響く。
「ラシューは臆病だが、臆病ゆえにその目と脚は誰にも引けをとらねぇ。悪いな、こちとら少数精鋭なんだ」
それだけ言って船内に戻ろうとするサラファに、ケヴァンは一つ聞き忘れていたことを思い出して叫んだ。
「船長! 待ってくれ!」
「……何だ?」
サラファはわざわざ訂正するようなことはしなかった。
船はどんどん遠ざかっているのだ。
船員たちがざわついていたが、かまっている時もなかった。
「俺の下につかないか!? 今の体躯じゃ、色々と不便だろう? 俺の、“黄金の獅子”の下部海賊になれば——」
「ククッ、バカ言ってんじゃねぇよ!」
サラファは船の縁に飛び乗って、その小さな胸を張って言う。
その貫禄は、ザクレンそのままだった。
「こんなナリだが、これでも船長やってんだ! 易々他の奴の下に付くかよ。それも、お前らなら尚更だ」
「そうか。なら、次会う時は……」
「ああ、次会う時は完全に敵同士だな、クククッ。覚悟しておけよ、“獅子”」
「——ッ!」
初めて。初めて、獅子と呼んだ。
それは決別の証であり、そしてケヴァンを一人前として確かに認めた証だった。
うっかりしみじみとしてしまいそうなのを押し込めて、もう一つ、とケヴァンは続けて叫んだ。
「もう一つだけ、最後に聞いてもいいか!?」
「おう!」
「その服やぬいぐるみは、あなたの趣味なのか!?」
その瞬間。
それは、とだけ言ってサラファは凍りついた。
——うっかり慣れてきてしまっていたが、よく考えれば、幼い外見だからとてこんな服を着る必要はないのではないか?
全くもってその通りなのだが、そんなサラファに代わるように、ラシューを筆頭とした船員たちが声を揃えて叫んだ。
「「「「俺たちの趣味だ! 悪いか!」」」」
「悪いわ!」
パコーンッとサラファがラシューの頭を叩く音が響き渡った。
サラファ「もうヤダこいつらロリコンばっか」




