第三十一話
太陽が山から顔を覗かせた早朝、灰色の狼は目を覚ます。
目覚めた場所は深緑の木々に囲まれている。
中央には土に突き刺さった大きな岩があり、上には小柄な狼がお座りの姿勢で空へ顔を向けていた。
岩の周りにいる狼達の大半は雌。
『同胞の女が生きている確証があるのなら、帝都で探した方がいいと思うさ』
小柄な狼が人の言葉を話す。
灰色の狼は鋭い牙を隠して尖った耳だけを傾けた。
『それに、女隊長の部下だった奴らが町の周りにいる。見つかるのも時間の問題かもね』
蒼く丸い瞳をもつ灰色の狼は四脚で勇ましく立ち上がると、狼の群れから離れて小さな森を抜けていく。
人間や他の動物では追いつけない速度を保ち、草原地帯を駆ける灰色の狼は草むらに目掛けて地面を蹴る。
草と土を抉るほどの脚力で地上から離れると、牙を剥き出しに唸りながら視界の悪い草むらの中に入った。
灰色の狼が大きな口を開けて噛みついたのは硬い銀の剣。
「なぜわかった!?」
灰色の狼は鋼鉄の鎧を装備している帝国兵を睨む。
貫通できない物はない鋭い牙で銀の剣を容赦なく噛み砕いた。
半分になってしまった銀の剣で振り払われ、灰色の狼は草むらから外へ。
「まさかお前がフェンリルの呪いをもつ反逆者とはな、お前を帝都に連れて行けば俺達小隊は高い評価を受け、さらに隊長の仇も討てるわけだ」
草むらを掻き分けて出てきた帝国兵は三人。
灰色の狼は身を屈めて臨戦態勢に入る。
「隊長の苦しみを受けてみろ!」
剣を折られていない残りの二人は狼へ同時に振り翳す。
後ろへ跳ねるように下がった灰色の狼は地面に剣先が着地したのを狙って、飛びかかる。
一人の帝国兵の右肩へ牙を通した。
太い針でも突き刺されたかのような痛みに帝国兵は呻く。
「この野郎!」
後ろからもう一人の帝国兵が灰色の狼の背中を狙って剣で突いた。
灰色の狼は後ろ脚で背中にいる帝国兵を蹴り飛ばす。
兜越しでも十分な威力があり、帝国兵は背中から落ちて地面を何度か回る。
右肩から口を解放すれば、牙には人間の血が付着していた。
鎧に太い穴が開いてそこから鮮血が飛び出している。
四脚を地に着けて、二足で立ち上がった灰色の狼。
すると、次第に灰色の毛は内側へと消えてしまい、体は徐々に大きく伸びていく。
筋肉質で高身長の体をもつ青年アクセルの姿に変わった。
青みがかったボサボサの黒髪を掻いて眠たそうに蒼い目を細める。
「お前ら、アヤノはな」
アクセルが真実を告げようとするが、
「覚えていろ!」
帝国兵三人は悪人のような捨て台詞を残して逃げてしまった。
置いてけぼりにあったアクセルは肩をすくめてゆっくりと小さな森に戻っていく。
『お帰りさぁ、懲りないねェ』
小柄な狼は岩の上で伏せて、アクセルを迎える。
「あいつらはアヤノが処刑されたと思っている。しかも俺の話なんて聞いてくれないからいつも一方通行だ」
『まぁこの調子だといつまで経っても変わらんね。とりあえず女隊長の居場所を探しつつ、相手をするしかないだろう、練習相手だと思えばいいさぁ』
調子の良い小柄な狼を睨んだアクセル。
「はいはい、もうすぐ露天市場が始まるし商人に訊いてくる」
小さな森を抜けて門番がいない町の裏門から入った。
ボロボロの宿屋を通り越したアクセルは、忙しそうに市場の準備を行う商人達の横を進む。
途中で足を止めて、アクセルは早朝からアルコールを摂取している細い体をした商人を見つける。
木箱の上に横たわって、高価な装飾が施された衣服を身に着けていた。
「よぉまた会ったな」
「んぁ? ふご」
顔は真っ赤で目は垂れて、口を半開きにアクセルを見上げる商人。
酒の匂いが鼻をつく。
「女隊長の件で詳しいことが知りたいんだ、フェンリルのお腹って前に言っただろ? どういうことだ」
「あー、あー、フェンリルのお腹はぁ……組織の名前。フェンリルの事を心の底から崇拝している変わった狩人達が集まった組織だなぁ」
「なんでそこに女隊長が?」
怪訝な表情を浮かべるアクセル。
「俺もそこまで知らんよぉ、ふごぅ。山にいるゾフィーなら知っているだろぉ」
「ふーん、どうも」
酒瓶を持つ手で左右に振る商人に背を向け、商店通りを歩いていくと用心棒をしているお店が開いているのが見え、もう一度足を止める。
「イリス?」
そこには動きやすい服装の上に茶色のエプロンを身に着けている若い商人が木箱を両手に抱えていた。
「おはようアクセル、どうしたの?」
首を傾げるイリスと、目を丸くしたアクセル。
「いや……おはよう、なんでここに」
近寄ろうとしたアクセルだが、イリスは一歩下がってしまう。
「あ、その、いくら休んでても品の入れ替えとかしないとね。それに退屈だし」
困ったような笑みを浮かべるイリスは木箱を台に下ろして蓋を開けると、その中から雑貨品を取り出す。
「おい!」
調理用の刃物を手に取ったイリスに、アクセルは思わず声を出して指を掴んだ。
「え、何?」
戸惑うイリスをよそにアクセルは険しい表情で彼女の人差し指を睨む。
人差し指は縦一直線に切り傷が入り、深くまではいっていないが出血はしている。
「さすがに痛いだろ、普通に。気付かなかったのか?」
「ホントだ、あ! いたた。なんか気付くまで痛くないってことあるよね!」
イリスは指を引いて自身の手で覆い、睨むアクセルに笑みを見せて、
「裏に大将がいるから薬をもらってくる!」
逃げるように走っていった。
「まぁ、別にいいけどさ」
「何が別にいいんですの?」
独り言を聞かれてしまったアクセルは眉をしかめて横を見下ろす。
そこには帝都の巫女であるシンシアが小袖と緋袴姿でアクセルを見上げていた。
青いつり目に長く真っ直ぐに伸ばした黒髪と左手中指には赤い宝石が埋め込まれた指輪を填めている。
アクセルは首を横に振り、軽く息を吐く。
「フェンリルの腹」
「はい?」
聞き返されてしまい、アクセルが人相の悪い顔で睨むと、シンシアに冷たい目線を送られた。
「フェンリルの腹を知ってるか?」
「フェンリルを崇拝している狩人が集まってできた勘違い集団ですわね」
「そこにアヤノがいるって噂と、詳しいことはイリスの母親に訊けってさ」
簡単な説明にシンシアは眉を下げて口をへの字にする。
「あの方が? おかしいですわね、あの方は帝都の依頼でフェンリルの仲間を殺害していますもの」
「はぁ?」
「はぁ? じゃありませんわ!」
お店の前で言い合う二人とは別に裏で傷ついた人差し指を静かに見下ろすイリス。
息は荒く、胸がざわついているのかエプロンを握りしめている。
「なんで痛くないの? こんな傷、いくらなんでも気付くよね?」
顔を引き攣らせて自問してしまう。
「何をしたの? アタシに何を……」
イリスは壁に凭れてしゃがみ込み、右手の中指に填めた赤い光りを放つ指輪を呆然と眺めていた。




