9.8.次の空へ
目が覚める前に、夢を見ていた。
内容はなかった。声もなかった。ただ、胸の奥に何か温かいものの残り香のようなものがある——自分のものではない、と感じた。拍動と、ほんの少し、ずれていた。
「……夢か」
つぶやいた。もう一度目を閉じても、何もなかった。
(不思議な感じだった。懐かしい、と言うには遠すぎる——でも、そんな気もした)
それ以上は考えなかった。起き上がった。
ーーー
窓を開けた。
空に、まだオーロラが残っていた。朝の光の中で白く揺れている。三日経っても、消えていなかった。
端末がニュースを流していた。テロップが横切る。「義体化人権法案、本日施行」。
「……消えないな」
(消えなくていい。世界が変わったということだから)
ーーー
廊下でサキとすれ違った。
「記録03です」とサキが言って、端末を向けた。センサーが一秒動いた。
〔皮膚色変化率:69%(前日比-3%)。髪色移行率:87%(継続中)。微小な回復傾向を確認。ただし有意差には至らず。〕
「下がってる?」
「皮膚は微小に。髪は変化なしです」
「長いな」
「はい」
端末が閉じた。二人が別の方向へ歩いていった。
ーーー
検診の日だった。
アキヅキ先生の研究室の奥に、保存槽があった。低い駆動音がしていた。透明な槽の中で、小さな組織片が淡い光に浮いていた。凍ったまま、静かにそこにあった。
術前の、サキの脳の一部だった。手術のとき、一片だけ取り分けて残したものだ。体の中には、もう生身は残っていない。ここにあるこれだけが——かつてのサキだった。
「基準原本、読み出します」と先生が言った。
〔同期開始。基準波形——照合〕
サキは目を閉じた。原器の波形が、今の自分の中をゆっくり通り抜けていった。差分が、数値になって並んだ。
〔偏差:〇・四パーセント。しきい値——内〕
「わずかに、ずれていますね」と先生が言った。「補正しますか」
サキは少し考えた。
「……ほとんどは、戻してください。でも——この分だけは、残します」
先生が手を止めた。「劣化ではなく?」
「はい。義体になってから、積んだ分です。名前は、まだありません」
冗長になった記憶も、指先の感覚のずれも、戻した。けれど、ある一つの重みだけは戻さなかった。思い出すたびに、少しずつ増えていく種類のものだった。消したくなかった。
(あの子は、覚えていられない。ボクは、覚えているために、これが要る)
(形は、逆だ。でも——たぶん、同じことをしている)
槽の中の、かつての自分を、もう一度だけ見た。それから、研究室を出た。
ーーー
机の上に、メモが積み重なっていた。
シェリーはその前に座った。読むのではなく——名前だけを、確認した。
「エディ、マリア、ラゼル、ルシアン、ルナ——」
「サキ」。少しだけ止まった。「——うん、覚えてる」
全部覚えている間は、何も失っていない。
そう信じることにした。これが、これからの習慣になる。
ーーー
昼、廊下でサキの後ろ姿を見かけた。
「サキ」と声をかけると、振り返った。義眼が廊下の光を受けて、一瞬だけ光った。
「なんですか」
「いや、なんでもない。確認しただけ」
サキが少し間を置いた。それから——歩き始めてから、止まった。
「……シェリー」
「うん?」
「ボクが覚えています」とサキは言った。「それでいい」
シェリーが「……うん」と言った。「知ってる」
「知っていましたか」
「今、確信した」
サキが「……そうですか」と言って、また歩き始めた。
シェリーは後ろを向いた。サキの背中が廊下の角を曲がっていくのを見た。
小さく、笑った。
ーーー
法案施行の翌日、午後。
シェリーとサキが画面を並べた。リアルとアバター。初めて、同じ時間に二人で画面に出た。
コメント欄が動いた。「シェルとサキちゃんのコラボ久しぶり!!」「ふたり相性やっぱり最強」「サキちゃん、シェルに対してだけ柔らかくない?ボクだけ?」
「えー、そんなことないよね、サキ」とシェリーが言った。
「……データ不足で回答できません」
「やっぱり!!」「データ不足ってなんだよかわいい」「尊い」とコメント欄が埋まった。
シェリーが笑った。
サキはその笑い声を、義眼で記録した。
〔感情データ:未分類。保存。〕
(まだ、名前はない。でも——これは、ずっと記録し続けてきた種類のものだ)
(……有用ではない。しかし、やめたくない)
ーーー
病院の玄関前。ルシアンが荷物を持っていた。
「どこへ」とマリアが聞いた。
「……まだ決めていない」とルシアンが言った。「ただ、ここにはいられない」
「いつかまた来ますか」
「——それは、わからない」
一礼した。深く、丁寧に。
「あなたのことは——記録しておく。昼の教会の文献に、相応しい形で」
マリアが「それは、ありがとうございます」と言った。
ルシアンが振り返らずに歩いていった。マリアが見送った。
「また」は言わなかった——それでも、これが終わりではないと分かっていた。
ーーー
法案施行から数日後、議会に書類処理に向かうと、守衛に呼び止められた。
「来訪者の方ですか。議員証をご提示ください」
提示した。守衛が困った顔をした。「……この写真の方とは、少し……」
「私ですよ」「はあ……」「シェリー・グレイソン議員です」「……左頬のほくろの位置は合っていますが、その、髪の色と……」
別の守衛が来て、二人が小声で相談を始めた。
(……これは長くなる)
「少し外で待ちます」
ーーー
近くのカフェでホットティーを頼んで待っていると、隣のテーブルに誰かが座った。
「……珍しいところで会うな」
「お父さん」とシェリーは言った。
「魔力を感じた。この辺にいると思って来た」——本人は何も気づいていない顔だった。
「入れてもらえなかった」と事情を話した。エドモンドがシェリーの頭を一瞥した。「その色は」「デンドログラムの使いすぎ」「……何回使った」「覚えてない」「馬鹿者が」
すぐ立ち上がった。「取り計らう」
「え、いいよそんな——」「待っていろ」。もう歩いている。
(お父さん、変わらないな)
しばらくして戻ってきた。「通る」
「どうやったの?」「私の名前を出した」「それだけ?」「それだけだ」
少しの間。
「……髪の色、お父さんと一緒になった」
「気づいていた」
「嬉しい?」
「……そういうことを聞くな」
また間があった。
「嬉しくないとは、言っていない」
シェリーが笑った。「ありがとう、来てくれて」
「通りかかった」
「通りかかったわけないでしょ、王都の端から端まで」
エドモンドが答えなかった。
「……行くか」「うん、行く」
ーーー
夜、一人で外に出ると、影が近くにいた。
「……ダミエン」
「貸しは返ってきたか?」
「……まだだよ」
ダミエンがシェリーの顔を見た。視線が一瞬、止まった。褐色の肌と白金の髪——その意味を、知っているような目だった。
何も言わなかった。同情でも慰めでもなく、ただ——沈黙。
しばらくして「死ぬなよ、貴様が消えたら詰まらん」とだけ言った。
「……生きる予定だよ」「予定か」「うん、予定」
振り返らずに歩いていく。
「貸しを返したら、どこへ行くんだ」
遠くなった声で「ナイトフォールの問題が、まだある」
影が消えた。シェリーが空を見上げた。
ーーー
翌朝、大学の屋上に来ると、屋上の端に黒い犬がいた。
「また来てたのか」とシェリーは言った。「……ずっとそこにいたのか」
犬は動かなかった。ただ、見ていた。
「パラドクス。——ありがとう」
犬が一度だけ頭を動かした。サキのいる方向を向いて——すぐに戻した。
しばらくして、いつの間にかいなくなっていた。
ーーー
少し後で、バッテリーの補充が終わったとサキが来た。
「こんなところに来るんですね」「たまにね」
二人で並んで空を見た。オーロラがまだある。
「……消えないな」「はい」「傾きが残ってる証拠だって、サキが言ってたな」「言いました」
「じゃあ——次の仕事が、まだあるな」「まだあります」
「……怖い?」「どちらの意味ですか」「どっちでも」
サキが「いいえ」と言った。少し間があって。
「——シェリーが、傍にいますから」
「……そういうこと、言えるようになったな」とシェリーは言った。
「練習しました」「誰で?」「ボク自身で」
笑った。「じゃあ、行こうか」「はい」
二人が屋上から降り始めた。
ーーー
階段の途中で、サキが立ち止まった。
「……シェリー」「うん?」
サキが端末を開いた。数値を確認した。閉じた。
「〔記録——」と言いかけて、一度止まった。
「回復完了です、シェリー」
シェリーが自分の手の甲を見た。——銀の光が戻っている。
「……戻った」
「はい。皮膚色変化率:0.3%。誤差範囲内です。完全回復と判断します」
サキが義眼に映像を反射させた。鏡のように——シェリーの顔が、そこにあった。銀の髪。元の肌。
「……ありがとう、ずっと記録してくれて」
「記録なので」とサキが言った。それから少しの間があって。
「——でも。よかったです」
〔感情データ:分類保留。しかし、これは記録に値する。〕
ーーー
二人が階段を降り続けた。
空には、まだオーロラ。消えかけている——ただし、消えてはいない。
世界は、まだ変わり続けている。




