13
「じゃ、またね~。」
「さよーならー。」
みんなが手を振って帰って行く中で、少しだけ涙の痕を残して聡くんは母親と一緒に自転車に乗って帰って行った。
勿論、譲り受けた自分の自転車で。
自転車がもらえると分かった時の聡くんは、まず驚き、次に困ったような顔をして母親を見て、頷いて微笑んだ顔を見て初めて自分も満面の笑みを漏らした。涙付きで。
嬉しくて嬉しくてしょうがない。そんな聡くんの顔に僕も少しもらい泣きしてしまった。
リンさんは必死に我慢していたようだけど、後でこっそり目元を拭っていた姿を見てしまった事は内緒だ。
「良かった。ずっと気になってたんだ、聡くんの事。」
戸部さんが僕の隣に立って手を振りながらそう言った。
「こんな風に自転車を譲ったりすることってあるんですか?」
「ああ、頻繁ではないけど一年に何件かはね。まぁ親御さんの意向もあるから断られる事もあるしね。ただ意外に思うかも知れないけど自転車に乗れない子どもっていうのは結構多いものなんだよ。家庭の事情なんかも含まれるけれど練習する場所や機会が与えられないってのも大きい。僕はそういう場を提供しているだけでね。」
片付け初めているリンさん達を見ながら戸部さんは話し続ける。
「この教室ね。輪の父親が始めたんだ。もっと自転車の魅力を知って欲しい。自転車に乗れる子どもを増やしたいって言ってさ。」
「そうなんですか。リンさんはその意思を継いだんですね。」
「そうかもね。交通教室を始めたのも父親の事故があったからだろうしね。倫太郎くんは…自転車、今も乗ってるのかい?」
「え?ええ、新聞配達のバイトをしてるんですけど、自転車は欠かせない相棒です。」
「そうか、そうなんだ。偉いねぇ。」
戸部さんの言葉に何だか引っ掛かりを感じながらも僕は自分の境遇と聡くんの環境が似ている事を話した。
「僕も母子家庭なんです。自転車が欲しくてしょうがなかった所なんかも似てるなぁって思って、聡くんと。」
「うん、そうだったね。君も自転車に乗りたくて乗りたくてしょうがなかったんだろうね。」
戸部さんの言葉に僕はある可能性に思い至る。
「…………あの、僕、戸部さんに以前会ってますか?」
僕の言葉に戸部さんはにっこりと頷くと、タネ明かしをしてくれた。
「昔の話だよ。君も僕たちの教室にやってきたんだ。”倫太郎”って名前に輪の父親が反応してさ。『俺の息子も”りん”だ』って。君はすごく頑張って自転車に乗れるようになったんだよ。何度も何度も転んでたけどそれは楽しそうだったんだ。」
戸部さんの話は思いがけないもので、記憶の中には全く残っていなかったけれど、いつ自分が自転車に乗れるようになったのか、という疑問はこれで分かった。
「君は凄く嬉しかったみたいで後でお礼状が届いたってアイツが言ってたよ。そんな子いなかったから凄く嬉しいってさ。」
「僕…覚えてなくて。」
「そうか…。でも君の事、ずっと気にかけていたよ。だから、君のお母さんから自転車の注文が入った時には凄く嬉しがっていてさ。……嬉しすぎて…馬鹿だけどな。」
「え?」
「あ、ああ。こっちの話。今日は手伝いに来てくれてありがとう。輪とも仲良くしてやってくれ。輪の傍には誰かが必要なんだと思う。俺はそれが君なら素敵だと思うんだ。」
戸部さんの話はよく分からなかったけれど、何となく母とリンさんの間に壁のような物を感じた原因は戸部さんの話の中にあるような気がした。一度気になると一刻も早く知りたくなってしまったけれど、面と向かってリンさんに尋ねる事は出来ず、僕は一刻も早く事の真相を知りたくて家に帰りたくなった。
「倫太郎っ。自転車を乗せるの手伝ってくれ。」
リンさんが僕を呼ぶ声に慌てて意識を向けて、僕はリンさんの手伝いに走った。
++ ++ ++
帰りの車の中で僕とリンさんはいつものように気の置けない会話を交わし、今日の成果を讃え合った。
「いや、聡の喜びようったらなかったな。あんなに喜んでもらえたら自転車屋冥利に尽きる。」
「そうだね。本当に嬉しそうだったもの。聡くん、これからは少しでもお母さんに甘える事は出来るかなぁ。」
聡くんのように親の苦労が分かる子ほど自分の気持ちをため込みやすいと思う。素直に欲しい物を欲しいと言えない事は我慢強くもあるけれど少し切ないのだ。
あの輝くような笑顔を見てしまったら、もっと大人に甘えてもいいんだよ、と言ってやりたくなる。僕も同じように誰かに大丈夫だよ、と言われたかったから。少しでも聡のような子が幸せであって欲しいと思う。
自分が昔同じように自転車教室に参加した事があると分かった事は実感がないだけに未だ半信半疑になってしまうが、それでも自分とリンさんの不思議な縁というものを感じる事が出来た。この縁がどういったものなのか分からないけれど、ずっと繋がっていけたらいいのに、と願わずにはいられない。
「今日も泊まって行くか?晩飯はご馳走してやるぞ。」
リンさんがそう言ってくれたけれど、僕はこれ以上リンさんと一緒にいる事が怖くなった。グルグルと頭の中を巡っている質問が不意に口から出てしまいそうだったのだ。
「あ、あのっ。やっぱり今日は帰るよっ。二日続けてなんて申し訳ないし、学校の課題があったの忘れてたから。」
「俺の方は迷惑じゃないけどな…。まぁ課題が終わってないんじゃしょうがない。」
酷く残念そうにそう言うと、リンさんは僕をアパートまで送り届けてくれた。
「今日はありがとな。倫太郎がいてくれて助かったよ。お礼は近い内に、な。」
またな、と言われて去って行くリンさんの車を見送りながら、僕はもう二度とリンさんに会えないような気持ちになった。
これが最後になるような、言いようのない不安が胸をよぎり、切ない瞳でリンさんの車が見えなくなるまで佇んでいた。
「ただいま」
「あら、倫太郎、今日は早いのね。」
「うん、帰ってきたよ。」
「母さんこそどうしたの?遅くなるんじゃなかったの?」
「そうだった?」
とぼけたような答えを返す母に、僕は朝の母との会話を思い出していた。出掛ける事は確かだったのだろうけれどきっとリンさんが僕を連れ出しやすいように理由を付けてくれたのではないかと思った。
そしてそんな風にリンさんの言葉に気を使う母に違和感を感じた。
「あのさ…ちょっと聞きたい事があるんだ…。」
「うん、そうね。そう言われるかと思ったの。だから倫太郎を待ってたのよ。」
母はそう言って僕の為に緑茶を淹れて椅子に座るように促した。
「で、何を聞きたいの?」
母の言葉に思わず生唾を飲み込んで、僕は口を開いた。
「あの…。今日リンさんが連れて行ってくれたのは、すこやか交通公園って所で。子ども達に交通ルールと自転車の乗り方を教えている教室のお手伝いに行ったんだ。」
「そう、今日は隣町辺りだったのね。」
「母さん、知ってるの、交通教室の事。」
「ええ…。」
「あの教室がリンさんのお父さんが始めた事も?僕がその教室に行った事があることも?」
「ええ、知ってるし、憶えてるわ。」
母親の顔は落ち着いていて、僕の質問に至極冷静に答えてくれた。
「僕、その時の記憶が無くて。でもどうやって自転車に乗れるようになったのか、分かったよ。」
「そうね。倫太郎はあの教室で覚えたのよね、自転車の乗り方。」
それから母は何も言わずにいたけれど、僕はどうしても聞きたかった事を尋ねた。
「母さん、リンさんと何があったの?」
もう消せない言葉を投げかけたまま、僕は母からの返事を待った。
「……あなたが輪くんに助けてもらったと聞いてから、話さないといけないと思っていたわ。ずっとね。」
「ずっと?」
「そう、ずっと輪くんに謝らないといけないと思っていた。でも勇気が出なくて。倫太郎にこの事を伝える事が正しいのかも分からなくて迷ってた。あなた達2人は仲良くなっていたし、伝える事で今の関係性を壊す事が怖かったから。」
母の言葉に衝撃を受けながらも、一体何があったのか、どうしても知りたいと思った。話の内容はそんなに深刻なものなのか。僕とリンさんの関係さえも変えてしまうものなのか。
耳の奥で心臓の音がドクドクと鳴っているかのように鼓動が激しく動いていた。何も見逃さないように母の口元をジッと見つめたままでいた。
「輪くんのお父さんが事故で亡くなったのは知ってる?」
「…うん、リンさんに聞いた。配達途中で事故に遭ったって。…………まさかっ。」
「ええ。…あの時…配達していたのはあなたの自転車だったの。真っ青の自転車。輪くんのお父さんがぜひこれをって言って下さった自転車だったのよ。」
ドクドクドク…頭の奥の方で音が鳴る。と同時に母の言葉が重なって聞こえてくる。
「あの日、自転車が届きましたって連絡が来て、私、一刻も早く倫太郎に自転車を見せてあげたくてしょうがなくなってね。夕方近くなっちゃうけど届けますよって言われてお願いしますって言ったの。事故は…夕方、ライトを灯さないで走っていた自転車が飛び出してきてそれを避けて標識に正面からぶつかってしまったの。荷台に積んであった貴方の自転車は傷一つなかったのに運転席はグシャグシャだったって聞いて…どうして次の日に配達をお願いしなかったんだろうってずっと後悔していたのよ。」
リンさんから聞いていた話と一致する。これは間違いじゃないんだ。
「周りも輪くんのご家族も私は悪くないって言って下さったんだけど、私があの日お願いしなければっていう思いはずっと消えなくて。『父が最後に配達したかった自転車ですから』って輪くんが後日自転車を届けてくれたんだけど私は何だかその自転車を見る事が出来なくて…。楽しそうに自転車に乗る倫太郎の姿も見てあげられなくて、ごめんね。」
母は言いながら泣いていた。真っ青な自転車の想い出は確かに余り良いものではなかった。
母がやっと買ってくれた自転車だったけれど僕が自転車に乗っている姿を見てくれる事はなかったし、一緒に自転車で出掛ける事もなかった。
だから僕の最初の真っ青な自転車の想い出は1人で何度も何度も同じ場所を行ったり来たりしている光景しか残っていない。嬉しいけれど寂しい、そんなどこか切ない思い出だった。
「倫太郎も成長して、新聞配達のバイトをするからって違う自転車に買い替えたでしょう。その時、本音ではホッとしてしまったのよ。あの自転車を見る度に輪くんのお父さんの事を思い出していたから。倫太郎と輪くんが知り合う事なんかないと思っていたしね。」
「…じゃ、僕がリンさんにパンクを修理してもらったって言った時、凄く驚いた?」
「勿論。凄く驚いたわ。でもずっと避けていた事に向き合うべきだとも思った。」
「避けていた事?」
「輪くんに会って謝りたいって気持ちよ。決して私が謝って済む問題じゃないのは分かっていたし、輪くんからしてみたら思いを掘り起こされて嫌な気持ちになるかも知れないって思って、会う事さえしていなかった。でもそうじゃないのかもって思ったの。倫太郎が輪くんと知り合ったのも意味があるのかも知れないって。まぁコレは私にとって都合のいい解釈でしかないから本当の事は分からないんだけどね。」
母はそう言って笑うと、もう一度僕に向かって頭を下げた。
「この話をする事で倫太郎がどんなに苦しい思いを感じるのか分かっていたけれど、どうしても倫太郎には真実を伝えないといけないと思ったの。本当にごめんなさい。」
普段と違って、母親は真っ直ぐに僕を見ていた。あの時真っ青な自転車を見つめられなかった代わりのように。
僕はその瞳を受け止めながら、リンさんの車を見送ったあの気持ちが現実になってしまったと感じていた。
ーーーーーーあれがリンさんに会う最後なのだ、と。




