第四十三話
「町を消さなくていいのか?」
アクセルは道案内をしているルフレイに質問する。
分厚い本を両手で強く握り締めたルフレイは首を横に振っていた。
「命令が変わったんだ、それに……」
「それに?」
眉を下げたルフレイ。
「その、なんでもない。これは僕の個人的なことだから」
「そうか。悪いな、余計なことを聞いて」
アクセルは平らな山道だというのに木を手すり代わりにして歩き、時々胸部を握りしめていた。
苦しい表情を見られないようにアクセルはこれ以上の会話をやめて進むことに集中する。
蒼い目を細めて口を紡ぐアクセル。
「ここから魔獣の森だよ、一度入れば二度と出れなくなるという噂が帝国中に広まっているぐらい深い森だから気を付けて」
今までの山や森なら険しくても道という道があった。
しかし、目の前にある霧が漂う薄気味悪い森には獣道もない。
「ああ気を付ける」
肩をすくめたアクセルはルフレイの情報に頷く。
「それじゃあ行くよ」
ルフレイの背中から離れないよう歩き、アクセルは深い魔獣の森に踏み込んだ。
足場は亀裂でできた段差や石が邪魔をして目的地に着くまで余計に時間がかかってしまう。
それでも濃霧の中をひたすら進んでいくアクセル。
少しずつだがルフレイの背中が遠のいていき、アクセルは呼び止めようと口を開いた。
声が出ない。
呼吸をするだけで精一杯になり、アクセルの足は亀裂で浮いた段差に引っ掛かってしまう。
よろけてしまったアクセルはその場に膝をつく。
俯いた顔は険しい表情を浮かべて衣服越しに胸部を握り締めた。
今の状況が最悪だということは理解しているのに、体は動くことができず方角も認知できない。
異常に喉が渇きはじめ、今度は喉を手で押さえる。
四つん這いになったアクセルはこの苦しい状態から逃れる為に大きな体を縮めて灰色の狼へと変身。
ようやく苦しみから解放されたかと思えば今度は方角が分からない。
ルフレイの姿を確認することができず、灰色の狼はだく足で前に進んでいく。
軽快に段差を乗り越えて難なく森を進む灰色の狼は、見えない前方に蒼く丸い目を集中させる。
「下等な獣のくせに力だけはある」
魔獣の森を駆けていると、低い男の声が狼の耳に届く。
両耳を立ててその場で動きを止めた灰色の狼。
「目的の女がいないのであれば……帝都にいくか、イリス」
聞き慣れた少女の名前に反応した灰色の狼は動き出す。
音がする方へひたすら駆けると鼻でニオイを探り、標的を捉えれば足で地を蹴った。
大きな口を開けてどんな物でも貫通させる鋭い牙を剥き出しにする。
「下等な獣が神聖な我々に近寄れると思うなよ!」
濃霧を振り払って現れたのは大きな握り拳。
灰色の狼は目線を上に向けられて空中で半回転し、背中から地面に落ちてしまった。
帝国兵が着ている鋼鉄鎧を身に着けた大きな肉体をもつ男の周囲には霧を寄せ付けないほど赤い光が放たれている。
「アクセル!」
男の後ろから少女の声が響く。
「そうか、こいつが……よし聞くがいい」
倒れている灰色の狼に向かって人差し指を突きだす男。
「我はリザードドラゴン。イリスを助けたいというのならアヤノを殺せ、だが我を殺せばイリスも死ぬと思え。イリスが死んでも我は死なぬがな、血の誓約はそういうことになっている」
灰色の狼はなんとか無事に起き上がり、伏せた状態でリザードドラゴンと名乗る男に唸る。
「ダメ、アクセルはそんなことしなくていいから! お願いだから関わらせないで!!」
「同族の殺し合い、負が満ちてさぞ心地良いだろう」
イリスの言葉に耳を貸さずに男は瞳孔を赤く光らせて、イリスを見下ろしていた。
大きな手が赤茶のボブヘアに触れ、なぞる様に頬へ移動して、親指で目元を撫でられている。
「我とこの下等な獣……どっちを選ぶ?」
「それは、その」
俯くイリスの体に触れている男に灰色の狼は強く唸った。
「人間というのは不思議な生き物だ。特に女の体は不思議だなアクセル」
男に共感を求められると、灰色の狼はもう一度立ち上がって駆け出す。
その間に身長が高くなり、体は人の形に変わっていき、アクセルは元の姿に戻っていく。
「いい加減にしろよ!!」
ナイフで男の右頬を切りつけると、少量の血液が飛び散る。
右の頬は直線に皮膚が切れて血液がそこから垂れていた。
「血の気が多いな……この体を殺しても我は死なぬ、一時的に借りている他人の体だ。アヤノの部下だった奴のな」
「てめぇ!」
殴りかかろうとしたが、男に腕を握られてしまい身動きができなくなる。
「くそが、アヤノは死なせないしイリスも死なせてたまるか!」
男は鼻で笑う。
爬虫類のような瞳孔でアクセルを睨むと、後ろへと突き飛ばした。
尻餅をついてしまったアクセルに、
「そのような体で我と戦えると思うな、しばらくはシンシアに甘えていろ。そうすれば治療方法も教えてくれるはず。もうすぐシンシアが現れるだろうイリスを探しにな」
そう呟いた男は、戸惑うイリスを抱きかかえて濃霧の中へと消えてしまった。
アクセルは追いかける力もなく、その場に仰向けになって倒れてしまう。
ほぼ同時にどこからか足音が聞こえてきた。
「アクセルさん?」
シンシアの声だと気付き、苦い笑みを浮かべる。
小袖と緋袴姿のシンシアは目を丸くすると、すぐに落ち着いて青いつり目を細めた。
「色々とお前には訊きたいけど、それよりさ」
アクセルは疲れているのか、声よりも息のほうを多く吐き出す。
「ちょっと甘えさせてくれ」
真顔でシンシアに訴えた。
「アクセルさん……」
しばらくの間、二人は視線を合わせる。
濃い霧に覆われている魔獣の森で二人きり、大して特別なムードにはならない。
「バカですの?」
はっきりと、シンシアは吐き捨てた。




