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エピローグ『足跡』

エピローグ『足跡』


 世界は、静かになっていた。


 長い戦争が終わり、崩壊した都市には少しずつ緑が戻り始めている。黒く焼けていた大地から草が芽吹き、灰色だった空にも青が広がっていた。


 海は穏やかだった。


 かつて大陸を呑み込んだ怒りの波が嘘のように、静かに白い砂浜を撫でている。


 夕暮れだった。


 水平線の向こうで、赤い太陽がゆっくり沈もうとしている。


 波の音だけが響く。


 アダムとエバは並んで歩いていた。


 裸足だった。


 砂が柔らかい。


 少し湿っていて、足裏へ冷たさが心地よく広がる。


 エバは長い髪を風になびかせながら、遠くの海を見つめていた。


「……変な感じ」


 彼女がぽつりと言う。


「何が?」


 アダムが隣を見る。


 エバは苦笑した。


「こんな静かな世界、久しぶりだから」


 波が寄せては返す。


 昔のようだった。


 まだ何も壊れていなかった頃。


 楽園で二人並んで歩いていた日々に、少しだけ似ていた。


 だが、もう違う。


 二人とも、あまりに多くを失った。


 エバはゆっくり息を吐く。


「いろいろあったわね」


 アダムが小さく笑う。


「ああ」


「氷河期も」


「熱波も」


「飢餓も」


「戦争も」


 エバは空を見る。


 夕陽がその横顔を赤く照らしていた。


「……それでも」


 少し誇らしげに笑う。


「私たち、生きてきたのよね」


 風が吹く。


 潮の匂いがする。


「神がいなくても」


 その言葉に、アダムは少しだけ目を細めた。


 怒らなかった。


 否定もしない。


 ただ静かに微笑んだ。


「それは、どうかな」


 エバが首を傾げる。


「え?」


 アダムは後ろを指差した。


「あれを見てごらん」


 エバは振り返る。


 白い砂浜。


 夕陽に照らされた長い海岸線。


 そこには、自分たちの足跡が続いていた。


 エバは目を細める。


「……あれ?」


 妙だった。


 二人で歩いていたはずなのに。


 足跡が、一人分しかない場所がある。


 しかも、それは決まって。


 嵐の時。


 大洪水の時。


 灼熱地獄の時。


 最も苦しかった辺りだけだった。


 エバは立ち止まる。


「どういうこと……?」


 アダムは静かに砂浜を見つめた。


「二人の足跡の時には」


 波が寄せる。


「神が、共に歩んでくださった」


 エバの瞳が揺れる。


 アダムは続けた。


「そして、一人分しかない時には」


 彼はゆっくり笑った。


「神が、私たちを負ぶってくださったんだ」


 波の音が響く。


 エバは言葉を失った。


 風が髪を揺らす。


 夕陽が海を赤く染めていた。


「そんな……」


 彼女の声が震える。


「でも私は、ずっと神を憎んで……」


 アダムは静かに首を振る。


「それでも、見捨てなかった」


 エバの喉が詰まる。


 脳裏に蘇る。


 凍え死にそうだった夜。


 不思議と見つかった薪。


 飢えの中で残っていた果実。


 熱波の中で吹いた冷たい風。


 何度も絶望しかけた。


 でも、本当に壊れはしなかった。


 エバは涙を浮かべながら砂浜へ膝をつく。


 白い砂へ触れる。


 温かい。


 波が指先を濡らしていく。


「……私、ずっと一人だと思ってた」


 声が掠れる。


「戦ってるのは、自分だけだって」


 アダムはその隣へ静かに座った。


「俺もだよ」


 エバが彼を見る。


 アダムは少し笑った。


「リリスが死んだ時も」


 風が吹く。


「お前を失った時も」


 彼は海を見る。


「ずっと、神は黙ってた気がしてた」


 エバは黙って聞いていた。


「でも今なら分かる」


 アダムは砂浜へ残る足跡を見つめる。


「黙って消えたんじゃない」


 波が静かに寄せる。


「近すぎて、見えなかったんだ」


 エバの頬を涙が流れ落ちる。


 夕陽がその雫を赤く照らした。


 彼女は泣きながら笑った。


「……敵わないわね」


 アダムも小さく笑う。


「俺たち、ずっと抱えられてたんだな」


 その時。


 波が二人の足を洗った。


 エバはふと足元を見る。


「あ……」


 アダムも目を落とす。


 二人の履いている古いサンダル。


 何十年も旅を続けてきたはずなのに。


 不思議なほど壊れていなかった。


 擦り切れていない。


 まるで、守られていたみたいに。


 エバは涙を拭い、空を見上げる。


 青い空だった。


 もう、嵐はどこにもない。


 遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。


 新しい世界の音だった。


 アダムは立ち上がり、エバへ手を差し出す。


「行こう」


 エバはその手を握る。


 今度は迷わなかった。


 二人は並んで歩き出す。


 白い砂浜の上を。


 長く続く、新しい世界へ。



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