その花の意味は
「ん……あ」
――勝八が目を開けると、そこは見慣れた緩の部屋であった。
窓の外ではもう日が沈んでいる。
骨兜とニュー腰巻を受け取った勝八は、それを身に着ける間もなく地球へと戻ってきていた。
つまり勝八の感覚としては、先程異世界で起床したばかり。
今日は眠れそうにないなと、勝八がぼんやりした頭で考えていると。
「勝ちゃん! だ、大丈夫!?」
脳を更に溶かすようなへちゃむくれ声が響き、勝八は身を起こした。
見れば、涙目の緩がこちらの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫って、何が?」
バターになった脳では彼女の言っている事が分からない。
勝八が聞き返すと、緩は俯き、指相撲をひとしきりしてから質問を変えた。
「そ、その私のおし……体に潰されなかった?」
「あぁ、あの大きな尻な」
「お、大きくないもん!」
ようやく見当がついた勝八がぽんと手を打つと、緩は赤い顔で乙女らしい抗議をする。
なるほど。勝八にとっては既に昨日の出来事だが、緩にはまだ二時間も経っていないのだ。
この辺りのギャップも面倒である。
やはり異世界での時間とこちらでの時間の流れはあまり変えないほうが良さそうだ。
「むぅぅ」
そう考えている勝八の前で、小動物がなおも唸り声を上げている。
「大丈夫だ。あんぐらいの下着ならギリ高校生っぽく見える」
とりあえず勝八は、そう言って彼女をフォローした。
「ふぁぇ!?」
すると緩は、おかしな悲鳴を上げてスカートを抑える。
何だか彼女のそんな声を久しぶりに聞いた気がして、勝八はニマニマとにやけた。
「ちょ、勝ちゃん。私だって女の子なんだからね」
そんな勝八を、赤い顔のまま叱る緩。
「女の子以外にこんな事言ったら変態だろうが」
「女の子に言っても変態だよぉ」
納得行かず抗弁するも、更なる正論で返され勝八は口をすぼめた。
すると、前歯にずきりとした痛みが走る。
「どうしたの?」
「何か、歯に違和感が」
まさか新しい歯が生えてくる前兆か。
勝八が阿呆なことを考えながら、唇で前歯の具合を確かめていると。
「ご、ごめん。本からお尻をどけるとき、慌ててコケちゃって」
未だに慌てているような様子で、緩が謝罪をした。
先程濁した尻発言もしてしまっているほどの狼狽ぶりだ。
「やっぱりそうか。大丈夫だったか?」
「うん……」
おそらく慌てて尻をどけた反動で、デコか何かを勝八の歯にぶつけたのだろう。
緩の尻が異世界から引き上げられた時に、勝八が想像した通りの動きである。
自身の考察が当たっていた事に得意になり、勝八は緩が上唇を抑えている事に気づかなかった。
「あの……それで」
しばらくして、落ち着いたらしい緩が勝八に尋ねてくる。
その表情は、狼を前にした赤頭巾のような不安に満ちたものだった。
「黒肢病、治った?」
彼女一番の心配事と言えばこれだ。
ため息を吐いて、勝八は答えた。
「治りもしないのにケツだのパンツだの話してたら、やっぱり俺は変態だろうが」
黒肢病で人が死んだりしていたら、今頃こんなバカ話などしていられない。
緩は自分を何だと思っているのか。
思わず乱暴な単語チョイスにもなる。
「やっぱり変態なのは間違ってないと思う……」
すると、緩は同じく息を吐いて呟く。
だが、その中には安堵の成分も入っていた。
「そっか……良かった」
彼女の口が緩み、笑みがこぼれる。
それを見て、潰されかけた甲斐があったと勝八は心の底から思った。
「んで、異世界であったことなんだけど」
が、安心するのはまだ早い。
ともかく勝八は、異世界での出来事を包み隠さず全て話すことにした。
元ユニクールでの戦い。集落での顛末。そして、火傷の薬塗り。
最後の出来事はなるべく話したくない勝八。
だが、大事なお伺いを立てる為には話さない訳にいかない。
半裸の男女が深夜にヌルヌル。
このシチュエーションを聞いて初めこそ「むっ」と唸った緩。
だが、ゾマの事情を聞くにつれ、彼女の表情は何か深く考えるような物になっていった。
「という訳で、ゾマがついてきたいって言ってるんだけど……」
ゾマの両親の死因が自分にある。
緩がそう思い込んではいないかと危惧しながら、勝八は彼女の顔色を窺った。
「うん、良いよ」
すると、緩はあっさりとそう返事をする。
「無理してないか? ゾマの両親のことで罪悪感があるなら……」
その淡白さが、逆に勝八を不安にさせる。
彼が問うと、緩はゆっくり首を横に振った。
「罪悪感は確かにあるけど。それ以上に……その子の気持ち、分かるんだもん」
「分かる?」
それは、神を信じたいと言ったゾマの気持ちだろうか。
それとも、彼女が勝八を見た時に感じる不可思議な気持ちだろうか。
まさか、勝八と一緒にいたイと迫った時の心境?
勝八がムムムッと緩を見ると、彼女はついと顔を逸らす。
「本当に、無理してないか?」
「して、ないよ」
勝八が顔を覗き込むようにして上半身を倒すと、緩は顔だけでは足らず体も反らしてそれから逃げた。
まるでいけません私には旦那がという人妻……のおままごとをする童女のようなポーズだ。
「それに、ご褒美は貰ったし……」
勝八が考えていると、ぼそりと緩は呟く。
伏目がちに唇に指を当てるその仕草に、勝八は不覚にもドキリとさせられた。
「……ご褒美?」
「な、なんでもない!」
緩にそんな表情をさせる原因はなんだろう。
いぶかしむ勝八に、緩は再び小学生フェイスに戻って慌てふためく。
この百面相。
どれだけ付き合っても勝八を飽きさせない幼なじみである。
勝八がじっとその顔を眺めていると、緩はやはり「やー」だの「うー」だの言ってころころ表情を変える。
だが彼女は、やがて意を決した表情になって告げた。
「その代わり勝ちゃん。私、これからもこの世界の設定を作るよ」
やはり雰囲気は小学生。
それでも、彼女の瞳には真剣なきらめきがあった。
「……また世界が歪むかもしれないぞ」
だからこそ、勝八もそれと真剣に向き合う。
彼女がそれでも恐れず世界を創るというのなら、勝八もいくらでも付き合う所存であった。
「もう、怖がったりしない。でも、今度は花とか草とか、小さくても皆を幸せにできる設定を作りたいな」
それに対して、強気なのだか弱気なのだか分かり辛い答えを返す緩。
キリリとした顔から一転ほにゃっとした笑顔を見せるものだから、両方緩の本音なのだろうと勝八は納得した。
「それでね。最初になんだけど……」
そんな緩が、先程尻に敷いたであろう異世界との通路である本を手元に寄せる。
「この世界に名前をつけようと思うの」
彼女は無地の表紙を撫で、そんな呟きを漏らした。
「名前?」
「うん、いつまでも異世界じゃ不便だし。私達で名前をつけるだけなら異世界にも影響は無いんじゃないかなって」
首を捻る勝八に、頷いて説明する緩。
確かに勝八は便宜上あちらの世界を異世界、こちらの世界を地球と呼んでいる。
だが、その地球という名前も惑星の名前であり、宇宙を総括する呼称ではない。
『異世界』の存在を知らなければ、世界を名付ける必要など無いのだ。
だから、緩の説は正しいと勝八には思えた。
「て言うか、つけてなかったのか名前」
意外なのは、緩が今まで世界に名前をつけてこなかった事である。
世界の名前など、厨二病患者である緩にしてみれば真っ先につけたい美味しい箇所だろうに。
「勝ちゃん失礼な事考えてる」
「気のせい」
神の御業で勝八の思考を読んでくる緩にさらりと答え、勝八は目線で名前をつけなかった理由を問いかけた。
「……しっくりする名前が、思いつかなくて」
すると、緩はまたもそれを読んで答える。
おそらく緩は、今までは歪みが怖くてしっかりと世界と向き合えなかったのだろう。
名前をつけると言う行為は、そこから一歩踏み出す為の儀式に見えた。
「そっか。で、どんな名前にするんだ?」
なんだか優しい気持ちになって、勝八は尋ねた。
多分緩は嫌がるだろうが、気分は娘の成長を見守る父親である。
「……ウィステリア」
すると、あらかじめ決めていたらしく緩は短くそう答えた。
「何か意味あるのか?」
国民的RPGのナントカ・オブ・の後に付いていそうな名前である。
もしかしたら響きだけでつけたのかもしれない。
そんな失礼な事をまたも思いながら、勝八はそっと問いかけた。
「えーと、英語で植物のフジを示す言葉だよ。藤色その物を示すほうが主流……なのかな?」
が、それは勝八の杞憂だったらしい。
緩から割と地味な由来が返ってくる。
異世界フジ……なんだかパッとしない名前に聞こえる。
「フジってどんなのだっけ」
とは言え、実のところ勝八はフジと聞いてもどんな植物だか思い出せない。
「えっとね……ちょっとごめんね」
勝八の問いに、緩は突如彼の足の間に潜り込んだ。
「ちょ、緩!?」
狼狽する勝八に構わず、彼女はベッドの下を探る。
嫁入り前の娘が男の股間をくぐるのはやめなさい。
指摘しようか迷った勝八だが、今頭を上げられると不利だ。
何故この娘は勝八を変態だなんだというくせに、自らはこういうことに頓着しないのだろう。
世界の歪みをスカートで拭ったり、緩は変に大雑把なところがある。
勝八がぶつぶつ考えているうちに、緩はベッド下から植物図鑑を取り出してそれをめくりだした。
「何でそんな所に図鑑入れてんだよ」
「前に名前を考えた時、一緒に入れちゃって……」
勝八のつっこみにも、やはり乙女ポイントの低い回答を返す。
どうも勝八がいつも体を預けているベッドの下は、彼の想像以上の魔境らしい。
「あったよ。これこれ」
一度徹底掃除でもしたほうが良いかもしれない。
勝八が考えていると緩は該当の項目を見つけ出し、それを彼へと向ける。
そこには淡い紫の花が連なりしだれている写真が掲載されており、勝八はやっとそれをどこで見たのか思い出した。
「おー花札のヤツか」
中学生の頃、学友達とハマって金も賭けていないのに先生に物凄く怒られた思い出が蘇る。
「そうだけど……」
が、緩も花札ファイター勝八の過去をもちろん知っている。
勝負を挑まれれば懐から花札を出し、廊下だろうがトイレの前だろうが勝負に興じていた彼の所業。
それとこの美しい花を重ねられた事を不満に思ったのか、緩が眉根を寄せる。
「えーと、綺麗だな」
これはまずい。そう判断した勝八は、咄嗟に見たままの感想を漏らした。
「でしょ」
すると緩は、まるで自らがフジの妖精であるかのように、自慢げに薄い胸を張る。
だが、すぐに誤魔化されたことに気づいて頬を膨らませる辺りそこまで単純ではない。
「んで、なんでフジなんて名前にするんだ?」
緩がフジ好きなのは分かった。
だが、何故それが異世界の名前になるのかは判明していない。
ハンバーグが好きだからこの世界の名前はハンバーグにしますと言われても、異世界人も困るだろう。
そう思って尋ねる勝八。
「フジじゃなくてウィステリア。色も好きだけど、花言葉が好きなの」
すると緩は、譲れない一線らしい箇所を修正しつつ説明した。
「花言葉?」
そんな乙女チックな物を覚えているとは、緩にも一応乙女らしい回路が備わっていたらしい。
いや、創作のネタにする為に覚えていただけかもしれないが。
「優しさ、歓迎……それから」
考える勝八に構わず、緩はフジもといウィステリアの花言葉を羅列していく。
優しさ溢れる世界になるように。
生まれ来る者を、もしくは勝八のような異邦人を歓迎する。
なるほど。それは確かに寿限無ぐらい縁起の良い名前だ。
勝八が感心していると、緩が折った指はそこでピタリと止まった。
「後は?」
「わ、忘れちゃった! あはは」
勝八が追求すると、彼女は誤魔化すようにあははと笑った。
「何だよそれ。お前脳トレとかしたほうがいいぞ」
忘れた花言葉が『絶体絶命』とか『関節痛』とかだったらどうする。
というか緩がボケてしまったら、異世界がどうなるか分からない。
「勝ちゃんにだけは言われたくないよ……花言葉間違ったかも」
勝八が真剣な顔で勧めると、緩は唇を尖らせそう返した。
歪みと波乱渦巻く異世界。
それを救わんとする神とその使者は、今日も阿呆なやり取りを繰り返すのであった。
◇◆◇◆◇
異世界の端に位置する小さな島国、ジーペン。
緩やかな峠道を、母娘が連れ立って登っている。
「母さまー。お腹空いたー」
「はいはい。もう少しですからね」
着物を着た小さな娘が催促し、母親が困り笑いでそれを宥める。
この坂さえ越えればすぐに宿場町だ。
母がそう思い、被った傘のひさしを直したその時。
「まぁ、こんな所に藤なんて咲いてたかしら」
坂の頂点、道の両脇に、鮮やかな藤が咲いていた。
垂れ下がる薄紫の花弁は、まるで彼女を誘っているようだ。
「フジ?」
「えぇ。綺麗でしょう?」
問うてくる娘に笑顔を見せて、彼女はゆっくりとその花木へ近づいた。
そして、坂の頂点から先の風景を見下ろし「あぁ」と感嘆の声を上げる。
道の端に沿って、まるで滝のように藤が咲き誇り、中央へとしだれかかっていた。
雨粒が止まっているかのような光景に、彼女は錯覚と眩暈を覚える。
「おぉー……」
普段は珍しい物を見るときゃぁきゃぁとはしゃぐ娘が、それを見た途端動きを止め、目を見開く。
彼女を虜にしたその風景に、母はぽつんと呟いた。
「藤……。花言葉は優しさ、歓迎。決して離れない。恋に酔う」
「はなことば?」
母が唱えた謎の言葉に、娘は首を傾げる。
同じように首を傾げてみせ、母は意味ありげに微笑む。
「ふふ、あなたにはちょっと早かったかしらね」
この子が後ろ二つを思ったり体感したりするのは、もう少し先の話だ。
誤魔化されたとむくれる娘を宥め、母子は坂を降っていった。
異世界ウィステリア。
その未来がどうなるかは、見守る小さな神ですら知らない。




