第76話 狐火の幻覚
──夜中に目が覚め俺は暗がりの中で上半身を起こした。何となく辺りを見回す。鬼村はいないし、別に何かの気配を感じているわけでもない。いっそ静かすぎるくらいだ。
「……まだ二時かよ」
時刻を確認して、眠りについてから一時間半しか経っていないことに気づくも、どうにもすんなりと再入眠するのは難しそうだ。
俺は一度体を起こしてトイレにでも行くことにした。ひたひたと足音を立てながらトイレに向かい、さっさと用を済ませたところであくびが出てくる。換気扇の下まで来て煙草を手に取り「一本吸ってから寝よう」と思った時だ。
玄関の方から何か音がした。
「……?」
ドアの向こうに、何かの気配を感じる。
まさか。
ゆっくりと近づいていった玄関の覗き穴に片目を近づける。
『やっほー』
そこには予想通り、ひらひらと手を振る鬼村の姿。
「こんな時間に何だよ」
ドアを開けると、後ろで手を組んで立つ鬼村がそこにいた。
「ちょっと喋りたくなったかもーみたいな?」
「はあ? 昼間でいいだろ」
「急にしたくなることってあるじゃん。センセーは寝てなかったの?」
「……ちょっと目が覚めただけだよ。今からまた寝る」
「ええ~あたしとちょっと遊ぼうよ」
「嫌だね」
そう言ってドアを閉めようとする、が、鬼村の足がそれを遮った。
「ね、ね、ちょっとお喋りするだけだから」
「……何なんだよ」
「一個だけ! 一個だけ聞いたら帰るから!」
「……はあー、仕方ねぇな。何」
「センセーはあたしのこと、どう思ってる?」
下から覗き込むように鬼村が俺を見ている。
部屋の中は暗く、唯一の光源は外の月明かりのみ。
鬼村の表情は捉えづらい。
好奇心に満ちた表情をしているのか、
哀愁を漂わせた表情をしているのか、
はたまた
獲物を狩るような表情をしているのか。
「……鬼村は、うちの生徒だ」
「そーゆーことじゃなくってぇ~」
「お前に答えられるのはそれだけだよ」
冷たく返すと、目の前の鬼村は一瞬表情を強張らせてから目を細めた。
「おもんない回答しはるねぇ」
──鬼村の口から、鬼村じゃない声が聴こえた。
「人間の男なんやさかい、どうせろくでもあらへん答えが返ってくる思うとったんやけど……」
鬼村の立つ場所がぐにゃりと歪み、そのまま後ろへと倒れていく。
「うわ!?」
何故か俺も引っ張られるようにして前のめりになった。
玄関の外が、急に異空間へと変わる。
真っ黒な穴にゆっくりと落ちていくように、俺の身体が逆さまになった。
「ようやくあんたの居場所見つけられたわ。
隙をついたとこ狙おう思っとったんやけど、
いっつも煙たい邪魔が入って住処までは探せへんかってん。
そやけどこないな時は妖怪よりも人間の方が使えたりするなぁ。
べらべらといらへんことまでいろんな人間が話してくれたわぁ。
“配信者”っていうんはこういう時便利やねぇ」
身体が
下へ、
下へ、
下へ、
沈んでいく。
真っ暗闇に落ちていく中で聞こえたのは前にも一度聴いた声。
これは確か、化け狐と戦った時だったか。
ふと見ればにたりと笑う大きな白い狐の顔がそこにあった。
落ちていく俺を見つめ笑っている。
下へ、
下へ、
下へ、
これは
あの時と同じかもしれない。
電車の時の、幻覚。
大きな目玉が俺を見つめる中、
くわえた煙草に火を点けた。
「ひとまずはあの嫌な視線を送ってくる奴をつついてきてくれよ」
そう言うと立ち上った煙が雉へと形を変え、勢いよく顔に向かって滑空していった。鋭い嘴が目玉に突き刺さったと同時に急激に辺りは明るくなり、俺は地面に背中を打ち付けた。
「痛ってぇ……!」
痛みは感じたが、かなりの高さから落ちた痛み、というわけじゃない。さっきのはやっぱり幻覚だったわけだ。
『桃様……! ご無事ですか!』
あんずの声でハッとして周りを見る。急に視界が開け、辺りは木が鬱蒼と生い茂る場所へと変わっていた。ここがどこなのかはわからない。たぶん、転外界《あちら側》なんだろうが。
「ああ、何ともねぇよ。犬と猿は?」
『アタクシたちはあの者に皆一度消し飛ばされてしまいました。他の二匹も新に身体を頂かなければいけません』
「……目が覚めた時にやたらと静かすぎたのはそういうことだったのか」
辺りを確認しつつ、まだ火の点いている煙草をくわえて吸い込むと、大きく息を吐き出して二匹を召喚した。ここ最近ずっと召喚していた三匹は警戒の為に出していたんだが……俺に伝える暇もなく消されたってことは相当強い奴ってことだろう。そいつは今どこに──
空気が一瞬止まったように感じて、
俺は慌ててその場に倒れ込んだ。
──ゴオオオオッ!!
──バキバキバキッ!!
吹き飛ばされそうな強い風が起こったかと思えば、周りに生えていた木々が大きな音を立てて折れ倒れていく。急な出来事に俺は頭を抱えたまましばらくそこで倒れ込んでいたが、そっと風が起こった方を覗き見てみた。
「……あいつか」
視界が良くなったその先で、鬼村が戦っている。
たくさんの尻尾を生やしたでかい化け狐と。
「なんだよあれ……九尾の狐、っつーやつか? 結構強いんじゃねーの?」
俺が命令を下し、犬が大きく体を震わせて咆哮した。空気が振動し、こちらの攻撃に気が付いた鬼村と九尾の狐が振り返った。それと同時に雉が飛び上がり、その足に掴んでいた猿を空から落とすと、猿は体を巨大化させて九尾の狐を押し潰そうとした。
──ドォォォォンン……!
地面が割れる音がし、鬼村は後方へと飛び退いたかと思うと走って俺の方までやってきた。
「センセ、だいじょぶ!? 連れてこられたの!?」
「お前はいつからアレと戦ってんだよ」
「ついさっき! 部屋にいたら急に襲われそうになって……」
会話はそこで途切れた。押し潰されたはずの九尾の狐が、こちらに向かって炎を放ってきた。鬼村が金棒でそれを受け止めて消す。少し焦げた匂いが漂った。
「まずは鬼はんを寝かせてからそっちの坊やとゆっくり遊ぼう思うとったんやけど……甘う見すぎとったかな」
九尾の狐がそう言うと、一つ、二つ、三つと炎が回りに現れ始めた。
「センセ、あの狐火、ただ燃えてるだけじゃなくて幻覚系も合わさってるから気を付けて」
「幻覚?」
咄嗟に訊いたものの、その返事を待つ余裕もなく狐火が飛んでくる。鬼村を襲う狐火は振り回した金棒によって消し去られたが、死角から飛んできた炎が俺の腕にぶつかりそうになる。と同時に、狐火は大きく揺れ、熊のような形へと変えて俺の腕に噛みついてきた。
「なっ……!?」
でかい巨体が俺の肉を抉る。鋭い歯の間に俺の皮膚が引っかかっていた。パニックを起こしそうになる直前に、視界が何かで遮られた。
「だから言ったじゃん! 幻覚系も合わさってるよって!」
鬼村の手が俺の顔から離れていき俺の服が焼け焦げているのを見て、今のが幻覚だったとわかる。肉は抉れていないし、腕が齧り取られた様子もない。
「……っ、でもだからってどうすりゃいいんだよ!」
「とにかくあのでかい狐を叩くしかないよ。小手先の攻撃ばっかしてくるけど、体力温存してるってことかもだから気を付けて!」
「気を付けて、ってなぁ……」
手の内に刀を顕現させ、しっかりと両手で握った。大丈夫だ、豪鬼さんに少しは戦い方を教えてもらった。前よりは、ちょっとくらいマシになってるはず。
命令を下し、雉を九尾の狐に向かわせる。ぶつかるようにして身体の煙を霧散させると、煙によってできた死角から猿が飛び出して体当たりを喰らわせようとした。九尾の狐はそれを避けようと後方へ飛び退ったが、そこへ鬼村が大きな金棒を叩き付ける。
「綺麗な顔に傷でもついたらどないしてくれるん?」
少し怒ったように言うと、狐の身体が空へと跳び上がり、九本の尾がこっちに向かって伸びてきた。
「うわ……!?」
ドン!
ドン!
ドン!!
と音を立てて尾が地面に突き刺さる。
おいおい、尻尾ってもっとふわふわしてるもんなんじゃねーのかよ。
驚きつつも、俺の背後に召喚した身体の大きな猿の手の上に俺が足を載せると、そのまま勢いよく手を突き上げさせて俺は宙へと跳んだ。自由落下で落ちていく俺を攻撃しようとした九尾の狐に、犬の盛大な咆哮が邪魔をする。
「でやあああっ!!」
鞘に収まったままの刀に自分の妖力を載せ、狐の頭部へと叩きつける。が、俺の攻撃は狐の九本の尾によって阻まれた。だがその隙を狙って、鬼村が背後から金棒を叩き付ける。
「ぅらああああ!!」
鬼村の叫びと共にぶつかった衝撃により九尾の狐は飛ばされ、遠くの太い木にダン! とぶつかった。
「よし!」
俺はつい喜びの声を上げてしまった。だが、まだ終わってなどいない。九尾の狐が放ったいくつかの狐火が勢いよく鬼村の方へと飛んでいき、そして大きく融合した炎は龍の形へと変わっていた。
まるで本当に生きているかのごとく、その龍の形をした炎は鬼村に巻きつくと、高く高く昇っていきあいつを宙吊りにする。
「鬼村!!」
待て、あれはただの炎なんだろ。龍に見えるのは幻覚のはずだ。それなのにあの炎の龍は実際に体があるように見える。ただ焼け焦げるだけじゃなくて、あのままじゃ本当に押し潰されてしまうんじゃないかと……。
疑問に思う間もなく、別の炎が俺に向かって飛んできた。今度は虎の形をした炎が、驚いた俺を組み敷く。
「ぐぁっ……!」
虎の大きな牙が炎の中で朧気に光る。俺は虎に噛まれないようその口を両手で持った刀によって押し返そうとしていた。
「くっそ……重てぇ……! 本当に幻覚か? 鬼村! 大丈夫か!」
咄嗟にそっちを見たものの、鬼村の返事は聞こえない。
「鬼村!!」
再度呼んだが、巻き付いた炎の龍の身体によって鬼村の表情は見えなかった。
「くそっ……」
俺の体力は妖怪に比べればそう多くもない。ただの肉弾戦なら確実に負けるんだ。だから教えてもらったんだろ、俺でもどうにかなる戦い方を。
自分の内にある滞留する空気のような流れを感じ、それを刀に載せる。俺が腕に力を込め右手に意識を集中すると、瞬発的に刀を振りぬいて炎の虎を退けた。
虎は声もなく炎を揺らめかせ、消えていった。
慌てて鬼村の方へ駆け寄りどうにか助けようと刀を構え──
それと同時に、矢のような何かが鬼村の身体に巻き付く炎に突き刺さった。
「!!」
どさ、と落ちてきた鬼村に駆け寄る。
「大丈夫か!」
「だい、じょぶ……っ」
鬼村は珍しく呼吸が乱れていて、肩で息をしながら九尾の狐を睨みつけると、流し見るように別の場所へと目を動かした。俺もその視線の先を追う。
目に映ったのは──
こちらへ向かって歩いてくる土御門と、狗谷木の姿だった。
「ふん、今日は天狗がここまで連れて来てくれたから、入界の札は使ってないわ!」
「美鬼ちゃんだいじょぶ~!? 服燃えたりしてない!?」
突然やってきた増援に俺は安堵した──。




