第16話:玉座の間とエンガディナー・ヌス・トルテ
寒さが和らぎ始め、太陽の光が庭園の緑を照らしている。
そんな長閑な午前の日差しの中、先生の呪文が響き渡る。
「これが火の初級魔術『灯』です」
先生の掌には、小さな火の玉が浮かび上がっていた。
これが青かったら、肝試しでお化け役が上手く出来そうな大きさだ。
私は頷きながら先生の手の中を凝視する。
「ではシホさんもやってみてください」
「はい。……我らが力よ、その小さき力で火を灯せ」
掌を上に翳し呪文を唱えると、マッチを擦った時に生じるような小さな火が浮かび上がる。
無事魔術の成功を確認した先生は、安堵の息を漏らした。
「シホさんは、いつも最初の魔術だけは規模が小さいですよね。それがちょっと不思議です」
「そうですか?」
私は呪文を唱える気恥ずかしさにまだ慣れず、動揺を隠しながら返答する。
何度か唱えていればそういうもの、という気がして多少は慣れてくるのだが、新しい魔術となると、どうにも恥ずかしくて堪らなくなってしまうのだ。
もしかすると、そういう感情も魔術の効果に影響が出るのだろうか。
だとすれば、魔王様みたいに詠唱無しで魔術が出てくれればもう少しやりやすいのだが、やはり無詠唱はかなりの難易度らしく、未だ会得出来ていない。
先生は己の掌から灯を消し去り、こちらに向き直した。
「これで風、水、雷、火の初期魔術を覚えましたね。次に、地と木を覚えましょうか」
「ちょ、ちょっと待った、先生……!」
私は態とらしく息を切らし、膝に手を当てて屈み込む。
何日か掛け、どうにか覚えてきたのだが、そんなに覚えても使い熟せる気がしない。
というか、既に幾つかの呪文とか忘れている気がする。
文体は同じようなものでも、微妙な違いがあると、却って覚えにくい気がする。
「……少し、反復練習の期間を設けませんか? もう一度先生のお手本を見せてください」
「そうですね……ではそうしますか。それではもう一度『灯』を行ってみましょう」
私の要望に、先生は苦笑しながら応じ、呪文を唱えて火魔術を発動させる。
呪文に呼応するように、先生の掌から魔力の粒が湧き上がる。
その粒が急激に膨らみ、激しく動き回ると先生の掌に火の玉が浮かび上がった。
どうやら、粒が急に膨らみ激しく動き回ると火が、粒がゆっくりと膨らみ冷気を帯び始めると水が、粒がぶつかるように擦れ合うと雷が起こるようだ。
……それはともかく。そろそろファムルにバニラの葉を乾燥してもらわないとな。
私は先生の繰り出した火を眺めながら、別の事を考え始めていた。
* * *
「んじゃ、ファムル、これヨロシク」
「了ー解!」
午前の授業を終え、庭園で詰んできたバニラの香りがする葉をファムルに乾燥してもらう。
これを油に入れて湯煎に掛ければバニラオイル、無味無臭のお酒に漬けておけばバニラエッセンス代わりになる。オイルは加熱料理用、エッセンスは非加熱料理用で使うと、香りがいい。
「あ、そーだ。これもお願い」
「分かったー」
私は潰したクリーム状のチョコが入ったボウルをファムルの前に差し出す。
私が掻き混ぜている間、乾燥魔術を掛けてもらうと、トロトロのチョコがパウダー状に変化していく。
一旦塊にしたチョコを擂り下ろしてもいいが、ファムルに頼む方が持ちも良く、細かいパウダーになって使い勝手がいい。
……ファムルの能力、便利すぎるぜ!
私がファムルの手を眺めていると、ファムルは優しく微笑み、私に話し掛けてきた。
「これ、生活魔術が使えるなら覚えられるかもよ? 服が濡れた時も生活魔術で水分が飛ばせるでしょ? 火の蒸発魔術って、あれの発展形みたい」
「へえ、そうなんだ! 魔術って使える人の得意系統で、覚えられる魔術が変わるんだっけね?」
「そうそう! シホちゃんって大きい照明も出せるし、火の属性の才能、あるんじゃないかな!」
「そーかな!」
ファムルの説明に私は気分が高揚し、ファムルを食い入るように見つめる。
これを覚えられたら、その場で何かを乾燥させたくなった時に重宝しそうだ。
「シホちゃんがこの魔術覚えちゃうと、なかなか会う機会、作れなくなっちゃって……寂しいけどね」
「おお、ファムル!!」
私は寂しげに眉尻を下げて笑みを浮かべるファムルの肩を抱き締め、自分の方へ引き寄せる。
こんな健気で可愛いコと会う機会を減らすなど、私には出来ない!!
私達が友情を確かめ合っていると、重なり合った大きな籠を抱えたスアンピが、眉を顰めながら声を掛けてきた。
「……女同士で何やってんだよ。シホ、遊んでんなら、これ、物置に仕舞っとけ」
「……何故私に?」
「こんなん持てるのお前くらいだろ、ファムル様に頼めるか!」
「……いや、だから何故自分で持っていかない?」
私の質問に、スアンピは外方を向いて黙り込む。
……なるほど、物置の場所をまだ覚えていないのか。
料理人が主に使うのは厨房、食堂に貯蔵庫と倉庫や食品加工部屋で、ファムル達メイドさんがよく使う部屋を作業部屋や物置というらしい。
……なかなか使わない場所は覚えられないものだし、仕方ないか。
私がスアンピから籠を受け取り、歩き出そうとすると、ファムルが心配そうに手を忙しなく動かしながら近付いてくる。
「……シ、シホちゃん、私もついていこうか?」
「なに、大丈夫」
私は籠の隙間から笑みを零し、物置に向かった。
* * *
……しまった! アレはフラグだったのかッッ!!
前が見えないほど大きな籠を抱えていたせいもあり、私は目的地を見失い、慣れたはずの城の中で当てもなく彷徨っている。
廊下から扉を開くとまた廊下、とか、この城の設計はどうなっているんだ?!
私は見たこともない設計士に心の中で文句を垂れつつ、期待を込めて目の前の扉を開ける。
やや大きめの両扉を開くと、広い空間が広がり、一直線に引かれた赤い絨毯の奥には妙に豪華な椅子が、階段状になるよう数枚重なっている円形の台座の上に置かれていた。
椅子の背にある壁には、真っ赤な布が数枚、高い天井から床まで芸術的に張り巡らされている。
……これはまさか、玉座の間か?!
私は床に籠を置き、ゆっくりと玉座に近付いてみる。
黒曜石を思わせる黒い床と同じ素材で出来ている台座。
金糸で縁取りされ、細かい模様が細部にまで縫い込まれている毛足の長い絨毯。
細かい細工が施され、上品な金色を放つ椅子の背もたれと座面には綿か何かを詰め込んだ、高級そうな赤い布が張られている。
「……魔王様、実は赤が好きなのか?」
「……嫌いではないが、これは私の趣味で作った訳ではないな」
あまりの豪華振りに思わず独り言を呟く。するとその声に背後から返答が返ってくる。
私は声のする方を振り向くと、魔王様が何故か、気不味そうな表情で頬を掻いていた。
「……玉座に気配がしたので様子を見に来た……。……脅かせてすまなかった」
「いえ、こちらこそ。ちょっと物置に行くはずが迷子になってしまって」
……こんな広い城で気配が分かるとか、魔王様、パねえな!
私は置いた籠へ視線を移すと、魔王様は私を怪訝な顔で見つめ、顎に手を当て考え込む。
「……物置から、此処まで? ……いや、厨房からだと方角的には……?」
「途中で迷子に気付き、大分色んな扉を開けてしまいましたが」
「……なるほど、それで此処に辿り着いたのか」
どうやら玉座の間は別の階段で一階から入るらしい。同じ階の他の部屋からだと、入り組んでいてなかなか辿り着けない場所にあるそうだ。
私が結構な迷子状態であったことを理解した魔王様は、合点がいった様子で頷いている。
私は豪華な玉座を眺め、そこに座る魔王様を想像しながら、プレジアに聞いた玉座の間の使い方を訳知り顔で呟いた。
「ここで議会とかやるんですか? プレジアやマリンジさんがいたら、魔王様も玉座に座り辛いですね」
「いや、此処で議会を開いたことはないな。あくまで此処は第八大陸魔王こと、精霊補佐召喚の場所だ」
「……第八……精霊補佐……召喚の間?」
想像もしていなかった事実に、私は目を見開いて魔王様の顔を凝視する。
魔王様は玉座を眺めたまま、無感情に言葉を続けた。
「ああ、第八大陸の王である精霊王補佐官が死ぬと、この玉座が新たな補佐を召喚する」
「……ぎょ、玉座が? 召喚?!」
「この場合は異世界召喚ではなく、この世界限定だがな。喚ばれた者はその肉体の時間が止まり、寿命で死ぬことは出来なくなる。……この大陸の結界と同じく、初代精霊王が作ったそうだ」
魔王様の言葉に、私は固唾を呑んで魔王様を見つめる。
第八大陸魔王という名称は、初代が補佐のために作ったこの大陸の統治も兼ねているからだそうだ。
地人族が喚ばれれば、第八大陸地人王とか、名称が変わるらしい。
ここ最近は魔族が続いているらしく、『魔王様』といういい方が定番になっているようだ。
先代第八大陸魔王が何らかの理由で亡くなり、魔王様は知る人のない場所へいきなり召喚され、それからずっと、体は成長することなく強制的に精霊王の補佐役を任されたのだ。
……一体、どんな気持ちで、ここでの日々を過ごしていたんだろうか……?
私の様子に魔王様は苦笑し、私を見つめ返した。
「……昔は、強制された立場が嫌で何度も逃げ出したが、先代の側近がしつこくてな。何処に逃げようとも見つけ出して城に戻された。……今は恐らくコンセルが見つけ出すのだろうな」
「……逃げ切れたら、別の第八大陸魔王が召喚されるんですか?」
「どうだろうな。恐らく、逃げ切れるような者は召喚の条件で最初から外されていると思うのだが……」
「……条件?」
「ああ。召喚は、召喚者が求める条件下で最も条件を満たす者を喚び出す、といわれている。恐らくシホも、その条件を他の者より満たしている可能性が高く、喚ばれたのだろうな。私も玉座に選ばれた以上、荷が勝ち過ぎているなどと逃げ口上せぬよう、何とか日々を乗り越えている。そのせいか、魔王を就任してからシガル欲求が強くて叶わんが」
私を喚び出した召喚師も何らかの条件を付け、それに私が相応しいと術が判断して喚び出されたのだろうか。
私は召喚師と気が合わなく、その後、魔王様に保護されて安穏と暮らせているが、魔王様は比べ物にならないぐらい重い物を背負わされ、想像を絶する苦労をしてきたようだ。
人間が滅びないよう、背後から操作する手伝いなど人間には難しすぎる仕事だ。自分の頭では足らな過ぎる、と魔王様は己の頭を指差し、自嘲気味に笑う。
そのために考えを常に巡らせており、そのせいで脳の糖分が足らず甘い物を欲する状態が、魔王様の脳では常に起こっているのだ。
……あんなに糖分中毒になるほど脳が糖分を欲するって、どんだけ酷使してるのだろうか、この人は。
そんな魔王様の、少しでも力になるために、私は今日も菓子を作るのだ。少しでも脳が休まる時間を作るために……。
「分かりました! 今日はとっておきに甘い菓子を作りますぜ!」
「有り難う、頼む」
握り拳を掲げ、勝ち気な笑みを浮かべる私に魔王様は柔らかな笑みを返し、厨房まで送ってくれた。
私は血を滾らせたまま調理台に向かい、ナッツをオーブンでローストする。
バターに砂糖とバニラオイルを擂り混ぜ、溶いた卵黄を少しずつ加える。
篩った粉を二回に分けて入れ、冷蔵庫で生地を寝かせておく。
鍋に水と蜂蜜、砂糖を入れて煮詰め、生クリームを加えて手早く混ぜ、ナッツを加える。
型に敷いた生地の上に、ヌガー状になったナッツを入れ、生地で蓋をして焼き上げれば、エンガディナー・ヌス・トルテの出来上がりだ。
スイス、エンガディン地方の菓子で、ヌスはそこの名産である胡桃を表し、トルテは円形。同じ内容で長方形の菓子だと、エンガディナー・ヌス・シュニッテンというそうだ。
使ったナッツは正確には胡桃ではないが、より一層濃厚な旨味を醸している。
今回は魔王様のために、特別製の砂糖増し増しチョコバージョンも作ってみた。
生地にもヌガーにもチョコを入れ、更にココアパウダーを掛けている。
「という訳で! 通常バージョンと特別バージョンです!」
食堂に入った私は、既に待っていた魔王様とコンセルさん、先生へ二つのタルトを見せ、切り分ける。
魔王様にはチョコバージョンを大きめに、我々には味見用として小さめに切って皿に盛る。
「うむ! サクッと香ばしいチョクラ入りの生地に、濃厚なノイドマをねっとりとしたシガルとチョクラが絡み合い、凝縮された旨味が口で広がっていくな!」
「軽いクッキー風の生地に、中身がトロッと溶けていって美味いな!」
ノイドマとは、このナッツのことだろうか。
魔王様はチョコバージョンに、コンセルさんは通常バージョンに齧り付き、満面の笑みを浮かべる。
そんな中、チョコバージョンを口に入れた先生が、驚愕して私に視線を動かした。
「とても、美味しいです……。……けど……ちょっと、シガルを入れ過ぎじゃないでしょうか? ……かなり味が濃厚で……」
「……ぬ? そうか? 私はこの位でも十分かと……」
「ああ、チョクラ入りは魔王様のためにシガルを増量して作ったので」
「まあ! 魔王様のために?!」
魔王様は砂糖増量バージョンをお気に召したらしく、先生の呟きに不満を漏らす。
先生は私の説明を聞き、紅潮させた頬に両手を添え、恍惚とした顔で空を見上げる。
そんな先生の様子を見たコンセルさんは、手にしていた通常バージョンを皿に戻し、チョコ味を口に運んだ。
「……確かに……美味しいけど……やっぱ、シガルが多すぎて……折角の、クッキーやノイドマの味が勿体ない気もするな~」
「……てか、甘すぎて流石にキツいね……」
幾ら何でも、砂糖を入れすぎただろうか。
唯でさえ、濃厚なヌガーが売りのエンガディナー・ヌス・トルテが、砂糖増量で濃厚さが増しすぎ、かなり諄い気がする。
おまけにチョコまで入っている。
……うん、ちょっと調子に乗り過ぎたかな。
「こっちのチョクラ無しは文句なく美味いな! 流石、シホちゃん!」
「ならチョクラ入りを食うな。これはシホが私のために作った逸品だ」
「そうですね。折角、シホさんが! 魔王様のために! 作ったんですし♪ ……あ、でもコンセル様、そっちを一人占め、なさらないでください」
自分のお気に入りを貶され、魔王様はチョコバージョンの入った皿を両手に抱え、眉を吊り上げながらコンセルさんを睨み付ける。
魔王様の態度にコンセルさんも眉を曇らせ、無言で通常バージョンの入った皿を手元に引き寄せた。
先生は……何故か一人で違うことを考えているのだろうか。眉尻を下げた真っ赤な顔には、困ったような照れ笑いを浮かべ、紅茶の中をスプーンでひたすら掻き混ぜている。
「……明日から、通常営業に戻りますので、ご了承くださーい」
自分が納得いかない菓子とか、流石に作り続ける気にはなれない。のだが、しかし!
魔王様が悲しそうに私を見つめている。が、気にしてはいけない。シガルの取り過ぎは体に悪いのだ。
いくら死なないとはいえ、体に不調を来すことは多々あるそうだ。
……健康にも良くて、魔王様の脳を満足させる菓子を作れるようになるまでは、無茶な菓子は作らないようにしないと……!
私は以後、調子に乗らないよう自分を戒めながらも、魔王様がスッキリと気分良く生活出来る菓子を模索しようと心に決め、無糖の紅茶を飲み干した。




