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219/219

219.黒い床

ダロムの部屋の中――

入ってきた扉のちょうど対角線上に、もうひとつの扉があった。

それは明らかに異質な扉で、漆黒に塗り固められ、近づくにつれ周囲の空気が少しずつ重くなるようだった。

扉の表面からは、ゆらゆらと黒い魔素が湯気のように立ち上がっている。錯覚かと思ったが、確かに魔素の揺らぎが感じられた。


カイは無意識に足を止める。

心の奥から、じわりと不安がにじみ出るような気配だった。


「……この扉を、開けるのか」


誰に言うわけでもなく、カイは自分自身に確認するようにつぶやいた。

背後には、マリもルカがいる――これは俺が越えなければならない境界なのだと、本能的に理解していた。


「……俺が進まなきゃ、終わらない……ここで止まるわけにはいかない」


カイは意を決し、柄に手をかけたまま、ゆっくりと黒い扉を押し開けた。

扉はまるで何百年も閉ざされていたかのような重さで、ギィイ……と不気味な音を立てて開く。


その瞬間――


目の前が、真っ暗になった。


だが、暗いわけではなかった。

よく見ると、周囲には「黒い床」だけが限りなく広がっていた。

空間全体が黒一色に染まり、天井も壁もなく、ただ「足元」があることだけが、かろうじて空間の存在を示していた。


一歩、恐る恐る足を踏み出す。

足の裏に感触はあるが、底のないような感覚が脳をくすぐる。

空中に浮いているような、不安定で不自然な感触だった。


カイは思わず、後ろを振り返った。


「……いない……みんな、いない……」


マリもルカも、カークもキースも――誰もいなかった。

扉も消えていた。

あるのは、限りなく続く黒い床だけ。まるで世界から隔絶されたような孤独な空間。


「これが……敵の、術なのか……?」


警戒しながら聖剣ポチに手をかけ、周囲を注意深く見渡す。

だが、何もいない。何も見えない。ただただ、静寂と暗黒。


カイは、深く息をついた。


「進むしか……ないか」


方向すら分からないが、足を前に出す。

一歩、二歩と歩く。音はない。足音さえも、この空間には吸い込まれていく。


どれほど歩いただろうか――感覚が曖昧になり始めた頃、遠くに「光」が見えた。


「……あれは……?」


希望のような、あるいは罠のような光。

だがカイは、その光へ向かって小走りになる。

手は、いざという時のためにポチの柄に添えたまま。


光は、近づくごとに少しずつ大きくなっていく。

やがてそれは「四角く切り取られた部屋」だと分かった。


「ん……んん?」


近づいて見ると、その部屋の床には、見覚えのある「畳」が敷かれていた。

そこには学習机、椅子、ブラウン管テレビ、ゲーム機、そしてシングルベッド。

壁には、手書きの時間割表と、アイドルのポスターが貼られていた。


「これは……俺の部屋だ……」


異世界に連れてこられる前――まだ学生だった頃、毎日を過ごしていたあの部屋。

変わらずにそこにある。埃一つない。記憶と寸分違わぬ空間。


カイは思わず、その部屋に足を踏み入れようとした。

――が、ガンッ、と何かに額がぶつかった。


「……っ!」


そこには、見えないガラスのような壁があった。

まるで、水族館の水槽を見るように、一面と横の二面だけが透明な壁で覆われている。

ガラス越しに、部屋を「展示されている」ような形だった。


カイはそのガラスに手を当てた。

温度もなければ、感触も曖昧なその透明な壁を、何度も軽く叩く。




その時だった。

ドアが開き、中から「学生服を着たカイ」が現れた。


カイの目が、見開かれる。


「……本当に、俺だ……」


学生カイは、無造作にカバンを机の上に放り投げると、そのまま制服姿でテレビの前に座り、ゲーム機のスイッチを入れた。


何かを呟いているが、声は聞こえない。

こちらには気づいていないらしい。


「くそ……見えないのか、聞こえないのか……」


カイは焦りながら、ガラスの壁を強く叩くが、学生カイはゲームに夢中だ。

画面の光が顔に反射し、目を細めて笑っている。

その無邪気さが、今の自分には眩しかった。


「……これは、幻なのか? それとも記憶か……」


やがて、学生カイがゲームを止め、ふいに立ち上がった。

そして、部屋の隅の「窓」の方に向かって歩き出す。

何かを言いながら、窓を開けるような仕草。


その目線の先――誰かと話している?


しばらく口論のような動きをしたあと、勢いよく窓を閉めた。


「……この記憶……まさか」


カイの脳裏に、深く沈んでいた思い出が、静かに浮かび上がってきた。


「そうだ……この日……このあと……」


彼の肩がわずかに震える。


「あいつが……友達が……車に跳ねられて……死ぬんだ……」


壁に手を当て、項垂れるカイ。

ガラスの向こうで笑っていた“かつての自分”が、あまりにも遠い存在に思えた。





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