第六十一話
小柄な狼は尻尾を垂らす。
指示されて扉を開けたイリスは首を傾げている。
その部屋には誰もいない、人がいる気配もない、残されているのはテーブルに置かれた分厚い書物だけだった。
『ありゃ、坊ちゃんがいないね。ニオイは微かに残ってるけど、どこに行ったんかね』
「そ、それよりシンシアが帰ってこないよ。リザードドラゴンも、どうしちゃったの?」
『んぁ……それは、用事があるからさ』
歯切れの悪い答えにイリスは小柄な狼を怪しむ。
そこへ少女を抱えた帝国兵士が走ってきた。
「あ、あれ、ニーナ!?」
「イリス!」
すぐにニーナと分かったイリスは急いで駆け寄っていく。
帝国兵士の腕から下りたニーナはイリスと再会を喜び抱き合うと、お互いに笑顔を浮かべる。
「びっくりしたぁ、どうして帝都にいるの?」
「それはあとだよイリス、帝都中が大きい獣ばかりで大変なことになってる! シンシアが一人で戦ってて、とにかく大変なんだよ!」
目を丸くさせたイリスは小柄な狼をじっと睨んだ。
『なんさぁ? どうせお嬢さん戦えないでしょ、それよりさっさと隊長さんがいる天空の城に行った方がいいさ』
「戦えないってそりゃそうだけど、シンシア一人で戦わせるなんておかしいじゃんか!」
小柄な狼は何も言い返さずに息を鼻から出すとどこかへと行ってしまう。
「もぉ、ニーナはアクセルのそばにいてあげて、ちょっと調子が悪いみたいだから。アタシはシンシアを探してくる」
「あ、イリス! 危ないってば」
ニーナの言葉も聞かずイリスは城の外へと走っていき、右手の中指に填めた赤い指輪を覗く。
「リザードドラゴンはどこにいるの?」
赤い指輪に向かって呼びかけるが何も反応はない。
城の外は曇り空になって雨粒が点々と地面へと落ちていた。
溜まっていた血が雨によって流され、血と雨水が跳ねるほど走るイリスは途中で何匹か大きな狼が絶命して倒れているのを見かけるが、大して気にも留めずシンシアを探す。
帝都の大通りに差し掛かったところで前方からローブを着た人物が走ってくるのに気付く。
見知らぬ誰かはフードを深く被っていて顔は分からず、手元には鋭い短剣があった。
「え、あれ、あの短剣どこかで」
人物が通り過ぎてからイリスは気付いて振り返るが、頭の隅にある記憶を思い出させようとするも浮かんでこない。
「見たことがあるんだけどなぁ」
そう呟いて正面を向くと、大通りの真ん中に誰かが倒れているのが視界に映る。
小袖と緋袴を着た長い髪の少女と、氷の槍が突き刺さって倒れている二匹の大きな狼。
「あ、あれ? シンシア?」
遠目からでも状況が分かってしまったイリスは声を震わす。
イリスは横たわるシンシアの元へ駆け寄っていく。
「シンシア? シンシア!」
近くに来てさらに分かったのは背部から血が滲み出ているということ。
イリスの足元にまで真っ赤な血液が流れている。
シンシアの肩を揺すると、僅かだが呼吸をして瞼を開けた。
「何があったの? ねぇ、なんで、何が!?」
唇を何度か動かして、イリスの顔を見上げたシンシアはそっと微笑む。
「お、恩恵も……大したこと、ないです、わね。死ぬ時は、そんなもの、ですわ」
「何言ってるの! 城まで運ぶから、頑張ってよ!!」
イリスはシンシアを抱き起こして背負うが、シンシアは短く呻く。
「い、痛い」
「痛いのは当然だよ、けど、城に行くにはこうしないと間に合わない!」
必死に運ぼうとするイリスにシンシアは目を細めた。
「こういう、ときに限って……邪魔は、ありますの、よ」
目の前を立ち塞がったのは一匹の大きな狼で、イリスは動きを止めてしまう。
唾液を垂らすお腹を空かせた大きな狼は一歩ずつ相手を伺いながら寄ってくる。
大きな狼に道を塞がれてしまい身動きがとれないイリスに小柄な狼の言葉が胸を突く。
「なんで、戦えないの? なんでアタシには力がないの? 誰も助けれないじゃん、まだ恩返しもできてないのに!」
叫ぶイリスにシンシアは口を閉ざして眉を下げた。
大きな狼が体を少し屈めて、今にも飛びかかろうとしている。
呼吸を整えたシンシアはイリスの耳元で、
「もう、わたくしは大丈夫ですわ」
はっきりと囁かれた。
諦めとも受け取れる彼女の言葉がイリスに膝をつかせた。
俯くイリスと、目を閉ざしたシンシア。
何かが潰れる音が耳を騒がしくさせ、イリスは顔を上げる。
目の前にいたはずの大きい狼は吹き飛ばされ、横向きに倒れて全身を痙攣させていた。
拳に血を付着させてイリスの前に立っていたのは爬虫類の瞳孔をした厳つい男。
「リザードドラゴン?」
「急所を刺されてここまで喋れる方が奇跡だ。シンシアの事はもう諦めろ、楽にさせてやれ」
イリスは背中に凭れているシンシアのことを言われ、あ然となる。
リザードドラゴンはシンシアを仰向けにさせて、両手を重ねるように胸の上に乗せた。
「指輪がない、誰かに盗まれたか?」
左手に填めていたはずの赤い指輪がないことに気付いたリザードドラゴンは呟く。
「今頃、ですわ、ね」
「シルバードラゴンの状況を確認していただけだ。その間に奴らが入ってきた、ただそれだけのこと」
黙って睨むシンシアに、リザードドラゴンは続ける。
「どうやらあの女は天空の城を占拠したらしい。だがシルバードラゴンは無事だ、安心しろ」
鼻で笑ったシンシアは静かに蹲っているイリスを眺めて、
「イリスさん……わたくし、幸せで、すの……よ」
囁いた優しい声が、地面を叩く雨粒によって掻き消されていく。
溜まった雫が閉ざした瞼の隙間から零れ、血と一緒に流されていった。




