エピローグ中編:フロランタンと罪悪感
朝食前の厨房。無機質だった場所に活気が溢れて出す。
慌ただしく人々が行き交い、調理の音や指示の声が響き、空腹を刺激する匂いが漂ってくる。
何だか早起きしてしまったので、思わず厨房に来てしまったのだが、私が使う場所付近に、人は居ない。
という訳で、ついつい厨房に来てしまうのだ。
……うーん、何か作りたいが……。甘い匂いをさせて、魔王様とコンセルさんが来ても、困るしな……。
「そうだ。アレを作っておかねば」
ボウルに片栗粉を入れ、熱湯を注いで、よく掻き混ぜる。
混ぜている間に少し温度に下がってきたら、大根おろしを加えて更に混ぜたら、熱いうちに保温瓶に入れ、四~五時間寝かしておく。
コレが甘味王である魔王様の依存性を弱められれば、と思い、なるべく使うようにしているのだが、変化は見られない。
──やはり、本来の作り方じゃないとなのだろうか? もしくは……
私は考えを巡らせつつ保温瓶を棚に仕舞うと、待ち兼ねた朝食に胸を高鳴らせながら、食堂へ向かった。
朝食後、魔王様の執務室に寄り、召喚された人々を戻す魔法を会得したことを告げる。
これまでの状況は、恐らくコンセルさんから聞いていたであろう魔王様は、仕事用のデスクに肘を付き、組んだ手の甲に顎を乗せながら私の話を聞いていた。
「……という訳で、そんな感じで異世界人を戻そうかと思ってます」
魔王様はゆっくりと頷き、私に優しく微笑みかけてくれる。
「最も懸念していた事象が解決するのは喜ばしいが……シホにばかり負担を掛けてしまい、申し訳なく思っている」
私は情けないな、と自嘲する魔王様。
世界に平和を取り戻した英雄である魔王様の、何が情けないのだろうか。
私が首を傾げて考え込んでいると、魔王様の横に立っていたコンセルさんが魔王様へ、ジト目で視線を向けた。
「何でも自分で背負い込もうとする所は、魔王様の悪い癖かと。他の者に出来ることは命じるよう、進言させていただきます」
「あ! 同感! 私も、魔王様の疲れすぎた状態が続いて、見ててハラハラしっぱなしだったんですよ!」
コンセルさんの嘆願に同意し、私も握り拳で主張する。
「そ、そうか……? 周りに負担を掛けてばかりいるが……」
「いい加減、過小評価は止めません? こっちが気落ちするんで!」
スアンピとも話していたが、魔王様とコンセルさんの能力はチート過ぎて、とても付いていかれない。
もし他に人がいなければ、この世界の平均が魔王様とコンセルさんレベルだとインプットされただろう。
それは、自分の無能さを嫌というほど見せ付けられる状態な訳で。私はドン底に沈殿し、引き篭もって現実逃避するしかない。
過剰な卑下は、逆に周囲を落ち込ませる。特に、魔王様レベルなら尚更だ。
私が如何に魔王様が凄いかを切々と語ると、コンセルさんも同意を示し、何度も大きく頷いている。
魔王様は困惑気味に私とコンセルさんへ視線を動かしたかと思うと、嬉しそうに頬を紅潮させ、屈託のない笑みを浮かべた。
「……私は、会遇に恵まれているな。特に、二人に出会えた事が幸甚の極みだ」
突然のお褒めの言葉に、コンセルさんと私は驚嘆して体を硬直させる。
魔王様にそこまで喜ばれると、嬉しさのあまり全身が赤くなり、表情が緩みすぎてしまいそうだ。
コンセルさんも暫く頬を朱に染めたまま静止していたが、照れ臭さを誤魔化すように、魔王様を茶化し始めた。
「それは、シホちゃんの事じゃないですか? 駄目ですよ、魔王様。口説く時は、二人きりでやってください」
「な?! こ、コンセルッッ!! わ、私は真剣に……っっ!! ……う、うむ……コンセルの場合、その悪癖が治れば、だな」
二人の仲の良い遣り取りに目を向けつつ、私は熱くなった頬や耳を冷やそうと手を当てる。本当に、魔王様は突然喜ばせるから、タチが悪い。
漸く己を取り戻した私は、話していない事があるのを思い出し、仲良く喧嘩する二人へ憚りながら声を掛けた。
「あの……。それで、続きがあるんですが、いいですか?」
「ん? 無論、構わんが。……っ! 魔法に何か留意点がありそうかっ?!」
「あ、いえ。そうではないので、お楽しみの所、恐縮ですが……」
「し、シホちゃん?! また変な誤解してるだろ!!」
「……そういえばシホにも、その悪癖があったな……」
最後の憂虞が解消出来る状態になり、魔王様の体調を気遣っていたコンセルさんが、安堵の高揚感で魔王様に接している。
それを私に誤解されたと危惧し、コンセルさんは慌てて釈明し、魔王様は遺憾そうに額に手を当て、眉根を寄せて瞼を閉じる。
揶揄する私に二人が反応し、それぞれの表現で苦言を呈す。私は顔を綻ばせたまま謝罪した。
「体調不良な人は天気が良かったら外で待たせるとマズいですよね? その辺もお願いしていいですか?」
「うむ。囲った遮光式結界内に温度管理をし、その中で寝かせ、状態を診させておく予定だ」
「さすが魔王様! なら安心して、菓子を作ってから行ってもいいですか? 戻ってからだと、キツいかもなんで……」
「色々と任せてすまないが、そうだな。その方が良いだろう。……本当に、それが聞きたかったのか?」
「そうです。それじゃ、玲子にも知らせておきますね」
……どうせ、分かることだし、わざわざ今、いうことはない、か。
私はお辞儀をし、素早く執務室から出ていった。
* * *
第七大陸も、玲子の前に為す術もなく、落ち着きを取り戻していた。というより、アイツが実質の権限を握っているのではないだろうか。
シェーヴというドM変態魔王が弱いせいで地人族が幅を利かせ、贅の限りを尽くしている富裕層を、玲子が制す。
そのため、身分、種族に限らずあらゆるものが同額で均等に入手可能となり、今では一番暮らしやすい大陸にしてしまった。
そんな平和な状況に対し、玲子は『つまらん』と魔王様へ不満を漏らし、今は召喚された人達が収容されている孤島の片隅で、見張り兼兵士達の指導に明け暮れていた。
そこで集められた人々を帰す準備が始められる。
孤島にある平地を囲い、そこに集めて一気に魔法をかけるのだ。
逃げ出そうとする輩もいるであろう。それを阻止出来る人員は、一人でも多い方がいい。
そのため、玲子と麻衣ちゃんは、他の人を送ってから帰すことに内定したが、大丈夫だろうか? ──いや、玲子が大丈夫なのは、分かりきっている。問題は、麻衣ちゃんだ。
私は二人に作戦を伝えようと、連絡用水晶球の対象を玲子に合わせた。
「……ふむ、それで何やら、そこっ! 出入りが多いのか。そんなへっぴり腰で剣が振れるかっっ!! 合点がいったぞ。」
「お、押忍……!」
「声が小さい! それで見張り、か。 腹から出せ!!」
「……お、押忍ッッッ!!」
「構わんぞ。そこ!! まあ、シホが動けぬ状態であれば、剣を落としたら体を使え! 憂うのも頷けよう。両手を上げても、麻衣子か? 敵は切り付けてくるぞ!! 大丈夫ではないか?」
「……ちょい、指導を止めて、話さないか?」
玲子との会話の内容が、私になのか、指導する兵士達に対してなのか混乱し、私は声を低くして玲子に提案する。
瞳を輝かせて指導する玲子に対し、兵士達は既に満身創痍だ。もう休憩に入ってもいいのではないだろうか。
そんな集団を余所に、波打ち際では麻衣ちゃんが屈み込み、砂を指で掘るように、文字を書いている。
砂に書いた文字は、打ち寄せる波に攫われ、掻き消されてしまう。改めて文字を書くが、再び波が均していく。
書いては消され、書いては消されを繰り返す、麻衣ちゃんの目は虚ろだった。
「……史帆ちゃん……どうしてるかな……。うっうっう……帰りたいよう……」
「帰れんものは致し方あるまい」
「前向き過ぎるわ!!!」
──……て、玲子……お前、惚れた男はどうするんだ?
そんな孤島の様子を、玲子と通信しながら眺めていると、浜辺にいた麻衣ちゃんが、覚束無い足取りで玲子の周りを彷徨い始める。
現状の把握も出来ないほど、精神的に追い詰められている麻衣ちゃんは、私と玲子が話していることすら、気付いていなかったのだろう。
麻衣ちゃんの泣き言に、玲子が達観した言葉を放つ。
麻衣ちゃんも、習慣で玲子にツッコミを入れているが、いつもの抉るようなキレがない。
「ゴ、ゴメンね、麻衣ちゃん! 帰れる目処が立ったから! 本当に、遅くなってゴメンね!」
「こっちこそゴメンなさい! ワガママ、言いました! すみません! もう言いませんッッ!!」
私が謝罪の言葉を投げ掛けると、麻衣ちゃんが何故か衝撃を受け、土下座で謝罪をし始めた。
「……ま、麻衣子……?!」
「……ま……ま、麻衣ちゃ……ん!?」
流石の玲子も驚きを隠せず、立ち竦んで麻衣ちゃんを見つめる。
私も冷や汗を流し、水晶球に映る麻衣ちゃんから、視線を動かせず、唯唯、見ているしか出来ずにいる。
……急がないと、精神的に一番危ないのは、麻衣ちゃんかもしれない。
「ま、麻衣ちゃん! 落ち着いて聞いて! 元の世界に帰れるから!」
「え? ……え?! ええっっ?! し、史帆ちゃん?! 今の、ホント!?」
私は、召喚される直前──……本来の状況まで時間を遡る魔法が出来たと伝え、麻衣ちゃんを励まそうと、なるべく朗らかに話す。
『帰れる』という言葉で我に返った麻衣ちゃんは、手放しで喜んでくれた。が、今度は玲子が申し訳なさそうな表情で私を見つめている。
「……お前は、帰りたくないのであったな。だが、そうすると私がまた旅に出、ここへ戻ってきてしまうかもしれんのだが……」
「……私は、帰らない。けど、向こうの世界には、戻るよ。だから玲子が私を探すことはない」
というか、私を探す旅に出ても、もう召喚士がいないため、ここに辿り着けるはずはないのだが……玲子なら有り得そうな気がするのは気のせいだと思いたい。
それにまだ、ここを外国だと思い込んでいる玲子が凄すぎる。おそろしい子!
玲子と麻衣ちゃんは、私の言葉に疑問符を浮かべ、水晶球の向こうにいる私を注視している。
「それは、当日分かる……と思う。いつでも帰れるように、身支度しておいて」
水晶球から玲子の声が響いているが、私は水晶球に送っていた魔力を止めて強制終了させ、厨房へと向かった。
「さて、今日の菓子は。とその前に」
保温瓶に寝かしておいた物を布で濾し、鍋に火を掛け、掻き混ぜながら水分を飛ばしていく。
水分が飛んで粘りが出てきたら、片栗粉デンプンで作った水飴の完成だ。
本来は餅米と大麦で作るのだが、化学式的には水飴といえるだろう。大根のアミラーゼ(ジアスターゼ)がデンプンを麦芽糖に変え、甘くなるのだそうだ。
ショ糖である砂糖を水で煮詰めた物とは異なり、常温では固まらず結晶化もしないので、シャーベットの舌触りを滑らかにする時にも使える、優秀な甘味料だ。
素材の味を活かした甘み、艶を出す等、他にも砂糖と併用すると便利な点が多く重宝している。
特に、中毒性のあるシガル──砂糖への対抗策になるので、なるべく使うようにしているのだが、砂糖より甘みが少ないため、なかなか難しい。
魔王様は糖尿病にならないとは思うが……血糖値が上がり辛いのは、こっちの世界でも健康に良い、と思いたい。そういう内臓系の処置は、魔力が支えているようなことを聞い気がするので、その辺は大分違うような気もする。
その辺りを詳しく聞いてみたいが……こっちに来た時、体調を診てくれたらしい、白髪の翁は何処に……?
……そういえば、異世界へ来て、まだ半年くらいしか経っていないんだった……。
毎日、菓子を考えるのに忙しく、それが習慣化し過ぎていたのだろう。
実は、私は生まれ変わっていて、ここで生まれて成長したのでは、などと錯覚してしまう。
「……と。やる事はまだまだあったんだった」
思わず感慨に耽ってしまったが、作業の続きは、もう一つある。それに、今日の菓子もまだだ。
私は慌てて鍋を取り出し、そこへバターを入れ、茶色っぽくなるまで加熱する。
篩った小麦粉と砂糖をボウルに入れてホイッパーで混ぜる。その中央を凹ませ、溶いた全卵と卵黄を入れてダマが出来ないように混ぜ、作りたての焦がしバターを加える。
昨晩の牛乳を濾してから二回に分けて入れ、ラム酒に似た甘い香りの酒を少しと、ついでに魔王様の好きな、砂糖と水飴で甘くしたチョコソース──チョクラ液を入れて、混ぜ合わせる。
その生地を網で再び濾してから密閉し、冷蔵庫に入れた。
「明日の菓子の時間には、間に合うかな」
この生地は、十二時間以上休ませないとグルテンが落ち着かず、失敗しやすい。
そして蜜蝋で覆うため、食べる時は結構、固い。チョコソースを入れて媚を売ったが、魔王様に好まれるかが心配だ。
それを考慮して、別の菓子も用意すべきかもしれない。
と、そこで不意に、とある菓子を思い出す。
「ああ! 固いといえば、アレだ!」
今日の菓子が決定し、室温に戻しておいたバターをふんわりするまで混ぜ、粉砂糖を加えて粉っぽさがなくなるまでよく混ぜる。
溶いた卵を少しずつ加えながら混ぜ、卵とバターが分離しないよう混ぜていく。
小麦粉を2回に分けて篩いながら入れ、切るように混ぜながら生地を寝かせる。
その間にスライスしたユナモ──アーモンドを鉄板に広げて敷き、オーブンで色付くまで焼く。
粉を作業台に振り、寝かせた生地を粉を塗した麺棒で押し伸ばし、五ミリくらいの厚さに伸ばす。
生地を鉄板に載せ、フォークで穴を開け、空焼きしておく。
早速作った水飴と蜂蜜、砂糖にバターと生クリームを鍋に入れて中火に掛け、時々混ぜながら沸騰するまで熱し、火を止める。
スライスしたアーモンドを加えて混ぜ、熱い状態で、空焼きした生地へ均等になるように載せ、再びオーブンで焼き上げる。
冷めると固くなるので、少し熱い内に切らなければならない。
クッキー生地が割れないよう、波形の包丁で食べやすいサイズにカットすれば、フロランタンの出来上がりだ。
冷ますために少し放置する。が、堪らず熱々を一切れ掴み、齧り付く。
「熱々が食べられるのは、手作りならでは、だな~!」
下層は固めのクッキー生地で、上層とのバランスを取るために甘さを控えめにしてあるが、サクサクとした食感とバターの風味が溢れ出す。
上層は、蜂蜜と水飴が艶々とした光を帯び、砂糖との異なる甘みが生クリームの深い味わいと合わさり、バターの効いたキャラメルにコクを煽らせる。
それぞれの層がお互いを引き立て、渾然一体となって絡み合い、口の中に溢れていく。それに追従してアーモンドの香ばしさが鼻腔を擽り、絶妙なハーモニーを腔内で奏でながら、駆け回っている。
「はあ~! やっぱコレ、好きだわ~!」
フロランタンは、私の好きな焼菓子の五位以内にランクインしている菓子だ。幼い頃から無性に食べたくなる時がある。
クッキー生地を硬めに焼き、歯が疼く時に囓るのもいい。……え? 疼かない? そんな訳ないっしょ~……ぇ?
何はともあれ。もうすぐ、十五時半になりそうだ。
「……もう大丈夫、かな?」
私は、くっつかないように大きめの器へフロランタンを並べ、食堂に向かった。
「うん! ギュールとユナモの風味が堪らないな!」
「甘みが強いのに、固めのクッキーと合わさると程良くて、食べる手が止まりませんね!」
「うむ。カリッとした歯応えと香ばしさに甘みの妙が癖になる味だ」
コンセルさんがフロランタンを口に入れ、興奮のあまりに紅潮して感想を述べる。
先生も家庭教師の時間が復活し、ご満悦でフロランタンを摘まみ、噛み締めている。
魔王様は憂いを晴らす術があると知ったためか、食べ進めるスピードが以前より増しており、そろそろ伸ばす手が見えない領域に突入しそうだ。
相変わらず皆の褒め言葉は、菓子の時間という興に乗ってか、饒舌だ。
私もフロランタンを口にし、噛み締めながら味を確かめる。
……うん、しっかりとした歯応えと味だ。
私がゆっくりと食べ進めていると、魔王様が不意に、複雑そうな表情で私を見つめてきた。
「……シホ……。どうかしたか?」
「……え?! 何か変ですか?!」
あの魔王様が食べる手を止め、私の様子を心配そうに窺い、視線を固定する。
私は慌てて顔に手を当て、菓子の滓や、勉強中に眠くなって涎でも垂らした跡が付いていないか、懸命に探る。
「……いや、杞憂であれば良い。気にするな」
「きっと、この後の勉強時間に、憂いているのではないですか? シホさん、容赦しませんよ」
「先生、お手柔らかにしてあげてくださいよ。シホちゃんは、色々あって疲れているだろうけど、菓子を作ってくれていますので」
私の挙動で、特に変わりが無いことを確認したのか、魔王様は安堵の笑みを漏らし、再び菓子を食べ始める。
魔王様の言葉に呼応して、先生が態と厳しい表情の笑みで声を掛けてくる。それをコンセルさんが、私の体調を気遣い、先生の行動を和らげようと嘆願した。
……ああ、やっぱり好きだな、この雰囲気。
私は、若干の罪悪感を抱き、紅茶を一気に飲み干した。
* * *
孤島での準備が早くも終了し、作戦決行は、翌日の午前十時から、となった。
急いだのは、己を保てなくなった召喚された人に、食事も出来ず、余命幾ばくもない者がいると判明したからだ。
生きている内ならば、時間を遡って元気に戻れるが、絶命してしまうと、何故か死体のままで、移動すらしない。
──……生命の有無は、やはり神の領域か。
弱っている人が少なくないため、魔王様から可能な限り早く決行したいと言われ、私もそれに同意した、という訳だ。
……全員無事、元の生活に戻れるといいな。
その為には、もっと魔力を増やし、個々の質も向上させておくべきかもしれない。
という訳で、私はリアレスカさんの家に来、座禅を組んで魔力を練っている。
リアレスカさんは、私が作ったラングドシャを頬張りながら、私の方へ歩み寄ってきた。
「……体の調子はどう? そろそろ、構造が分かってきたんじゃない?」
「うーん……。分かっても、やっぱり他の人に出来る気がしないよ、ゴメン」
「……そう。ならアタシで試してみれば、案外出来るかもしれないわよ」
「だーかーらー! 命を粗末にするよーなことを言わない!」
「……けど」
私の視線に臆したか、リアレスカさんは僅かに身を縮めて言葉を詰まらせ、拗ねた表情でテーブルに戻っていく。
言いたいことは分かる。私だけ精霊化──魔力の塊になった件は、本当に申し訳ないとは思っている。
だが併し。リアレスカさんは、菓子だけを堪能して後を疎かにしたいが為に、精霊化を望んでいるのだ。
そんな欲望で、成功するか分からない魔法をさせないでほしい。大失敗したら、私の精神がどうなるのかも考えておくれ、頼むから。
私の心の叫びが聞こえたのか、リアレスカさんがこちらを一瞥し、テーブルに置かれた菓子の山を、端から次々と口へ運ぶ。
「……大分、人間離れしてたのね」
「……リアレスカさんにはあんま、いわれたくない、かな」
魔王様ほどではないが、高速といえるほど、物凄い早さで菓子を減らしていくリアレスカさんの言葉に、乾いた笑いを返す。
「……ッツ!」
「……シホッ?!」
「あ、平気、平気! ちょい切っただけだから、舐めとけば治るよ。リアレスカさんは気を付けて」
立ち上がろうとすると、丁度、床の木が薄く削げて立ち上がった先端に、膝が当たる。ちょっと深かったのか、皮が捲れた箇所から血が溢れてくる。
リアレスカさんは菓子を食べる手を止め、私の足元に駆け寄った。
「……そこの床、木がささくれてたんだったわ。ゴメンなさい、今度直させるわね、あの側近にでも……」
「え、と……。まあ、うん。忙しい時は勘弁してあげて。魔王様も大変になるし」
何だかお互い、コンセルさんの扱いが雑な気もするが……。……コンセルさん、泣いてしまわないだろうか?
私は苦笑しながら切り傷を舐める。流れる血は、鉄分と塩分が混ざったような、懐かしい味がした。
「……シホさん? 聞いていますか?」
今は、午後の授業中。ついボーッとしてしまった私に、先生が口を尖らせ、丸めた紙で私の頭を叩く。
「……すいません。まだ、文字を書くのに一杯一杯で……」
「ですが、全く知らない状態から、大分覚えましたし、よく頑張っていると思いますよ。それを魔法や魔術に……」
本来は魔術研究者である先生は、私にどうしても、魔力の方へ意識を向けさせたいようで。
先生は語尾を弱めながら、魔力の研鑽にも勤しむように、と呟く。
先生には、作戦について語られていない。
研究者肌な先生にあまり私の魔法を探らせない、魔王様の配慮なのだろう。
参加者は、ダブル精霊王とリアレスカさん、そして魔王様とコンセルさんに、私だ。
魔王様の意向で、極めて限られた者で決行するとのことだ。
一応、玲子も逃げ出そうとする人の捕獲などをしてもらう予定だが、麻衣ちゃんの様子次第、だろうか。
麻衣ちゃんは、帰れる目途が立った事で随分、己を取り戻しているようだ。
あの時の麻衣ちゃんは見ていて心が痛み、その場に飛んでいって先に帰してあげたくなったのは、友として当然の感情だろう。
併し、そうすると、魔王様の考えに支障が出そうで、出来なかった。
自分の感情を優先した罪悪感が拭えず、最適解を求めてしまう。
あれこれと私が考えを巡らせていると、先生は、私の体を気遣ってか、憂い顔で話し掛けてきた。
「色々あって、まだ疲れが取れきっていないんでしょうね。今日は、この辺にしましょうか」
「いえ、もうすっかり元気ですが?」
先生が参考書を閉じようとするが、私はそれを制し、文字の練習をお願いする。
一番疲れているのは、私じゃない事は確かだろう。
私は思わず自分の体内にある魔力へ意識を向け、細胞の役割を果たそうと懸命に働く粒達に、感謝の念を送る。
……私も魔王様のお心遣いに感謝しなければ!
私はノートに、覚えた文字を綴り始める。
チョクラ、四百プラト、ギュール、四百四十プラト、シガル、四百プラト、サ……
……アレ? 小麦粉って何だっけ? サリ……?
ブラウニーの材料を思わず書き始めるが、やはりまだ覚えていない単語が多く、手が止まる。
「シホさんは、本当に『菓子作り』が好きですね……。そういえば、明日は魔王様とお出掛けで、授業はお休み、ですよね?」
「は、はあ、まあ。……すいません。色々と忙しなかったので、のんびり出来る所へ連れていってくれる、とかで……」
私のノートを覗き込んで苦笑する先生に、私は嘘を吐く罪悪感からか、思わず引き攣った笑みを返してしまう。
何を思ったのか、先生の表情は話題によって一変し。
口元に手を当て、朱に染めた頬に薄ら笑いを浮かべ、体を捩らせ、部屋を踊るように歩いている。かと思うと、突如こちらに近付き、私の耳元で囁いた。
「……魔王様との、デート……! ……帰ったら、じーーーっくり、教えてくださいね……!」
「……はい?」
「もう! 進展がなくって、ハラハラしてたんですよ! もう、もう!」
先生はニヤつきが止められないといった表情で、私の背中を叩いてくる。
……何の進展を期待しているか分からないが、先生が望むようなことは──ああ、魔法は言えないので、やっぱり、報告出来る事はないですよ?
先生の難解な思考には、困ったものだ。
私は叩かれながら、遙か遠くへ視線を向け、無我の境地へ至らんとした。




