上月優の知らない話
「それじゃあね、美花。また明日、学校で」
「はい、環先輩。また明日、学校で」
そう言って私は手を振り、同じく手を振り返してくれる環先輩と、自身のお尻を頻りにさすっている優さんを笑顔で送り出した。
なんだかんだ色々あって、今の時刻は夜の九時をちょっと過ぎたところ。
流石にこんな遅い時間帯に環先輩を一人家に帰すわけにはいかないので、優さんには彼女を家まで無事に送り届けてあげてほしいとお願いしてある。
あんなことがあって外に出るのはまだ少し危ないかもしれないけれど、強い魔力の気配は私達があらかた潰したので、まぁ大丈夫だろう。
それに「面倒臭いからヤダ」と当然のように断ってきた優さんは私がお尻を蹴っ飛ばして黙らせた。こうして素直に言うことを聞いて家を出て行ってくれたのだから、最後まで環先輩をしっかりエスコートしてくれると思う。
……というか、してくれなきゃ困る。
信じてますよ、優さん?
「──ひっ!?」
そんな優さんの小さな悲鳴と共に、玄関の扉がバタンと閉じられた。
数ある仕事の内の一つをこなして、私がホッと息を吐いていると、
「にゃーん」
背後から猫の鳴き声が聞こえてくる。
「…………」
神聖で強大な気配を肌で感じながら、私はおそるおそる振り返った。緊張で心臓が潰されそうになっているのは、ひとえに私がこの人の怖さも偉大さも嫌というほど知り尽くしているからだろう。
「お疲れ様です」
ゆっくりと近づいて、空色の瞳と視線を交わす。なるべく失礼のないよう、姿勢を低くすることも忘れない。
「優さんも環先輩も行かれたので、もう普通に喋られても大丈夫ですよ、絵里先生」
「……そう」
シロ……もとい智天使ガブリエルの称号を持つ天使、上月絵里は、可愛らしい猫の姿のまま人間の言葉を発した。
優さんの母親で、ただの人間だった私を僅かな期間でそこそこ強い天使へと育て上げた大天使。
元あった人間の体は天界に置いて、今はワケあって猫の体に受肉している。
「……ごくり」
そんな大天使を前にして、私は重い緊張感と共に唾を飲み下した。
教育とは名ばかりの殺人未遂を頻繁に繰り返すのが、この上月絵里という名の天使である。普段は別に全然そんなことはないのだが、ほんの数時間前に大失態を犯したばかりだから、今は恐怖で逃げ出したくなる衝動に襲われていた。
もうさっきから嫌な汗が止まらない。これから私にどんな折檻が待っているのか、考えただけで泣きだしたくなってくる。
絵里先生はそんな私の恐怖心を知ってか知らずか「ふぅ」と一息吐いたかと思うと、
「普通の猫を演じるというのも意外と疲れるものですね。少々肩が凝りました」
突然二足歩行となって、余った前足で肩をポンポンと叩きだした。
「そ、そうですか」
それは、なかなかにシュールな光景だった。
見た目がこんなにも愛くるしい猫の姿をしているということもあってか、滲み出てくる人間臭さが奇妙なマリアージュを生んでいる。
まるでアニメや漫画とかでよく見かけるマスコットキャラクターかのよう。
この光景を撮影してネットに投稿すれば、まず間違いなく即日に大バズりして、世間から多大な注目を集めることになるだろう。
それ程までに、今の絵里先生は可愛かった。
普段の鉄面皮からは想像もつかない程、可愛い。
もう一生この姿のままでいてほしいな……。
戻さないで……。
「勝手に撮影するなという話を、あなたはもう忘れたのですか?」
「──ハッ!?」
絵里先生の冷ややかな声音に、ギリギリのところで踏みとどまる。気づけば私は恐怖心も忘れ、絵里先生に向かってスマホを構えていた。
危なかった……。本当に危なかった……。
あともう少し我に返るのが遅れていれば、私は完全に絵里先生の言いつけを破り、本能のままにシャッターを切っていたことだろう。
そしてそのシャッターを切った瞬間、数時間前の時と同じよう私はマウントを取られ、きっと死ぬ寸前までボコボコにされていたに違いない。
本日二度目だから、もしかしたら命すら奪われていた可能性すらある。
信じられないかもしれないが、上月絵里という天使は、そいうことを平気でする恐ろしい天使なのだ。
絶対に逆らっちゃいけない。
絵里先生はしゅんと項垂れる私に向かって「はぁ」と溜息を一つ吐いたかと思うと、
「……一枚だけですよ」
果てしなく呆れながらも、一枚だけという制限付きで私に撮影の許可を与えてくれた。
「ありがとうございます!!」
色々と厳しいところもある天使だけれど、こういうところもあるから、私、絵里先生のこと大好きなんだよなぁ。
天界では周囲から畏怖の念を抱かれ避けられていることも多いが、実際に教育を乗り越えて距離を縮めてみると、意外と優しいところもある可愛らしい御方なのだ。
ただ残念なのは、ちょっとだけ飴と鞭のバランスがおかしいだけのこと。
頑張ったら飴を与えてはくれるのだけれど、その前の鞭が厳し過ぎて、大体の天使が再起不能になっちゃう。
もう少しだけでも鞭を緩めてくれれば、きっともっと多くの天使が絵里先生を慕うようになると思うんだけどなぁ……。
みんなから『天界の大魔王』って呼ばれてるの、知らないのかなぁ?
「あの……申し訳ありませんでした、絵里先生」
しかし、だからこそ、これからその凶悪な鞭を受けなければいけない身としては、心中穏やかではいられない。
私は自身の死すら覚悟して、絵里先生に深く頭を下げた。
「勝手に付いて行っておきながら、足手まといになるような形になってしまって……。加えて、自分だけでなく優さんまでをも危険に晒してしまいました。この失態につきましては、いかなる罰をも受ける所存でございます」
絵里先生の可愛さに我を忘れそうになっていたとはいえ、このことをなぁなぁで流すつもりはない。
私の勝手な行動のせいで、絵里先生だけでなく優さんにも迷惑を掛けてしまった。
本来護らなければいけない人に、護られてしまった。
おまけにそんな状況になっても、私はただ後ろでひたすらに泣きじゃくるばかりで……そのせいで優さんに大怪我まで負わせてしまって……。
これじゃあ、いったい何のために天界から降りてきたのか分からない。
絵里先生の弟子として、情けないったらありゃしない。
酷い失態だ。唾棄すべき大罪だ。到底、謝って許されるようなことではないだろう。
「…………」
静かに瞑目して、その時を待つ。
正直言って震えは止まらないが、受けなければいけない当然の痛みを覚悟して、私は自身の身を絵里先生へと差し出した。
次の瞬間に聞こえてきた音は、絵里先生からの酷く戸惑ったような声だった。
「え? あぁ、そう……えーと……え? どうしましょう? あー……あっ、そうそう。それじゃあ罰としてこの猫缶を開けてくれないかしら? 早く食べたいのだけれど、猫の手じゃどうしても難しくてね。ちょうど困ってたのよ」
そう言って差し出される猫缶を見て、私は盛大にずっこけた。
ゴン! と、額を床に強く打ち付ける。
ロクに受け身も取れなかったから、とても大きな音がした。超痛い。
「何がしたいのあなた? コント? ずっこけてなんかいないで早く開けてほしいのだけれど」
顔を上げれば絵里先生から吹雪ような視線が向けられている。
私は頭の痛みと共に混乱の極致へと至った。
えっ、嘘でしょ? これ、私の反応の方がおかしいんですか?
「いやいやいや、開けます、開けますよ? 開けますけど……えーと、これが罰ですか? 私、結構な覚悟を決めて頭を下げてたんですけど……」
最低限ボッコボコにされる程度のことは覚悟していた。だって私にとっては、それが当たり前のことだったから。
だというのに、一発も暴力を振るってこない? あの絵里先生が?
猫になったせいで、見た目だけでなく性格も可愛くなってしまったのだろうか。
今までは大きな失態を犯せば必ずといって良いほどボコボコにされていたというのに……なんなら別に失態を犯さなくてもボコボコにされていたというのに……。
拍子抜けもいいところだ。拍子抜け過ぎて、感情の行き場が遭難レベルで迷子になっている。
いったい私はどこへ向かえば良いのだろうか。教えて……グー〇ルマップ先生。
「あなたが一体どんな罰を期待していたのかは知りませんが」
絵里先生は混乱する私に向かって、平然とした口調で語りかけた。
「所詮は私に勝手に付いてきて勝手にピンチになっただけの話でしょ? それのどこに怒る要素があるというのですか?」
「うぐっ!」
クリティカルヒット。絵里先生の何気ない一言が、私の心を貫く。
『勝手に付いてきて勝手にピンチになった』
それはそうなんだけれど、改めて自分の行動を言葉にされると、自分の行動がバカ過ぎて生きるのが辛くなってくる。
ヤバい……超恥ずかしい。
心臓が羞恥心で爆発して、喀血しそうになった。
「別に付いて来るなと指示を出した訳でもありませんし、優の傷もただのかすり傷……罰をあなたに与える理由がありません」
「そ、そんなことはっ」
絶対にないと思う。指示されてないとはいえ行動したのは私自身の責任だし、優さんの傷はどこからどう見てもかすり傷なんかじゃなかった。
皮膚が焼け爛れ、肉が弾け飛び、骨が露出していた。唾をつけて治るような傷じゃあるまいし、そのレベルの傷をかすり傷に分類するのは流石に無理があるように思う。
絵里先生の力をもってすればすぐに完治させられるとはいえ、優さんが意外と平気そうな顔をしていたとはいえ、普通に考えてダメだろう。
…………たぶん。知らないけれど。
とにもかくにも、私が愚かな行動を取ったことに違いはない。失態を犯したのならば罰はしっかり受けるべきだし、償うべきだ。
しかし、
「失態というのならむしろ私の方にありますね」
絵里先生が逆に己の非を認めるような発言をしたことによって、その機会は失われた。
「遠吠えからある程度魔獣のタイプは予測できていたのですから、あなたにはキチンと待機していろと指示するべきでした。これは敵を舐めていたことと、しなければいけない指示を出さなかった私のミスです。猫の体でも楽に殲滅できるとはいえ、少し時間をかけ過ぎましたね。肉体の調整なんてさっさと済ませて、早急に助けに戻るべきでした。私が間に合ってさえいれば、あなたの弱点が悪魔たちに露呈することも」
「もうほんっとうにすみませんでした! どう考えてもポンコツなのは私です! 聞けば聞くほど足手まといでごめんなさい! もういっそのこといつものように暴力を振るわれても構わないんで、愚かで使えないこのアホな頭を絵里先生の手でカチ割ってください! お願いします!!」
絵里先生としては謝っているつもりなのかもしれないが、その言葉の一つ一つが私の心に突き刺さり、抉り取る。
聞けば聞くほど悪いのは私の方なのに、本気で悪いと思われているからこそ、耐えられない程の申し訳なさと羞恥心が込み上げてきて辛い。
なんでまだ生きてるの私? 死ねよもう……って思う。
私は自身の愚かさに耐えきれず、土下座しながら床に頭をガンガンと打ち付けた。
「別にあなたのことをポンコツだと思ったことはないのだけれど……そうね、少しだけ考えを改める時がきたのかもしれませんね。……とりあえず、床を破壊しないでくれる?」
「あ、ごめんなさい」
割とマジのトーンで怒られたので、私は土下座をやめて顔を上げた。
どうやら絵里先生的には、優さんが怪我を負うことよりも、床を傷つけられることの方がイラっとくるらしい。
絵里先生は謝る私にもう一度だけ溜息を吐いて、
「……まぁいいわ。反省すること自体は別に悪いことではないですからね。そこで好きなだけ反省してなさい」
そう言いながら、置いてある猫缶を爪でトントンと小突く。
「……はい」
私はなんだか居たたまれない気持ちになりながらも、危うく忘れてしまいそうになっていた猫缶の存在を思い出し、絵里先生の要望通り、猫の手では開けにくいその蓋を代わりに開けてあげた。
「どうぞ」
「ありがとう」
マグロの詰まった中身を皿に移して差し出すと、さっきまでの剣呑な雰囲気はどこへやら、絵里先生はそれはそれはもう嬉しそうに尻尾を振って飛びついた。
絵里先生が親になって、優さんから初めて貰ったというプレゼント。
その記念すべき初めてプレゼントが猫缶で本当に良かったのかと激しく疑問に思ったが、むしゃむしゃと美味しそうに食べている姿を見て、その疑問は心の内に秘めることにする。
満足しているようなら、余計なことは言わない方がいいだろう。価値観なんて人それぞれだし、殺されたくなんかないし。
絵里先生は皿に残っている小さな欠片すらも最後まで綺麗に舐めとって、
「それじゃあ私はしばらく自室で仕事をしているから、優が帰ってきたらまた念話で連絡してちょうだい」
くしくしと頭を掻きながら、空いたお皿を片付けようとしている私にそんなことを言ってきた。
「はい、わかりまし…………え?」
了承しようとして、ハタと止まる。
「いや、仕事って……絵里先生、今休暇中じゃありませんでしたっけ?」
「そうよ」
当たり前のように即答しているが、確か神様から『お前バカみたいに働き過ぎ。他の天使達が気を使って休みにくくなってるから、いい加減休暇をとれ』と厳命を受けてはいなかっただろうか。
そうでなくても、人間界に降りる前に「十年分の仕事は済ませておきました」と、絵里先生自身がおっしゃっていたはず。
「さっきの魔獣退治は仕方ないとしても、なんでまだ仕事があるんですか? ていうか、神様から少しは休めって」
「私は管理職ですからね、探せばいくらでも仕事は見つかるものなの。それに、そもそも休暇中に仕事をしちゃいけない決まりなんてないでしょ?」
「…………」
「仕事は休めば休むだけ溜まるものですからね、毎日コツコツやらないと、それこそ休暇明けで大変な目に合ってしまうのよ」
「…………」
「安心しなさい、ちゃんと自身の健康のことにも気をつかって、最近は毎日五分は寝るように心がけているから。今まで軽視していたけれど、睡眠はとても良いものですね。おかげで体調もバッチリです」
「────」
私は絶句した。
何この人、怖いよ……頭オカシイよ。イカれちゃってるよ……。
ぴょんぴょんと階段を駆け上がっていく絵里先生の後ろ姿を見ながら、私はミカエル様の言葉をふと思い出した。
『絵里先生は凄い天使だと思うけど、決して仕事に向き合う姿勢だけは見習っちゃいけないよ。壊れるから』
教育を受けていた頃はミカエル様の言っていることがいまいちよく理解できなかったけど……なるほど、こうして絵里先生と一緒に仕事をしてみて、彼女の異常性をようやく正しく理解することができた気がする。
神様からの命令すら無視して仕事をしようとする仕事中毒者。
肉体の回復手段を持つ天使は理論上休まなくても無限に働くことが出来るとはいえ、精神力は人間のそれと大差ないので、休まずに仕事を続ければ普通に病む。
365日24時間労働をして平然としているのは、天使の私達から見ても狂ってるとしか言いようがない。
「……うん。今日は疲れたし、優さんが帰ってきたら私はすぐに寝よ」
私はミカエル様の忠告をありがたく受けることにして、しっかりと体を休めることにした。
汚れている食器を手早く洗い終えて、先にお風呂を頂くことにする。
「はぁ~」
湯船にちゃぽんと浸かりながら、私は先程送り出した二人の顔を思い浮かべていた。
「環先輩、今頃ちゃんと上手くやってるのかなぁ?」
優さんと環先輩が二人仲良く談笑しながら帰っている姿を想像して、
「いいなぁ…………ハッ!」
ぼそりと呟いた自分の言葉にハッとなって、私は芽生えかけていた感情を押し殺すよう顔を半分湯船に沈めた。
ぶくぶくと水中で泡を発生させながら、自分の想いを必死に否定する。
(いやいやダメダメ何言ってるの私! 優さんはダメ! 優さんだけは絶対にダメ!)
沸騰しそうなほどに熱い血が全身を駆け巡る。
体内で急速に消費されていく酸素はあっという間に底をついて、息苦しくなった私は「ぷはぁ!」と、勢いよく湯船から顔を出した。
乱れる息を深呼吸で整えて、気持ちを落ち着かせる。
それからバチン! と、上気して赤くなった頬を両手で強く張って、私は無理矢理に意識を切り替えた。
「この気持ちはただの勘違い。私は優さんのことなんてこれっぽっちも好きなんかじゃない」
そう自分に言い聞かせるようにして、何度も同じ言葉を繰り返す。
繰り返さなければ、いけなかった。
「だって──」
拳をギュッと握りしめ、己の決意を表明するよう独り、浴室で誓いの言葉を口にする。
「優さんと環先輩の恋のキューピッドになることが、天使の私に与えられた大切なお仕事なのだから!」
第一章 天童美花降臨編 完
ここまで読んでいただきありがとうございました。遅筆ではありますが、頑張って第二章書いていきたいと思います!
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