第五話
濃厚な青い空の上で無数の星が町を照らしている。
灰色の毛に覆われた狼は背中の一部を火傷により失い、皮膚を露出していた。
尖った口と鼻、剥き出した牙は暗くても鋭く光る。
蒼い丸い瞳をぎらつかせて辺りを警戒。
ボロボロの宿屋の中で不安を隠せない商人イリスは継ぎ接ぎだらけのベッドに座り込んでいた。
赤茶のボブヘアと緑色の瞳、右手中指には一際目立つ血色の石が埋め込まれた指輪。
窓から暗い外を見張っている小袖と緋袴を着た品位のある巫女シンシアはつり目の青い瞳を細める。
長い黒い髪を邪魔にならないよう後ろで結ぶ。
「ごめんね、関係ないアクセルやシンシアも巻き込んじゃって」
眉を下げて笑顔を作るイリスにシンシアは微笑む。
「何を言っていますの、これくらい巫女として当然のこと。それに、わたくしはイリスさんやアクセルさんに迷惑を掛けたのですから、これぐらいしないと納得できませんわ」
シンシアの左手中指にも赤い石を埋め込んだ指輪が填められている。
「うん、ごめん……」
言葉に変化がない、シンシアは苦い笑みを浮かべた。
「ねぇ、シンシアのその指輪って魔術師の武器かなにか?」
イリスは静かに赤い指輪について尋ねる。
「これは、魔術師にとって最強の武器ですの。本来なら詠唱が必要な魔術を簡単に繰り出せて、ドラゴンと誓約を交わした者にしか与えられない特別な代物ですわ」
ドラゴンに創ってもらった恩恵の指輪を眺めるシンシア。
「ドラゴンと誓約ってできるの?」
実に素朴な疑問だった。
神として崇められているドラゴンが人間如きにしてくれるものなのか、誰もが疑う。
「ええ、できますわ」
落ち着いたつり目の青い瞳は静かに恩恵の指輪を右手で握る。
耳元で形のない何かに囁かれているのか、シンシアは軽い相槌をうつ。
「わかっていますの、後悔していませんわ」
「シンシア?」
独り言を呟く姿にイリスは首を傾げて声をかけた。
「なんでもありませんわ。それより昨夜の事件、帝国軍が調べたところ暗殺集団が絡んでいる可能性が高いそうですわ」
「そ、そうなんだ」
背筋が凍ってしまうほど冷たい悪寒にイリスは顔を青ざめさせる。
「問題は誰が何故指輪を奪う為に雇ったのかということですわ」
イリスにとって大切な指輪を狙う敵が多く、まともに商売をすることができないでいる。
「はぁ、なんで狙うかなぁ……」
力無い呟き声が大きな息とともに吐き出された。
『ヴァグウゥ!!』
突如外から威嚇する唸り声が響き渡り、イリスとシンシアは肩を強張らせる。
「な、なんですの?」
「アクセル!?」
窓の木枠を上に押しのけて外に顔を放り出すイリスとシンシア。
狼は灰色の毛を逆立たせ、薄汚れたフード付きのローブを着た人物と対峙していた。
革製のグローブを填めた手には銀のナイフ。
全てが隠された謎の少女であることはわかっている狼はじっと相手を睨む。
「アンはお前が邪魔だ」
冷徹な言葉、少女は銀のナイフを狼へと振り翳す。
『ヴゥガ!』
狼は恐れず、少女の腕に目掛けて地面を蹴って飛びかかる。
大きな口を開けて噛みつくが、上下の歯が空気だけを食べて重なった。
音も立てずに狼の横へと移動した少女。
銀のナイフが腋下を狙って斬りかかろうとしたが、狼は空中で無理にでも体を捻らせた。
『キャゥン!』
険しく唸った狼の瞳孔が急激に小さく縮まる。
視界に映ったのは暗いフードのなかで光る残酷さを覚えた紅い瞳。
そして目の前に飛び散る灰色の毛と数滴の赤い雫だった。
鼻先から地面へと落ちていく狼の肩に刻まれた一線の切り傷とそこから溢れる血液で息を荒くさせる。
「アクセルが危ない!」
「今出て行ったらイリスさんも危ないですわ!!」
イリスが急いで部屋から出ていくと、シンシアは追いかけて同じように走った。
宿主や宿泊客は慌ただしい音に何事だと窓や店の内側から顔を出して外の様子を伺う。
「アンは指輪を奪って、持ち主を殺すだけ」
「なんで、なんでアタシの指輪を狙うの!?」
イリスは武器を持たずに少女の近くへ。
その後ろでシンシアは警戒を忘れない。
「アンは指輪が欲しいから奪う、それだけ」
決して詳しいことを話さず、少女は血液の付着した銀のナイフを下に向けた。
「アンっていうのがアナタの名前なの?」
「アンはアン」
「イリスさん、危ないですわ。下がってくださいまし」
恩恵の指輪をもつ掌に青白い小さな電気を溜めてシンシアは戦闘態勢に入る。
「イヤ!」
『……』
横たわる狼は少女の背後にいて、イリスは近寄ることができない。
「アンは殺す」
アンは銀のナイフを捨てると細長いナイフを裾から取り出して、イリスの胸元へと駆けていく。
「っ!」
何も抵抗する術がないイリスは直立したまま体を震わして動かない。
「イリスさんには触れさせませんわぁ!」
微弱な電気は大きく青白い光を発火させてシンシアの掌から放たれた。
火花が散るほどの電撃に細長いナイフをすぐさま何処かへ投げたアン。
「アンは魔術師が嫌い、臆病者のすること」
「お、臆病者ですってぇ!?」
シンシアは顔を真っ赤にさせて激怒。
その様子を狼は顔を起こして眺めていた。
よろける体、狼は四脚を震わせて立ち上がる。
肩から噴出する血液で地面を赤く染めさせながら、標的へと駆け出す。
地面を強く蹴り上げて、相手より高い位置にまで体を浮かせる。
「アンは無益な殺しは好まない」
一体何本のナイフがフードの中に仕込まれているのか、今度は投げ用の短いナイフが裾から出てきた。
背後の狼へと狙いをつけてナイフを投げつけた。
「!?」
しかし、そこに狼の姿はない。
筋肉質の体をもつ盗賊アクセルが蒼い瞳でアンを睨みつけて、手には盗賊が常時装備している短剣。
投げられたナイフを短剣で弾くとそのままの勢いでローブを掴んだ。
アンを押し倒せば隠れていた顔がようやく露出する。
短い茶色の髪に紅い瞳、幼い顔立ちの少女はアクセルを睨んでいた。
「こんなガキが暗殺者ってか」
肌と密着した黒いシャツの右肩が破け少量の血液が垂れている。
「答えろ、誰に雇われた?」
ローブを押さえつけて身動きを取れないようにするが、アンは睨んだまま。
残念なことにアクセルは手を自由にさせていて、アンの右手が顎を突く。
「うぉっ!」
「馬鹿な狼ですわ、手を自由にさせてどうしますの!?」
強制的に空を見上げさせられ、そのまま形勢が逆転。
アクセルは地面へと押し倒されてしまう。
起き上がったアンはそのまま町の外へと逃げてしまった。
「くそ、逃げられた」
「深追いは禁物、とにかく今は傷を処置しないといけませんわ」
二人の後ろで直立したまま動かないイリス。
表情がとにかく暗い。
「ごめん、ごめん、ゴメン」
三回呟かれた精一杯の謝罪にアクセルは目を丸くさせた。
すぐに起き上がったアクセルはイリスの両肩に手を置く。
「なーに言ってんだよ、イリスは何も悪くない。俺も大丈夫だから」
「アクセルぅ……ごめんね、本当にごめんね」
どれだけアクセルが励ましてもイリスの口から出るのは謝罪だけ。
シンシアは小さく息を吐くと、耳を空に傾けた。
相槌を打ちシンシアはそのまま宿屋へと戻っていく。
「俺が勝手にやってることだ。お前がそこまで気負うこともないだろ? ほら、宿に戻って落ち着け」
イリスの背中を押しながら、ざわつく宿屋に戻ったアクセル。
二階の通路ではシンシアが恩恵の指輪を眺めながら一人で喋っている。
優しい笑みを浮かべて誰にも聞こえないように。
アクセルは邪魔にならないよう静かに部屋へと入った。
イリスをベッドに腰掛けさせて、アクセルは窓に背中を預ける。
「アクセル、肩大丈夫?」
「ん、ああ、軽い切り傷だから放っておいても平気だ」
イリスは顔を俯かせてしまう。
「ごめ」
「ごめんは、もうやめろ」
遮られてしまったイリスは苦そうに笑う。
「あはは、駄目だねアタシ」
「ああ、駄目だな今のイリスは、だから弱気な発言はやめろ。こっちの気が狂うって」
アクセルのふざけた口調に、唇を軽く噛んでイリスは目を細める。
「人がせっかく心配してあげてるのに……アクセルは本当にヒドイよね。全然弁償の分も働かないし、シンシアの方がずっと仕事熱心だし!」
立ち上がったイリス、アクセルに向かって悪戯な笑みを浮かべた。
「おいおい、俺は立派な用心棒として十分に役立ってるだろ?」
「ぜーんぜん。それどころか常連客のニーナは体調崩したし、お店に立ってる人が怖いって言ってお客さん離れてるし、役に立ってないし!」
これには返す言葉もない。
困ったアクセルはイリスから目を逸らす。
イリスはジッと睨むも、すぐに笑顔に戻した。
部屋の扉を開けて去り際に、
「ありがとう、アクセル」
嬉々とした声で感謝を述べる。
青みがかった黒髪を掻きながら、アクセルは口元に笑みを浮かべた。
古びたボロボロのベッドに寝転べば簡単に寝入ることができるアクセル。
「寝る前に傷を処置しますわよ!」
いきなり扉を蹴り飛ばして乱暴に入ってきたシンシアによって眠りを妨げられたアクセルは懇々と説教をされてしまった。
処置を終えてようやく眠りにつけたアクセルは不満を呟きながらすぐに来てしまった朝に体を起こす。
窓の外は既に明るい。
一階へと降りると、宿主が変わらぬ様子で手を挙げて挨拶。
「俺が狼になれるって知ってた?」
通るついでに宿主に訊いてみると、鼻で笑われてしまう。
「帝国兵には言わねぇから安心しな」
「ははぁ、優しい主様に感謝感激だな」
宿主に軽く追い払われたアクセルは小走りで商店通りを進む。
血液が付着した地面を眺めて肩をすくめるアクセル。
「アクセル、ほらこっちこっち!」
木箱を両手に持ったイリスが大きな声でアクセルを呼んだ。
横には同じく木箱を持つシンシアが呆れながらこちらを見ている。
「これなら商売も大丈夫だな……あとは昨日の暗殺者か」
「暗殺者と何かあった様な言い方、ずいぶんと厄介なことに首を突っ込んでいるみたいだな、盗賊」
冷めた口調で発せられたことで、アクセルは軽く数回頷いた。
隣を覗くと鋼鉄鎧を着た帝国兵士三人を連れて先頭に立っている女性。
軽装鎧の上には黒に赤のラインが入ったコートを羽織っている。
深緑に輝く宝石が埋め込まれた首輪がよく目立つ。
「なに、俺を捕まえに来たの?」
「本当ならそうしたいところだが、今は別の問題を片付けている」
凛とした顔立ちは男に負けないほど。
「再度言うが外にいる悪賊共には気を付けろ」
アクセルの前を堂々と横切っていく女性と帝国兵士三人。
通り過ぎてから大きく息を吐き出したアクセルは不思議そうに眺めているイリスとシンシアのもとへ向かう。
「あの隊長と知り合いですの?」
シンシアの問いにアクセルは軽く頷く。
「物を盗んでいれば世話にもなるさ、帝国兵士とはね」
「そうですの、お優しい隊長で良かったですわね」
遠くにいる帝国兵達を視界に映すシンシアは涼しい表情。
「うん、本当に優しい人だよ、町の困ったことならなんでもすぐに解決してくれるし、皆からすごく信頼されてる」
イリスの言葉にシンシアは笑みを浮かべる。
「ええ、他の町では有り得ないことをしていますわ」
「有り得ないって、どういうことさ?」
「本来なら町民の依頼は一度軍の本部に申請して、承諾をもらえないとできませんの。なのに、ここの帝国兵士は申請もせずに無償で人々を助けている、これはれっきとした軍の規則違反ですわ」
アクセルは苦い表情で頭を掻く。
「犯罪が起きた場合も当然本部へ連絡し、犯人を捕まえたら帝都に送って裁判することが定められていますのよ、わかりまして? アクセルさん」
「ああ、よーくわかった。優しい帝国兵で助かったよ」
アクセルはイリスから木箱を受け取ると大勢の人々で賑わう露天市場へと二人より早く向かう。
「あーあ、しばらく家に戻れないのかぁ」
両手が空いたイリスは溜息を吐く。
「あの暗殺者を捕まえるまでは仕方ありませんわ」
「もぅ、この指輪には本当に何もないのにな……実はあるのかな?」
イリスは右手中指に光る血色の石が刻み込まれた指輪を眺めながら疑問を浮かべていた。
その横で誰にも話しかけられていないのに相槌を打つシンシア。
「あるかもしれませんわ」
予想もしていなかった返事にイリスは目を丸くさせた。
「まだ確定はしていませんが、可能性が高いですわ」
緑の瞳と青い瞳が互いに目を合わせる。
イリスは右手を胸元に寄せて俯く。
「おと……さん」
「おと?」
呟かれた声が上手く聞き取れなかったのか、シンシアは怪訝な表情。
首を横に振ってイリスは微笑んだ。
「ううん、なんでもない。はやく行こう、露店を開けないと他の商人に負けちゃうよ」
小走りに慣れた様子で混雑している露天市場へと入っていった。
慌ててシンシアも木箱を手に持って人々にぶつかりながら入っていく。
毎朝露天市場で働く日々が続いて、毎晩宿屋で見張りをする日々が続くなか、あれからというもの暗殺者は一切現れなくなった。
アクセルが眠気を覚ます為、狼の姿で夜の商店通りを散歩していると、帝国兵士二人が巡回しているのに気付く。
鋼鉄鎧の中心には銀色のドラゴンが翼を広げた様子で描かれている。
鎧を軋ませながら警戒している手には空に尖った刃先を掲げた槍。
あんなもので突かれてしまえば一溜まりもない。
狼は路地裏に隠れて帝国兵士達の様子を窺う。
巡回しながらも二人の兵士は会話を交えていた。
「隊長はどうやってあの若さで班隊長になれたと思う?」
「そりゃ実力だろ、当然だ。凄まじい努力と皇帝に忠実だったことが認められたからこそなれたのに決まってる」
どちらも兜を被っているので顔はわからないが、渋く低い声が響いている。
「まぁ隊長になったのはいいけど帝都から遠い所に飛ばされたのは間違いなく軍にとっては邪魔だったってことだろうな」
「女だからじゃないのか? 今まで女隊長なんていなかったし」
笑いながら歩いていく兵士。
狼はそっと足音を立てずに通りへ出ると、丸い蒼い瞳をぎらつかせて鼻から大きく息を出した。
「部下としては申し分のないほど私に忠実だ、悪い奴らではない」
狼よりも気配を殺していた人物に思わず全身を震わす。
「狼の視界はかなり広いと聞くが貴様は違うようだな?」
部下をもつ女隊長は冷静に落ち着いた様子で建物の壁に凭れて腕を組んでいた。
「悪賊が度々この町を観察している。襲う準備をしているのか、それとも何かを狙っているのか、わからないがどちらにしても町に危険が及ぶ。今後は私達だけの班以外にも応援を呼ぶ予定だ。あの宿屋辺りも……だから」
隊長は小さく口を開けて一度停止する。
続きが聞けない狼は大人しくお座り状態で待ち、尻尾もゆらゆらと左右に動かす。
「だから、なんだろうな?」
一人静かに笑う隊長に狼は鋭い眼光で睨む。
「盗賊が人の為に善意を尽くす。今まで捕まえてきた賊のなかでは異彩すぎて、可笑しいよ」
壁から背中が離れ、隊長は腰に差した剣の鞘に肘を置いて狼を見下ろした。
「賊になってもお前は変わらない。悪になれないのは賊として致命的だと思うが、それが良い所かもしれない」
睨む狼の横を通り過ぎて隊長は呟く。
静まり返った商店通りに残された狼は宿屋へとリズムを取りながら跳ねるように歩きはじめる。
この夜も、暗殺者が現れることはなかった。




