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5. おそれるものなど、なにもないのだから

 

 アンヌ=マリーの愛する人は、昔も今も変わらない――。


 それはきっと、いつも彼女の側にいた人に違いない。

 子供の頃も、そして今現在も……。



「静かですね、少し妙だ。ちょっと様子を見てきます」


 ファビオがそう言って、一人、誰もいない通りへと駆け出して行く。

 残されたマリーは、不安げにその背中を見送った。



 国境にある小さな村に、三人は苦労の末ようやく辿り着いた。

 あれから、ファビオの態度は、以前よりも更に余所余所しいものへと変わり果てていた。

 まるで自らの立場を主張するかのような徹底振りに、マリーは悲しげに表情を曇らせるだけで何も言わない。いや、むしろ言えないと言ったほうが正しいのかもしれない。

 そんなこともあってか、この数日の間にマリーの顔には、厳しい行程の名残がくっきりとついてしまっている。

 セレナが初めて彼女を目にした時、マリーは輝くような美しさを隠しつつも、それを損なってはいなかった。

 だが、今のマリーはまるで別人のようだ。

 薔薇夫人だと言われても誰も気づきはしないだろう。彼女の夫も、彼女を狂ったように求めたアシル=クロードでさえ。

 おそらくこんなことを考えているセレナの方も、マリーに負けず劣らず凄い出で立ちであるのだろうが。妊娠していると分かった体も疲労が激しく、セレナは早く歩くのをやめ楽になりたかった。


 村の中は、昼間だというのに人通りがまるでなく、不気味なぐらい静かだ。いまだ革命の火の手は王都の中だけでくすぶったままなのか。


 セレナたち三人は、マリーが伯爵と落ち合う約束をした場所まで、なんとかやって来ることができた。

 村が一望できる近くの丘に登って、三人は上から様子を窺っていた。

 ファビオの話では、約束の場所には毎日ジュスタンが姿を見せる手筈だと言う。彼が姿を見せたら、とにかく一目散にそちらへ向かって走り出せばいい。誰が何と言ってきても、構わず国境を越えてしまえばいいのだ。

 そう、あちらの警備兵とは、伯爵とその支援者が既に話をつけている筈なのだから。

 だが、静か過ぎるこの風景がセレナたちの不安をどこまでも煽っている。 


「心配しないで、セレナ」


 マリーが力強い声で言い切った。


「怖いことは何もないわ、大丈夫よ」


 そう言うマリーの唇が僅かに震えていた。

 当たり前だ。彼女だって怖いに決まっている。それを気丈にも押し隠して、強気な振りをしているだけに過ぎないのである。


 何のために、そんな演技をして見せるのか?

 自分のため?

 自分は助かると暗示をかけるために?


 いや、違う。

 それはきっと……。


「マリー様!」


 その時、ファビオの悲痛な叫び声が聞こえてきた。


「お逃げください、罠だ!」

 

 セレナとマリーが声のした方を向くと、ファビオが大勢の人間を凪払いながら懸命にこちらへ向かってくる姿が見えた。


「ジュスタンは奴らに取り押さえられた。伯爵は……、伯爵はマリー様を革命派に売ったんだ」


 ファビオは迫り来る追っ手から逃れるようにして声を絞り出す。


「はや……く、早くお逃げください、マリー様。セレナ、マリー様をすぐにお連れしろ!」


 ファビオの姿がたくさんの男たちの中に埋もれて見えなくなる。

 砂埃の下で彼がどんな目に遭っているのか、考えるだけでセレナは身が竦んだ。

 いや、彼だけじゃない。今や、あの姿は自分とマリーの身にもじきに起こる現実なのだ。


「マ、マリーさ……」


 セレナはパニックになりながらマリーを振り返った。

 マリーの全身は凍りついたように動いていない。先ほど見せた勇ましいほどの去勢すら、影も形もなくなっている。


「い……や」


 彼女は額に手を当てふるふると頭を振りながら、男たちの方へと近づいて行こうとした。


「いや、いやよ、ファビオ……。いやだったら、いやよ」


 夢遊病者のようなその背中に、生きる気力など欠片もない。セレナは渾身の力をこめて大声を上げた。


「何してんのよ! そっちじゃないわよ、こっちだったら!」


 セレナはどうかすると止まりそうになる足を拳で叩き、震えて崩れ落ちそうになるマリーを抱え上げると、歯を食いしばり逆方向へと走り出す。


「逃げるのよ! ファビオが、あなたの大切なファビオが逃げろと言ったでしょう?」


「セレ……ナ?」


 このままこの場にいたら自分たちもファビオの二の舞だ。彼が必死になって守り通そうとしたものが粉々に壊されてしまう。


「ファビオの気持ちを無にするの? 彼が命をかけて守ってくれたものを投げ出すと言うの?」 


 セレナはわざと声を荒げた。涙で周囲の景色が霞んでいく。


「私は諦めない。あなたが守ってくれると言ってくれた未来を、私は絶対に諦めないからっ!」


「セレナ……」


 マリーは引っ張られるだけだった腕に力を込めて、逆にセレナを引き寄せる。彼女のか細い体がセレナを追い越し、丘を下り始めた。


「マリーさん、そっちは村よ」


 セレナが焦って叫ぶと、マリーはこぼれ落ちそうな涙を湛えて振り返った。


「いいのよ、こちらで。ありがとうセレナ、思い出させてくれて」


「何がいいの? 意味が分かんないじゃない」


 ファビオを取り囲んでいた男たちがマリーとセレナに向かって、叫び声を上げながら追いかけてくる。

 どの顔も目を血走らせ、恐ろしい形相をしていた。女だとて、彼らは容赦をしないだろう。捕まったら、きっと無事ではいられない筈だ。


「早く、早くここから逃げなきゃ。追いつかれちゃうわよ」


 セレナは慌ててマリーの腕をひっつかみ、再び彼らから逃げようとするが、足がからまるばかりで進みはしなかった。それどころかスカートの裾を踏みつけて、何度もマリーともども転びそうになったほどだ。

 もはやセレナにはどうすることもできなかった。いまや足は借り物でもあるかのように、彼女の命令を無視している。

 だが、それも仕方がないではないか。

 しょせんセレナは十七の甘ったれた現代っ子で、こんな命のやり取りをするような危機的体験など、今までしたこともなかったのだから。


 もう、駄目だ。自分はここで死んでしまうのか……?

 ジュスタンと、再び会うこともなく……。


「セレナ、あなたは私の知るセレナとは違う人ね」


「えっ?」


 聞こえてきた声に、セレナは一瞬我を忘れた。周りを取り囲む恐ろしい存在も、消えてしまったかのように気にならなくなる。

 マリーは口ずさむように穏やかな声で話しかけてきた。


「あなたは、私の大事なセレナとは見かけは同じでも違う人だわ。私には分かる」


「マリーさん……?」


「だって、私のセレナは私をそんなふうに呼ばないもの。分かるわよ」


 マリーは涙の雫を頬に一筋こぼして、微笑んだ。


「だけどあなたも、私のセレナと同じ魂を持っていると感じるの。もしかすると、あなたとセレナは違う時代に生きる同じ人なのかもしれないわね」


「アンヌ=マリー! ようやく、見つけたぞ!」


 二人がぼやぼやとしている間に、あっという間に男たちが追いついてきた。

 逃げ場はどこにもない。男たちはじりじりと間合いをつめてくる。


「あ……、いやだ……」


 男たちは体に血をべったりとつけ、はあはあと荒い息を吐き出しながら、こちらをぎらぎらとした眼差しで見据えていた。


「まさか、あの血はファビオの……? 嘘……」


 震えが止まらないセレナの耳に、マリーの小さな囁きが再び届けられる。


「セレナ、今から何があっても、私があなたを大事に思っていることを忘れないで欲しいの」


「どういうこと……?」


 マリーはセレナの背後に回り男たちから身を隠すと、スカートの裾から布切れに包まれたナイフを取り出した。


「護身用にと思って持って来ていたの。よかったわ、役に立って」


「い、意味が分から……ないんだけど」


 マリーはセレナの肩に手を置き、その手にぎゅっと力を込めた。


「いいのよ、セレナ。あなたは分からなくてもいいの。それより、ちょっと驚かせてしまうけど、少しの間我慢していてね」


「マリーさん?」


「ねえ、セレナ。あなたの大事な人とあなたは、必ずもう一度出会えるわ。そして結ばれる。私には分かるの。だからお願い、私の分まで幸せになってね。これは、私からの遺言だと思ってちょうだい。忘れないでね、絶対に」


 遺言?

 胸騒ぎのする嫌な言葉に、マリーの覚悟をセレナは悟った。


「マリーさん?」


 思わず振り返ろうとしたセレナだったが、そうはさせじと男が一歩足を踏み出してくる。


「おい、何をコソコソ話してやがる。いい加減に観念しておとなしく捕まるんだ」


 荒々しい怒声にも、マリーは負けないほどの大声で応戦した。


「捕まるですって、冗談じゃないわ。私、こんなところで終わる気なんて更々ないの。いいからそこをおどきなさい。手荒な真似をするなら、この娘を殺した罪をあなたたちになすりつけてやるけれど、それでもいいの?」


 マリーはセレナの首もとにナイフを当て、男たちの前へ少しずつ近寄って行った。


「マ、マリーさん?」


 突然の奇行にセレナは驚いて身を捩るが、首のすぐ側にあるナイフが気になり大きくは動けない。

 彼女の暴挙には、男たちもさすがに呆れ果てて足を止めた。


「おいおい、そいつはあんたの召使いだろ? 最後の味方に、何してんだ、お前?」


「やめてちょうだい。こんな娘、召使いでもなんでもないわ。私のために役に立つのなら、この子の方でも本望でしょうよ」


 高らかに笑うマリーの手が、ぶるぶると小刻みに震えていた。

 その細くて折れそうなほどに華奢な手は、セレナの肩に置かれていたから、セレナにだけはマリーの本心が分かった。


「こいつ、ふてえ女だ。その娘だって人間だぞ」


「全く、とんでもない女だな、アンヌ=マリー」


 しかし、男たちにマリーの本質が分かるわけがない。彼らは皆、マリーという人間を、憎悪と悪意で凝り固まった目でしか見てないからだ。

 マリーはその自分の悪いイメージを、これでもかというほどに利用して、彼らの感情を逆なでしている。


「何を言うの? 私とこの子は同じではないわよ。汚らわしいわね、それ以上近寄らないで」


「なんだと、黙れ、この売女!」


 それからの場面は、スローモーションのようにゆっくりとセレナの目に映った。

 怒りに目をぎらつかせた男たちがマリーに飛びかかり、彼女は呆気なく男たちに捕まってしまった。

 マリーの手からこぼれ落ちたナイフは男の一人に拾われ、男はそれでマリーの髪の毛を乱暴に切り裂いた。

 国王をはじめ、宮廷中の貴族たちを虜にした、マリーの輝くように美しかった筈の金髪は、彼女の魅力など露ほども気づけない武骨な男たちによって、むちゃくちゃに蹴散らされ踏みにじられていった。


 酷い暴行を受けているマリーからセレナは無理やり引き離され、男たちに羽交い締めにされてしまう。


「おい、落ち着け! 俺たちはお前を助けてやるんだぞ」


「いや、いや、離して!」


 セレナがマリーの名前を懸命に叫び続けて何度も自分を捕まえろと訴えても、誰も彼女の話をまともに聞こうとはしなかった。

 声をからして泣き叫ぶ彼女の目に、マリーの姿が段々と見えなくなる。


 いやよ、いや、こんなことって。

 こんな別れ方をしなきゃならないなんて。


 どうして?


 どうして、あえて悪女を演じてみせたの。


 こんなの、いや。こんな結末を見せつけられるなんて……。


 *** ***


「マリーさん、マリーさん! 離して、マリーさんが」


「セレナ、しっかりするんだ」


「いや、いやよ、こんな――」


「セレナ!」


「えっ?」


 懐かしい声が聞こえた気がして、セレナは重いまぶたを開けて、自分を覗き込む人物に視線を合わせた。


「セレナ、よかった。気がついたのか?」


 セレナの前には、憔悴しきった顔をした男がいた。落ち窪み隈ができた目元、伸びっぱなしの無精ひげにカサカサに荒れた唇。いったいいつから顔を洗ってないのだろう。

 セレナは一瞬誰だか分からなかった。でも、これは、この人は。


「ジュス……にぃ?」


「ああ、俺だよ」


 ジュスタンは頬を緩めて微笑む。セレナの叔父であり、彼女が通う高校の教師でもある、大好きなたった一人の男性、ジュスタン・ディエ。

 

「私……?」


 セレナは呆然として視線を泳がせた。

 視界に飛び込んでくるのは、ジュスタンと暮らすアパルトマンの自室だ。

 柔らかいベッドの中から見えるのは、暖かな陽光に包まれた見慣れた部屋だった。


「か、帰って……来た……の?」


 血の匂いも、汗や埃の匂いも当然しない。恐ろしい顔をした男たちも、儚く散っていった美しい人も、その部屋の中には誰もいなかった。


「ど……どうし……?」


「お前は一昨日からずっと眠ったままだったんだ。医者にも見せたが、どこにも異常はないと言われてな。明日になっても目覚めなかったら、大学病院に入院させる予定だった」


「私……、私……」


 うまく言葉を紡げないセレナを、ジュスタンは力強く抱きしめる。

 彼の抑えた低い声が、セレナの耳を優しく撫でていった。


「よかったよ――、無事に戻って来てくれて」


「ジュス……にい」

 

 セレナは広い背中に夢中でしがみついた。ジュスタンの着ているシャツが、彼女の涙で見る見るうちに濡れていく。


「あのね、私ね……、遠いところに行っていたの」


 他に言うべき言葉が見つからない。遠くて遠くて、遙か彼方に過ぎ去った二度と行くことはできない場所のことなんて。


「そこでね、私……、真実を知ったの。とても悲しくて、とても優しい真実を」


「そ……うか……」


 ジュスタンの顔が触れるセレナの髪も、いつの間にか濡れていた。温かい背中は嗚咽を堪えるかのように震えている。


「ジュスにい」


「……ん?」


「どうして泣いてるの?」


「それは、お前が帰ってきてくれたから……さ」


 ジュスタンはセレナから離れると、乱暴に目の淵を擦った。


「だけど何でかな? お前の話を聞いてると、なんだか無性に泣けてくるんだ」


 *** ***


 週末の昼下がり、セレナはジュスタンと共に郊外にある共同墓地にいた。

 周囲を常緑樹に囲まれた公園の中にある墓地は、付近を散策する家族連れなどが集う人々の憩いの場でもある。

 その一角にひっそりと佇む墓石の前で、セレナは腰を下ろし、頭を下げ祈りを捧げていた。


 墓石の周りには、世界中の信奉者から供えられた贈り物が、絶えることなく置かれてある。今では、この墓自体が有名な観光スポットになっているわけだ。

 だが、下で眠る人物は、後世で自らがこのように持て囃されることになっていようとは、思いもしなかったに違いない。彼女は現世での騒ぎなど知る由もなく、静かに土の下で眠り続けているのだから。


「しかし、驚いたな。セレナがアンヌ=マリーの墓に花を捧げたいなんて言うからさ。お前彼女の伝記を読んで、情でも移ってしまったのか?」


 ジュスタンはいつまでも体を起こそうとしないセレナに、不思議そうに声をかけた。

 セレナはようやく顔を上げ、ジュスタンを振り返った。


「ジュスにぃは何も感じないの?」


「何もって?」


 セレナは首を振って墓石に向き直る。


「私はこんなに近くに彼女が埋葬されているのに、今まで気にもしてなかったことを詫びてたの」


 それから再び顔を上げて、首を傾げるジュスタンを見つめた。


「だって、私は彼女に命と引き換えに救われたのに、の私ったらそのことを、すっかり忘れていたんだから」


「いったい、何の話だ?」


 ジュスタンはキョトンと目を丸くしていた。セレナの話を理解することができないらしい。

 仕方ないだろう。あの時代に行って来たのは、なにしろ自分、一人だけだったのだから。


 セレナはフッと息を吐いて、何も分かってない男に小さく微笑みかけた。


「ねぇ、ジュスにい。前言ってたよね? アンヌ=マリーは亡命の途中で民衆に見つかり、一緒に行動していた侍女を人質にして逃げ延びようとしたって」


 急に話が変わり、ジュスタンは戸惑いを深める。


「あ、ああ……?」


「あれね、大きな間違いだったの。本当はその反対だった。マリーは自分を犠牲にして、その侍女を守ろうとしていたのよ」


「セレナ?」


「もしもマリーの腹心だと民衆に思われていたら、きっとその侍女だって無事には済まなかった筈なの。彼女のお腹の中には、新しい命が芽生えていたというのにね」

 

 だから、マリーは全てをかけて守ろうとした。そのためだったら、自分はどうなってもよかったのだろう。


「セレナ、お前、いったいどうしたんだ?」


「ねえ、ジュスにい。どうして私が高校を卒業したら、お役ごめんなの? ……教えてくれる?」


「なん……、聞いていたのか、お前?」


 慌て出したジュスタンをよそ目に、セレナは彼に詰め寄った。


「最近、ずっと私に対して冷たかったよね。もしかして、それも関係あったの?」


 声を震わすセレナから、ジュスタンは苦しげに目を逸らす。


「気づいてたのか……」


「気づくに決まってるでしょ。私がどんなに悲しかったか……分かる?」


 涙を必死で我慢しながら彼を非難するセレナの前で、ジュスタンは長い間沈黙していたが、やがて消え入りそうな呟きを吐き出した。


「俺はこれ以上……、お前の側にいられなかったん……だ」


 彼の告白にセレナは動転する。


「ど、どうして?」


 ジュスタンは辛そうに眉をしかめて目を伏せた。


「どうしてかだと? 俺は、本当は……、お前の叔父なんかじゃなかったからさ」


 セレナの息は今にも止まりそうだった。彼女は飛び跳ねんばかりに動き出した心臓を押さえ、立ち尽くす男を見上げていた。


「俺は孤児だったんだ。姉さん……お前の母さんとは、彼女が学生の頃、俺がいた養護施設にボランティアとして来てくれて出会ったんだ」


 ジュスタンは背中を丸めてポツリポツリと語り始めた。セレナは初めて見る弱弱しい男の姿に言葉をなくす。


「俺はその頃、まだ十にも満たないガキだったけど荒れていてね。姉さんはそんな俺を心底心配してくれて、大学を卒業したあとも何かと親身になってくれた。遂には自分の両親にも俺を紹介してくれ、一家で援助も始めてくれたんだ。赤の他人の一孤児にね」


「ジュスにぃ……」


「お前の祖父や祖母も俺を息子のように受け入れてくれたよ。養子にこそならなかったけれど、俺が普通に学業を習得し、教師になんてまともな職に就けたのも、彼らのおかげだったと深く感謝している」


 ジュスタンは大きく息を吐き出し、目元を隠すように髪に手をやった。彼の撫で上げられた前髪が、吹いてきた風に揺れている。


「俺が大学に入る前かな? お前の祖父母が揃って旅行中に事故にあって亡くなった。姉さんはその頃とっくに結婚してお前という子供もいたけど、俺の進学に惜しみない助力を続けてくれたよ」


 髪からくしゃりと手を離して、ジュスタンはセレナを正面から見つめた。


「だから、今度は俺の番だと思ったんだ。姉さんの大事な忘れ形見を立派に育てるのが、俺の役目だと――」


「ジュスにぃはもしかしたら……」


 セレナは思わず問いかけそうになって口を噤む。


 ――もしかしたら、ママのことが好きだったの?


 駄目だ、怖くて聞けそうにない。

 俯いたセレナに、ジュスタンの小さな呟きが聞こえてきた。


「だけどやっぱりうまくいかなかった。俺には荷が重すぎたんだよ。子供だったお前が、大人へと成長していく姿を、まざまざと見せつけられてしまうのは……」


「えっ?」


 今のは……?


「何でもない。そろそろ行くか?」


 ジュスタンはそれ以上、何も言わないつもりらしい。彼は子供に対するように、セレナの頭をポンポンと軽く二三度叩いた。


「それじゃ答えになってないよ!」


 セレナは溢れ出てきた涙をごしごしと力強く擦って、手のひらで拭き取る。

 彼が言わないのなら自分が言うしかないのだ。私はあなたを諦める気はないのだと。


「お役ごめんなんて、冗談じゃないわ」


 彼女はもう一度、アンヌ=マリーの墓標を振り向いた。

 マリーの墓碑は冷たい北風に吹かれても、凛としてそこにあった。

 まるで生前の彼女のように、美しく佇む姿を周囲に見せつけていた。


「私、試験のこと、真面目に考えて取り組む。これからはいい加減に過ごさないと、このお墓の前で誓う!」


「……そうか」


「だから、私が高校を卒業したらその時は、私の気持ちを聞いてくれる? 逃げないで聞いてほしいの、あなたに」


 セレナの告白を聞いたジュスタンが、目を見開いて息を呑む。彼女は泣いてぐしゃぐしゃになった顔で、彼に笑いかけた。



 ねえ、セレナ。

 あなたの大事な人とあなたは、必ずもう一度出会えるわ。そして結ばれる。

 私には分かるの。


 だからお願い、私の分まで幸せになってね――。



 その時、マリーが最後に残した『遺言』が、風に乗って届けられたような気がした。




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