49.存在しない人
俺たちは詰め所に戻り、乱闘事件の報告書をまとめていた。夜も遅いが、規則は規則だ。書類仕事というのは、どこの世界でも面倒くさい。
「ふぅ……」
椅子にもたれながら俺は小さく息をついた。脳裏にはあの男、キースの姿が焼き付いていた。あの戦い……いや、一方的な蹂躙に近かった。俺が関節技でなんとか極めたが、あれは奇跡だった。まともに戦えば、手も足も出なかっただろう。剣術でも、魔法でも、まるで勝てる気がしなかった。
「……キース……」
報告書にペンを走らせていたマリが呟いた。
「ん? どうかしたか?」
「どこかで聞いた名前だと思って……確か……」
ルカが、静かに口を開いた。
「ソードマスターのキース・イグナシオン……」
マリが顔を上げ、目を見開いた。
「そうそう!思い出した!確か、ダブルSランクの冒険者よね!ソードマスターの二つ名を持つ伝説の剣士!」
「ダブルSランク……」
俺は思わず呟いた。そうか、あれが、かの有名なソードマスター……俺が今Cランクだって考えたら、その差は果てしない。まさに雲の上の存在だ。
「……でも、あの人って……確か……」
ルカが少し眉をひそめた。
「数年前に国家転覆を企てて、国王暗殺を図ったんだよね? 未遂で終わったけど、捕まって……」
「……斬首刑になったって、聞いたことある……」
「でも、目の前にいたあの男が本当にキースだったとしたら……死んでるはずなのに、おかしいよね?」
「うん……でも、あの強さは、絶対に本物だった。あんな動き、見たこともない」
俺はそう断言した。腕を極めたときも、地面に叩きつけられたときも、一瞬一瞬が命取りだった。あの余裕、あの技量……絶対に素人じゃない。
「……なんで、そんなに憧れるのよ……カイだって、十分強いよ……」
マリが少し顔を赤らめながら言った。
「いや、俺なんて、まだまだだよ……」
俺はそう言って、ゆっくりと上着を脱いだ。
「ちょ、ちょっと!カイ!何考えてるのよ!? そういうのは、まだ早いって!!」
「ちげーよ、これを見ろって……」
俺の裸の上半身には、無数の紫色のアザが点在していた。
「これ、全部急所だぜ? あのオッサン、的確に打ち込んできやがった……。空手をやってた俺にはわかる。プロの打撃だ。しかも本職は剣士なんだろ? そんな奴が剣を持ったら、どうなるか……想像するだけでゾクゾクするぜ」
マリとルカが心配そうな顔をする中で、俺は痛みに顔をしかめつつも、どこか嬉しそうに笑っていた。
「でも……本当にあれがキース本人なのかは、分からないよね?」
マリが呟いた。
「うん、死んだって聞いてるし……別人の可能性も……」
「それでも、俺はまた会ってみたい。あの強さ……目標にしたくなるってもんさ」
窓の外に目をやると、夜空には星が瞬いていた。
俺はまた、彼に会えるのだろうか――あの、圧倒的な存在に。




