風になる
「それじゃあね、シロ。私達が帰ってくるまで大人しく待ってるんだよ」
「にゃー」
結局天童への説得は失敗し、拾ってきた猫みたいなバケモノは家で飼うことになった。
名前はシロ。毛並みが白いからシロ。単純だろ?
しかしその単純さが逆に良いのか、シロは気に入った様子でにゃーんと鳴き返し、尻尾を振りながら大人しく天童に撫でられている。
「…………」
俺の時とは大違いだ。
カラスを一瞬で仕留めるくらい強いバケモノなんだから『ヘルカイザーキャット』なんてのはどうだと試しに提案してみたら、めちゃくちゃ強烈な猫パンチを放ってきたからな。
おかげで今は殴られたところが痛くて痛くて仕方がない。心なしか天童に殴られた時以上のダメージを受けてしまったような気がする。
いったい『ヘルカイザーキャット』の何が気に入らなかったというのだろうか。いい名前だと思うんだけどなぁ……。地獄の皇帝だぞ? 誰かシロが怒った理由を教えてくれ。
「って、何モタモタしてるんですか優さん!」
とまぁそんな風に、天童とシロの仲睦まじい光景を横目に見ながら俺がボケーッと朝のニュース番組を眺めていると、
「テレビなんか見てる場合じゃないでしょ!」
「あっ」
天童が怒った顔をしながらずんずんとこちらに歩いてきて、リモコンを奪い取り、叱責と共にテレビの電源を切ってしまった。
「まだ見てたのに……」
天童の返り血まみれの原因が何かニュースで流れてこないかなと思い見ていたのだが、残念ながらそれらしい情報は何も得られなかった。
天童の後始末が余程良かったのか、警察は未だ何の手掛かりもつかめていないらしい。
「まだ見てたのに……じゃないですよ! 早くしないと本当に遅刻してしまいますよ!」
ガミガミガミガミと、耳元で怒鳴り声をあげる天童。それがあまりにもうるさかったので、俺は堪らず両手で耳を塞いだ。
「うるせーな、いいじゃねーか別に」
「良くありません!」
俺の面倒くさそうにしている態度が気に食わないのか、天童は更に大きな声を張り上げる。
ぶっちゃけ俺としては遅刻しても全然構わないのだが、天使としての性なのだろうか、天童は何が何でも遅刻したくないようだ。
俺の時には平然と遅刻してきたのにな……。
「……はぁ、わかったよ」
しかし、動かなければいつまでもギャーギャーとうるさく喚き散らされるのは間違いないので、仕方なく俺は玄関へと向かうことに。
その足取りは重い。チラリとリビングの時計を確認すると、更に足が重くなった。
針は八時三十分を差している。
「どの道学校に遅刻するのは確定してるんだ。ここで急いだって何も変わんねーだろ」
授業開始の時刻は八時四十分。ここから学校までは走っても二十分はかかる距離にあるので、どう頑張ったって間に合わない計算だ。
「そんなことありません! まだ急げば間に合います!」
だというのに、天童は未だ間に合うと信じて疑っていないご様子。
まぁ確かに、実際のところ天童だけならこの時間でもまだ間に合うことも可能なのだろう。先程公園に現れた時のように、天使化して空を飛んでいけばいいだけの話だからな。
しかし、それは天童だけが出来る話である。天使化出来ない俺にその手は使えない。
もちろん天使化した天童が俺を担いで空を飛んでいくという方法もあるにはあるだろう。
だが、そんなことをすれば町中がパニックになることは火を見るよりも明らかだ。
天使化できる天童は普通の人間から認識されなくなる。逆に言えば、天使化できない俺は認識されている状態で空を飛ぶことになる。
つまりはとんでもない怪奇現象が発生してしまうという訳で、誰かに見られた瞬間、間違いなく俺は周囲からバケモノ扱いされることだろう。下手すれば何らかの特殊部隊が出てきて排除されてしまう可能性すらある。
そんなことになるくらいなら、普通に学校に遅刻した方が遙かにマシだ。
「もうさ、俺のことなんかほっといてお前一人で先に学校に行ってろよ。お前だけなら天使化して空飛んでいけば余裕だろ」
そんな当たり前の提案を俺がすると、なぜか天童は否定するようにふるふると首を横に振った。
「それじゃあ意味がないんです」
「は?」
「私だけが間に合っても、優さんが学校に遅刻しては意味がないんです」
それのいったいなんの意味がないというのだろうか。まったく意味が分からない。
俺が怪訝な目を向けると、天童はその疑問に答えるよう自身の胸をバンと叩いた。
「初めにも言いましたが、私には優さんを立派な天使に育てるという大切な使命があります。どんな些細な悪行ポイントも優さんに貯めさせる訳にはいかないのです」
「…………」
要するに、これも母さんのはた迷惑な命令によるものらしい。
遅刻で発生する悪行ポイントなんてたかがしれているというのに、俺を天使にするため、それすらも固く禁じているようだ。
ちなみに悪行ポイントとは、善行ポイントとは逆で、悪いことをしたら自動的に付与されるポイントのことである。
死後の行く先は、だいたいの場合がこの善行ポイントから悪行ポイントを引いた数値で決定される。善行ポイントが多ければ天国に、悪行ポイントが多ければ地獄に送られるっていう仕組みだ。
「……ちっ」
天童の話を聞いて、気づけば俺は舌打ちをしていた。
やる気があるのは素直に良いことだとは思う。が、言ってることとやってることが違い過ぎて、段々と腹が立ってきた。
俺は玄関に向かいながら、イライラする気持ちを隠そうともせずにチビの天童を上から睨みつける。
「あのなぁ……そうは言うが、だいたいこんな時間になったのは誰のせいだと思ってるんだよ? 元はと言えば、お前が待ち合わせの時間に遅れてきたからだろうが」
天童が遅れてきたことによってロスした時間は少なくない。それがなければ間違いなく学校には間に合っていたことだろう。
「ていうか、ぶっちゃけそれだけならまだ間に合ってたんだよ」
こんなにも絶望的な時間になってしまったのには別の理由がある。
「ただでさえお前のせいで時間ギリギリだったっつーのに、やれシャワーを浴びてこいだとか、やれ朝ご飯をしっかり食べろだとか、小うるさい母ちゃんみたいなことを言いだしやがって……。そのせいでこんな時間になったっていう自覚がお前にはないのか?」
ギリギリの時間であるにも関わらず、天童はしつこいまでにそれらの行為を強要してきた。
シャワーを浴びなければ、朝ご飯を食べなければ、こんな絶望的な時間には絶対にならなかったはずだ。
天童の言うことを素直に聞いた結果がコレな訳で、反省すべきは俺よりもむしろ天童の方にあると思う。
「小うるさく言うのは当然です!」
しかし、天童は俺の文句を聞いても平然としていた。それどころか自分の方が正義なのだと言わんばかりにふんすと鼻を鳴らしている。
「だって優さん、めちゃくちゃ臭かったんですもん」
「うぐっ!?」
クリティカルヒット。俺は心に10000のダメージを負った。
「学校に行く前に嫌な臭いを消しておくことは、周囲の人達に対する最低限のエチケットです。自分からとんでもない悪臭が出ているということを、優さんはもっと自覚するべきでは?」
「ぐはぁ!?」
一言だけでは済まず、更に畳みかけるよう天童は容赦のない言葉を俺にぶつけてきた。
傷つくことを連続で言われ、俺の心は満身創痍になってしまった。ガクッと膝から崩れ落ちる。
おいマジかよ嘘だろ、俺そんなに臭かったのかよ。体臭なんて自分では案外気づかないものだと知ってはいたが、天童に鼻を曲げられるレベルで臭かったとは思ってもみなかった。
だけど思い返してみれば、確かにヒントはあったのかもしれない。
どうしてココアちゃんが俺に向かって吠えてきたのか、どうして熊谷が俺と出会うなり嫌そうな表情を浮かべたのか、俺が悪臭を放っていたのだとすればその全てに合点がいくというものだ。
気分よく散歩しているところに突然とんでもない悪臭を嗅がされれば、誰だって嫌悪感を剥き出しにして当然だろう。特に犬なんかは人間の何十倍もの嗅覚を持っているから、その不快さは想像を絶するものだったに違いない。
ごめんね、体臭きつくて。
これからは出かけるときに必ず消臭スプレーを振りかけることにしようと、俺は心に強く決めた。
「……ふ、風呂は良いとしても、飯は別に食わなくても良かっただろ! ほんの数時間前にビーフシチューを食ったばっかじゃねぇか!」
心に深いダメージを負ってしまったが、それでもギリギリのところで耐え、持ち直す。
悪臭を消すためだということは理解したが、もう一つの原因、時間を押してまで朝飯を食う必要は流石になかったと思う。
「な、何を言ってるんですか優さん!?」
そんな俺の指摘に、なぜか天童は突然うろたえだした。
めいっぱいに目を見開かせて、まるで信じられないものを見るかのように酷く驚いている。
「数時間も前に食べたビーフシチューがまだお腹の中に残ってるわけないじゃないですか! そんなもの、朝起きた時点でとっくに消化されてますよ!」
今度はこちらが驚く番だった。何を言ってるんだコイツは。
「……いや、まるで俺がヤバいこと言ってるみたいな雰囲気出してるけど、ヤバいこと言ってんのどう考えてもお前の方だからな? 普通の人間は鍋いっぱいのビーフシチューを食ったら消化に時間がかかって胃もたれを起こすもんなんだよ。ていうか、その状態で無理矢理に朝飯入れたせいで俺今すげぇ吐きそうなんだけど……」
この言葉に嘘はない。
寝不足のせいもあるが、胃もたれを起こしているところに朝食を詰め込んだせいで、今は本当に吐きそうな程に気持ち悪かった。
出来ればここから一歩も動きたくないというのが、体から発せられる俺の素直な気持ちである。
「ば、馬鹿な! たったあれだけの量で、満腹になるはずが──!」
「いやだからなんでそんなお前基準で話進めてんだよ。俺の胃袋とお前のブラックホールを一緒にすんな」
そんなアホな会話を繰り広げながらも、なんだかんだで俺達は玄関へと辿り着いた。
二人並んでしゃがみ込み、のんびりと靴紐を結ぶ。
「ハッ、いけない! ゆっくりしてる場合ではありませんでした!」
そこで天童はようやく自分たちが遅刻しそうなことを思い出したのか、ハッとなって俺の手を強く掴んできた。
少しの時間も惜しいのか、グイグイッと無理矢理に引っ張ってくる。
相変わらず手加減を知らないようで、手首が折れそうになるんじゃないかってくらい超痛い。
「このままでは本当に間に合わなくなってしまいます!」
「ちょ、おい!」
天童は俺の手を掴んだまま、勢いよく外へと飛び出した。
それから鍵を掛ける時間すら与えてくれず、ウサ〇ン・ボルトもビックリなスピードで駆けだしていく。
「絶対に私の手を放さないでくださいね。ちょっと本気を出すので」
「ふ、ふざけんな! 今すぐこの手を放──」
次の瞬間、ボギン! と俺の肩が脱臼した。
「──!?」
どうやら手加減を知らないと思っていたのは俺の勘違いだったようで、今までかなりの力をセーブしてくれていたらしい。
「あばばばばばばばばばば!!!」
肩の痛みとは別に、とんでもない風圧が俺を襲った。
さながらジェットコースターに乗っている時のように、唇や瞼がぶるんぶるん震えている。
「っちょ!? まっ!? す、すとっぷぅ!! どめでぇぇ!!」
いったいどれ程のスピードが出ているのか分からないが、完全に人間の出せる速度を超越していることだけは間違いない。
自転車どころか車さえも追い越して、俺達は疾風の如く通学路を駆け抜けた。
そして──。
「あっ、遅かったね上月君。遅刻しちゃうんじゃないかって心配……って、顔色悪いけど大丈夫? 早く保健室に行った方が──」
「おぼろげしゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「いぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
遅刻せずに済んだ代償として、俺は心配して駆け寄ってきてくれた熊谷に、胃の中のものを全てぶちまけたのだった。




