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レイン  作者: 天神大河
#02 淘汰の足音―Rejection
10/15

2052年10月8日 火曜日

午前8時18分


濱30エリアステーション 3番ホーム



『三番ホームに、電車が参ります。危険ですから、黄色い線から離れて――』

 窓越しに小さな声で伝わってくるアナウンスを耳に挟みながら、神楽は数メートルほど先にある濱30エリアステーションへと顔を移す。普段から通学のために利用しているこの駅は、湊31エリアステーションと違い高層ビルの中に位置している。三階のホームから階段を降り、二階の改札を抜けてすぐ先にある籠目状の歩道橋は駐車場や歩行者専用道路に通じており、また駅のある高層ビル自体も、世界的に人気のある店が数多く立ち並ぶ大型ショッピングモールとなっていた。

 このように、人々の需要を丁寧に汲み取った高層ビルの中にある濱30エリアステーションのホームには大勢の人が集まり、それぞれやって来る電車を待っていたが、その中にひときわ異彩を放つ男たちの一団があった。黒一色に染まったスーツやスラックスを一糸の乱れもなく纏う彼らは、端から見れば映画に出てくるマフィアのようにも、秘密組織の一員にも見える。きっちりと横一列に並ぶ男たちの周りには空虚な隙間ができあがり、そこには誰ひとりとして近づく者はいなかった。

 電車が甲高い悲鳴を上げながら静止する。身体の芯まで震えそうになる不快な声を聞き、神楽は強く耳を塞ぎたい気持ちになった。そんな彼の両手は、イヤホンの細いコードによって後ろ手にきつく縛られており、加えて身体も数人の男たちによって濡れた床に押しつけられ、思うように身動きが取れないでいた。

 神楽から向かって左側にいるクラスメイトの少女――悠紀へと視線を移すと、彼女もまた、神楽のそれと同じように両手首を後ろ手に縛られ、床の上にうつ伏せにされていた。さらに、悠紀の黒髪は大柄の男によって根元から乱暴に掴まれ、整った顔を何度も床に押し付けられる。相当強い力で押さえつけられているのか、時折悠紀の唇から小さな呻き声が洩れた。

 どうしてこうなってしまったのだろう。神楽は、内心でぽつりと呟きながら、親友――瀬崎の顔を見上げる。

「どういうつもりだ、瀬崎。答えろよ」

 やや荒っぽく口走ったこの台詞に、当の本人は無言のまま応じず、目線だけをちらと動かした。それに気づいた神楽も、瀬崎の視線の先へと顔を向ける。二人が顔を向けた先では、電車と外のホームとを繋ぐ自動ドアが、低い音を響かせながら左右にゆっくりと開いていた。普段は特に気にすることのなかったこの光景が、今の神楽にはどうにも不気味に感じられた。

 ドアが完全に開ききると、乗客たちは神楽と悠紀の肩や腕を乱暴に掴み、強引に立ち上がらせる。そうして、彼らは不安定な体勢となっている二人の身体を押さえつけながら、速いペースで歩き出した。強い力で引っ張られるまま、ずかずかと先へ進む彼らの歩調に、神楽の足がよろめく。前のめりに倒れそうになる手前でどうにか体勢を整え、少しペースを上げて再び歩を進めた。

 そのまま悠紀ともども電車の中から出されると、コンクリートの床に二人同時に叩きつけられた。神楽が右肩と腕に鈍い痛みを感じながら周囲を見上げると、つい今まで自分たちを押さえつけていた乗客たちが、何事もなかったかのように表情豊かに談笑していた。学生たちはグループ間の話題で盛り上がったり、スーツを着た大人たちはC-Iを手に商談の打ち合わせをしたり、呑気なアクビをしたりと、先ほどまでの不気味な統一感は瞬時に霧散していた。

 どういうことだ。

 神楽がひとり状況を飲み込めないでいると、視界の端に瀬崎の顔が映った。彼もまた、いつものようにC-Iの画面の前でしかめっ面を浮かべながらソーシャルゲームに勤しんでいた。

「瀬崎! おい、待てよ、瀬崎!」

 神楽は瀬崎を呼び止めようと、打ち付けた身体の痛みを堪えて大声を発する。しかし、彼はC-Iの画面に目を向けたまま、一人階段を降りていった。

 さらに、瀬崎だけでなく、誰もがみんな、ぼくたちには目もくれず各々の日常を謳歌していた。そこでは何事も、起きていないかのように――そのことに気づいた神楽は、心臓の動悸が高鳴る感覚と、全身の肌が震えるような恐怖を同時に覚えていた。

(いや)しい野犬に成り下がった気分はいかがですかな、お二人さん?」

 快活な口調の声が、ホームの喧騒の中ではっきりと響く。神楽が声のした方を向き直ると、先ほど目にした黒いスーツ姿の男たちが、烏の群れのように正確なV字の隊列を形成していた。その中で、先頭にいる大きな黒縁の眼鏡をかけた男が、二人の前に歩み寄る。目に見えない男の気迫に、神楽は少なからず悪寒を感じた。

「櫛夜那悠紀に……依砂鷺神楽だな」

 眼鏡の男は、交互に二人の顔を見ると、淡々とした口調でさらに続ける。

「チェックメイトだ。まさか高校生だったとはな。何を考えてのことかは知らないが、大人しく来るん――」

「ナメんなよ、オッサン」

 悠紀が顔を少し紅潮させながら、男へと声を張り上げる。神楽は、隣で自分と同じく後ろ手に拘束されている悠紀へと顔を向けた。そんな彼の表情には、清楚さも思わせる外見をしたクラスメイトの少女が、それとはあまりに似つかわしくない荒々しい口調であることへの驚きが色濃く表れていた。本当の彼女は、こんな人なのか――電車内での悠紀の言動を思い出しながら、神楽は一瞬考えを過らせる。

「『大人しく来い』だと? 冗談じゃない。あからさまなネズミ捕りにかかるわけねえだろ、馬鹿が」

 そう吐き捨てて、悠紀は男を見上げる。対する男は、彼女に軽く一瞥を向けると、ぽつりと呟いた。

「……この期に及んで、減らず口のよく回る女だ」

 男は、続いて悠紀の隣にいる少年の顔を見つめた。神楽は、眼鏡の男が自分を凝視していることに気づき、思わず息を呑む。

「対して君は、まるで状況が理解できていないようだ。まあ元はただの一般人だから無理もないが」

 男は早口でぶつぶつと口走りながら、眼鏡のブリッジを眉間まで引き上げる。そのまま、男は真顔で神楽に向き直った。

「分かるように話そう。私は警視庁の小田原(おだわら)という者です。この度私どもが出向いたのは、君たちが刑法第七十七条、第七十八条、第七十九条に該当している疑いがあるからです。そこで、少し警視庁の方でお話を伺いたいんですが……」

「ちょっと待って下さい」

 神楽は男――小田原の言葉を遮る。刑法? この男は何を言っているんだ?

「ぼくはそんな、警察のお世話になるようなことはしていません。第一、その刑法の内容って何なんですか。証拠もないのに……」

 神楽は早口で、小田原へとまくし立てる。対して彼はふうっと溜息を口から吐くと、鋭い目線を少年へと向けながら、先ほどの改まった口調を一変させた。

「いいか、お前たちには、国家内乱の実行、及びその幇助(ほうじょ)、予備、陰謀――つまりこの日本を潰そうとした疑いがかかっている。証拠がどうたらは、取調室でじっくり聞いてやる」

 神楽は、その言葉を素直に受け入れられなかった。そんな馬鹿な。ぼくが国家の転覆に関わっているだって? いや、そんなことをした覚えはまったくないし、考えたことすらない。何かの間違いじゃないのか。口の中がからからに乾く感覚を感じながら、神楽は小田原に向けて言葉を振り絞る。

「違う……ぼくは、そんなことしていない! 日本を潰そうだなんて、考えたことすらないのに。あと、幇助って言ってたけど、ぼくは、そんな奴を助けた覚えも――」

「いいから来い」

 一言だけそう言って、小田原は自身の右腕を、自分の肩幅と同じぐらいの位置にまで水平に伸ばした。すると、彼の後方に控えていた数人の黒スーツの男たちが、それが合図だったかのように、神楽と悠紀を正五角形状に取り囲む。

 不安な気持ちに整理をつけられないまま、神楽は左右に展開する男たち一人ひとりの顔を交互に見渡す。ぼくは何もしていない。それだけは確かだ。朝いつもの電車でいつも通りに通学をしていて、そしたら突然瀬崎たちの様子がおかしくなって、それで――どうしてぼくがこんな目に。両手は相変わらず封じられ、周りを警察の男たちに取り囲まれ。まるで、犯罪者のような扱いじゃないか。こんなの、あんまりだろ。

 神楽は自身を追い詰めていく今の状況に耐えきれず、思わず目を伏せた。彼の視界に、雨を吸収したことで色彩が鈍くなった灰色のアスファルトが霞んで映る。そして、ぽつりと呟く。

「ぼくは――」

「待てよ」

 少しだけ低い悠紀の声が、人通りが少しだけ減ってきたホームに鮮明に響く。神楽と小田原が、同時に彼女に向き直る。そんな悠紀の両目は、真っ直ぐ小田原だけを見つめていた。

「今『警察』って、そう言ったな、オッサン?」

 ああ、それがどうした。小田原は無表情のまま、冷淡に返す。

「じゃあ、当然逮捕状は持ってるんだよな?」

 小田原の眉がぴくりと動いた。悠紀は、ここが好機とばかりに早口でまくし立てる。

「現行犯でもない限り、おれたちを逮捕することはまずできない。細かい理屈は捨て置くが、もし一つの国を転覆させるなら、それ相応の準備がかかるのは当然言われなくても分かるよな? だから、仮に今この場でおれたちを逮捕したとしても、手元に満足な証拠は何もないから、即不起訴で終了だぜ。そうだろ? 逮捕状どころか、警察手帳すら持ってない、政府お抱えの軍隊の皆さん」

 そこまで言った悠紀の口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。彼女の発言を耳にした神楽は、黒スーツの男たちの顔を一人ひとり見渡す。そんな神楽に対し、男たちもまた、目線を一人、また一人と逸らし始める。

「うろたえるな!」

 小田原が強い口調で一喝する。その瞬間、男たちの顔中に深い(しわ)が張り、後ろ手に縛られた二人の高校生を鋭い目つきで見下ろした。悠紀は微かに肩を震わせながら続ける。

「どうせ秘密主義なあんたらのことだ。ハナからおれたちを殺すつもりだったんだろ。小賢しい真似しやがって、ご苦労なことだ」

 刹那、神楽は自らの心臓に、氷よりも冷たいものに触れた感覚を覚えた。やがて、そこから生まれた不気味な寒波が喉、口元に伝わり、カタカタと歯から小さな音が洩れる。――コロス? コロサレル? 何で、どうして。神楽の身体全体に、恐怖の二文字が重々しくのし掛かる。そんな彼の耳の中で、クラスメイトの少女の声が小さく木霊する。

「おれは、そんな奴らにやられるつもりは毛頭ねえ。どんな手を使ってでも、生き抜いてやるさ。必ず」

 そう言って、悠紀は不敵な笑みを浮かべたまま、左膝を地面につけ、左足の爪先と右足の裏で全体重を支えるようにしてその場に身体を起こした。そのまま、黒いコードの束を持った右手を小田原に向けて伸ばす。彼女の白く細長い指の隙間から、ミミズのように細いコードが一本、また一本と零れ落ち、替わりに悠紀の手より一回りほど小さなナイフが、灰白色の光を鈍く反射させながらその姿を現した。

「ナメやがって、くそ!」

 獅子舞のように顔を紅潮させた小田原は、右腕を真っ直ぐ空に伸ばした。それと同時に、黒スーツの男は、懐から素早く何かを取り出すと、両腕を真っ直ぐに――悠紀に向けて突き出す。神楽が彼らの手元を凝視すると、そこには、黒一色に染め上げられたピストルが強く握られていた。一筋の光も反射せず、闇だけを湛えながら、小さな銃口を華奢な体躯の少女へと向ける。その矛先にいる悠紀は、静かに立ち上がると、先刻の電車の時と同じ――いや、それ以上に強い敵意を剥き出しにした目をスーツの男たちに向けた。小田原の低く野太い声が駅構内に響く。

「撃て!」

 それを合図に、男たちは同時に引き金を引いた。乾いた音が辺りに轟く。神楽も小さく全身を震わせ、(まぶた)を強く閉じた。数拍おいて再び両目を開くと、そこから広がる光景に神楽は思わず息を呑んだ。

「な……っ」

 小田原の顔からみるみる血の気が引いていく。そんな彼の瞳は、半身を屈めたまま黒スーツの男の一人に突進する少女の姿に釘付けになっていた。

 悠紀は、男が怯んだ一瞬の隙を突き、男の右頬骨下部から眉間にかけて、手に持ったナイフで素早く薙ぎ払った。男は甲高い悲鳴を短く上げると、血で滲んだ顔をすぐに両手で覆い隠した。そのまま、悠紀は男の手からピストルをやや強引に奪い取る。

 既に撃鉄の起こされたそれをナイフの柄と共に両手で強く握りしめると、悠紀は銃口を黒スーツの男一人ひとりに向け、躊躇いなく引き金を引いていく。一発毎に銃声が響くたびに、男たちは次々に顔や手首を撃たれ、やがて小田原を除いた黒スーツの五人全員がその場でしゃがみ込むか、ピストルを操れない状態となった。

「何をやってる! さっさと体勢を整えろ!」

 小田原が鋭い剣幕で男たちに迫る。そんな彼をよそに、悠紀は神楽の元に走り寄る。若干警戒する素振りを見せる神楽の様子にも構わず、悠紀は目の前の少年の手首を掴み、ナイフで器用にコードを切っていく。両手を地につけながら半身を起こす神楽の耳に顔を近づけた悠紀は、いいか、と小声で呟く。

「左斜め後ろに階段があるだろ。おれが合図したら、あそこまで走って二階まで降りろ。ダッシュで」

 悠紀の言葉を受け、神楽は彼女の差し示した方角に目を向ける。その先にある北階段には、二階の改札に直接通じている階段とエスカレーターがあり、そこでは多くの人が通勤ラッシュの落ち着いてきた今なお絶え間なく行き交い、階段とエスカレーターのわずかな隙間を(ことごと)く埋め尽くしていた。しかし、それだけの群衆の中に、数分前からピストルの銃声が鳴り続けていた現場に目を向ける者は誰もいない。

「けど、そんなこと、やったところで――」

 神楽が悠紀に(なら)い小声で返していると、駅構内に短い電子音が鳴り響き、続いて澄んだ女性の声でアナウンスが始まった。

『四番ホームに、(じゅん)地区行きの特急電車が通過します。危険ですので、黄色い線から離れて――』

 アナウンスを耳にした悠紀は、微かに笑みを見せた。そして、その表情のまま改めて神楽に向き直る。

「いいから、言う通りにするんだ。おれを信じろ」

 いや、そう言われても。神楽が返すより早く、悠紀は神楽の肩越しにピストルを構える。耳を塞いでろ。そう口にするやいなや、パン、と乾いた音が周囲に響いた。すると、駅の天井にあったスプリンクラーから、ぱあっと大量の水飛沫が噴き出し、駅構内にいた人々に水が容赦なく降り注ぐ。

 きゃあっ。何だ。まさか、火事か。ホームにいた人たちの間で、たちどころにどよめきが起こった。髪や服、鞄を俄かに濡らしながら、人々は東西南北にある階段へと足を向けていく。――異常な日常が、身近にありふれたトラブルに変わる。銃声により一時的に麻痺した両耳に代わり、敏感に感覚を尖らせた神楽の目に映るこの光景は、不安を煽る反面どこか滑稽にも見えた。

「今だ、走れ!」

 悠紀が神楽の手を取る。彼女の腕に釣られる形で立ち上がった神楽は、初め足をよろめかせながらも、すぐに普段と変わらない足取りで走り出す。少し先を進む悠紀を追う形で、群衆の集まる北階段に向かう。

「逃がすか!」

 小田原は天井から降り続く水に堪らず目を細めながらも、逃げる神楽たちに向けて、自身の携帯するピストルを素早く構える。そのまま、躊躇いなしに引き金を引いた。一瞬短い悲鳴を上げて、悠紀は左手を右肩に伸ばす。

「櫛夜那さん!」

 眼前でぐらりと体勢を崩しかけながらも、両足に力を入れてどうにか踏ん張る少女を見て、神楽は思わず駆け寄ろうとする。対する悠紀は、黒っぽい染みで滲んだ藍色のブレザーを左手で強く押さえながら、後方の神楽に目線を向ける。鈍い痛みに眉間を歪ませながら、強い口調で神楽を牽制する。

「おれに構うな、このまま行くぞ!」

 言い終えると、悠紀は右肩を押さえながら小走りに進み出した。神楽も小さく息を呑み、再び彼女の背を追いかける。

「くそがぁ!」

 吐き捨てるようにそう言うと、小田原もまた、北階段に集まる群衆の中に消えた二人の姿を追いかけた。その際、傷ついた部下たちに目線を向けることはしなかった。


 濱30エリアステーションの北階段では、群衆が二階から三階まで、幅いっぱいに詰められていた。神楽と悠紀は、人の群れを掻き分けながら僅かな隙間を進む。時折耳に入ってくる人々の喧騒に、神楽は心に染み入る不安を抑え込みながらも、ひたすらに前へ、前へと進む。

 ――なぜ、こんなことになったんだろう。一歩一歩、前に足を踏み出す度に、その思いが強まっていく。その感覚を噛み締めながら、神楽が階段の半ばまで着いた頃には、悠紀は既に二階へ到達していた。彼女は、何か知っているのだろうか。歩を進める毎に小さく揺れる悠紀の黒髪を見つめ、神楽は心の内で呟いた。

「どけ、クズども! どかないと全員ブッ殺すぞ!」

 階上から、小田原の声が響く。傍から耳にするその声は、半ば狂気を(はら)んでいたようだった。強い焦燥感を駆られた神楽は、一、二段ほど間隔を飛ばしながら、長いようで短い階段を下りきった。

「こっちだ」

 悠紀が先行して進む。その先には、横一列に並べられた自動改札機が等間隔で配置されてあり、そのまま外の出口に続いていた。二十ほどある改札機の前では、成人の腰ほどの高さを持った深緑色のフロップドアが、パニックに陥った人々を阻んでおり、改札口は北階段の比ではない混沌の溜まり場と化していた。

 悠紀は、小さく舌打ちをしながら、右手をスカートの右ポケットに入れる。足元が覚束(おぼつか)ない状態で二、三歩進んだところで、ポケットから黒色の通信機器を取り出した。C-Iより一回りほど大きなそれを右手に持ちながら、ゆっくりと確実に歩を進める。群衆とすれ違う際に右肩が触れると、瞬時に鈍い痛みが走った。それに対し、悠紀は奥歯をじりじりと噛み締めながら、どうにか改札機の前にたどり着く。その上にある黄緑色の読取画面に、通信機器を静かにかざす。ほどなくして、画面上に黒色の大きな二重丸が現れた。

「認証シマシタ」

 高い電子音の声が無機質に喋りだして間もなく、フロップドアが左右に開いた。

「ゴ利用、アリガトウゴザイマ……」

 パン。電子音の声が感謝の言葉を言い終える前に、悠紀が左手に持っていたピストルが、改札機の身体に小さな穴を開けた。フロップドアを左右に大きく開けたまま、改札機の電子音は徐々に低く、弱い物に変わっていく。

「ゴゴゴゴリヨ、ヨヨヨ……アリガト……ゴザイマ……マママガガガガ」

 うっせえよ。悠紀は小さく吐き捨てて、改札機を通り抜けた。彼女はそのまま、後ろの少年の顔を振り返る。今がチャンスだ。小さく動く悠紀の唇がそう告げているように、神楽は感じた。

 改札機の先は北階段よりも人の往来が少なく、出口までの距離が短いのも相まって、悠紀は難なく歩道橋まで辿り着く。歩道橋の手すりから下の大通りをきょろきょろと見回してすぐに、彼女はある一点を見据え、口角をわずかに上げた。そこで足を止め、後ろでゆっくりと歩を進める少年に目を移す。

 あと五、六歩ほど進めば改札機に到達する。はやる気を抑えながら、神楽は少し足早に前へと進む。

「ギギギギ、ガガ……マモナく、ヒジョーレんゲンモードに、ギギギ……ギリカエ……まマ」

 改札機の野太い声が響く。まずい。額に無数の玉状の汗を浮かべながら、神楽は人の群れを必死で押し退ける。早く、早く。心臓の音がどんどん高鳴っていくのが、自分でも分かる。間に合ってくれ――でないと。

「そろそろ追いついたか。手間かけさせやがって」

 近くから響くこの言葉を耳にして、神楽は一瞬胸を上下させながら目線をちらと後ろへやると、小田原がちょうど階段を下りきったところだった。彼の鋭くも狂気を帯びた瞳は、神楽だけを捉えており、左の唇の端のみ異様に高く吊り上がった左右非対称の顔は、まるで悪魔のようにも見える。

「逃がすかよォ」

 神楽は、恐怖で全身が震え出すのをどうにか抑えながら、引きつった表情で人の隙間を掻き分ける。何とか改札機の入口に辿り着いたとき、改札機が元の高い電子音で無機質に口走る。

「アトジュー秒デ、どあガ閉マリマス。危ナイノデ、どあカラ離レテクダサイ。繰リ返シマス……」

 神楽の顔色が、見る間に蒼白へと染まる。そんな。ここまで来て――。

 思わずその場に立ち尽くした神楽の後ろには、ピストルを構えた黒いスーツの男が不気味な笑みを浮かべながら、あと数メートルというところまで迫ってきていた。もう、ダメだ――何もかもどうでもいい。足掻くだけ無駄だったんだ。ぼくは――

「諦めるな!」

 駅の構内に反響する大声に、神楽も小田原もしばし目を白黒させながら、声のした出入口へと顔を動かす。そこには、鋭い目つきをした悠紀が仁王立ちで立っており、彼女の目線は神楽ひとりに向けられていた。

「走れ! 神楽!」

 悠紀が言葉を続ける。神楽のこめかみから、一筋の冷たい汗が流れる。そうだ、ぼくは――まだ、諦めたくない。何も分からないまま終わるだなんて、絶対にいやだ。

 両手の拳を力強く握りしめた神楽は、声にならない声を張り上げながら、不格好に腕と足を伸ばして走り出した。人垣の隙間を無心に掻き分ける。改札に進み、閉まろうとするフロップドアに対し、自らの半身を屈めながら強引に押し進む。文句を口にする電子音を小耳に挟みながら、神楽は足をよろめかせつつ、どうにか改札を抜け出した。

 パン。神楽が心の内で安堵すると同時に、後方から発砲音が響く。間もなく、神楽の左前方にいた六十代ぐらいの老女が、肩口を押さえながらその場にうずくまった。老女の呻き声を耳にした神楽は、自身の後方から発砲した男の恐ろしい顔つきを脳裏に思い浮かべ――それをかき消すように、熱い息を小さく吐いて再び走り出した。

 神楽の耳に、乾いた音が再び入りこむ。今度は外したのか、誰も表情ひとつ変えずに会話や移動を続けていた。心の中で小さく息を吐きながら、神楽は高層ビルの一角にある横長の間口から、歩道橋の手すりまで移動した悠紀と合流する。

「来たか」

 悠紀の一言に、神楽は黙ってうなずく。真顔で彼の反応を見た悠紀は、歩道橋のすぐ下に停車している中型のトラックに目を移す。引越し業者のものらしいトラックの後ろにある、小さく両側に開いたドアを指差して、悠紀は続ける。

「次はあのトラックの荷台に乗って移動する。そこから先のことは、また追って考える。とりあえずは、ここから離れるぞ」

 そこまで言うと、悠紀は左手を手すりに置くと同時に、その左手を軸に手すりを飛び越えた。さらに、神楽が呆気に取られているのをよそに、着地してすぐにまた(かかと)を蹴って、トラックの屋根に着地する。

 そのまま、顔を見上げる悠紀を見て、神楽は躊躇いとも緊張とも取れる面持ちできょろきょろとあたりを見回す。やがて、意を決した表情で、神楽はゆっくりと手すりをまたぎ、トラックの屋根に飛び降りた。着地の際、両足から腰に強い振動が伝わり、身体が耐えきれずに尻餅をついた。そんな神楽の様子を見て、小さく溜息をついた悠紀が、下りるぞ、と一言口にした。

 二人は、トラックの屋根から荷台の中へと移動する。荷台の中の積み荷に身を隠してから一分と経たないうちに、両開きのドアは若い男の手によって閉じられ、間もなくトラックは低いエンジン音と共に発進した。




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