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君>世界   作者: 雪ノ雪
第一章『天使の国の悪魔』
9/117

08/決断

 誰かの放った矢が、シャルロットの右肩を軽く抉った。

 痛みに足を止めるわけにはいかないので、そのまま駆け抜ける。

「足には貰わないでよ? 死から遠い暴力だと、すぐには治らなそうだし。か弱いわたしにはお前を背負ったりなんて出来ないんだから。ほら、次は右に曲がって。――攻撃がくる。止まって、走って」

 左手前方を飛行するリリスが、淡々とした口調で指示を飛ばしてくる。

 言われた通りにして、なんとか不特定多数の攻撃を捌くが、

「また増えたわ。本当、人間ってお金が好きね。或いは正義の名のもとに誰かを踏みにじるのが好きなのかしら。まあ、なんにしても素敵な連中。みんな死ねばいいのに」

 リリスの悪態が物語る通り、時間を追うごとに状況は不利に傾いていた。

 仮に彼等を掻い潜り続けたとしても、結界がある以上外には出られない。正直、お先は真っ暗だ。それでもさっきと比べて絶望感がないのは、ある意味吹っ切れたからか。

 とにかく、今は必死に逃げる。どうせ終わっている命なんだから、後悔するのも終わってからでいい――なんて事を前向きに考えたところで、

「ちょうどいい、あそこに使えそうな奴がいるわね。あれで膠着を作りましょう」

 と、リリスが進行上に居た、雑貨屋から出てきた親子の幼い少女の方を指差した。

「え、そ、それは……」

「なに? この状況で躊躇う理由があるの?」

「……」

 迷っている間にも、少女たちとの距離が縮まっていく。

 母親の方は外の状況に気付いたようだが、動揺の所為かその場から動かない。

「ほら、早くやって」

 イラついたリリスの声。

 何もわかっていない少女がこちらを見て、きょとんとした顔を浮かべる。

 それがあまりに無垢に見えて、駄目だった。

 心臓が縮こまるのを感じながら、少女を素通りする。

 直後、くすくすという嗤い声が左手前方から聞こえてきた。

「信じられない愚物ね、反吐が出そう」

「……ごめんなさい」

「まあ、別にいいわ。お前には出来ない事だったという話なんでしょう? これ以上罵ったところで事態が好転するわけでもなし。でも、さすがに追ってきている奴等は殺せるわよね?」

「……」

 迷いなくとはいえないが、頷く。

 戦場で相対したエンシェの兵にだって家族や友人はいたはずなのだ。それを国のためという大義で殺せて、正当防衛という理由で彼等を殺せない道理はない。結局、全ては自分の立場や心を守るための行動でしかないのだから。

「良かった。では、三つ先の角を左に曲がりなさい。それで一番近い奴から武器を奪う。そいつを代わりにしてもいいわね。あぁ、けれど、お前一人では難しいのかしら?」

 その問いにも頷く。

 今、先陣を切って迫ってきているのは元騎士の民兵団のリーダーだ。一対一で時間を掛けてもいいならともかく、この状況で即座に武器を奪えるほどの実力差はない。

「わたしが借りて来てあげるから、足を止めさせなさい」

 三つめの角に差し掛かったところで、リリスが前進を止めた。

 彼女を追い抜き、シャルロットはそのまま角を曲がる。そして、追っ手の視界から逃れたところで足を止めて振り返り、出血多量のおかげで元に戻っていた右手に魔力を込めて、出会いがしらに掌打を放った。

 もちろんこんな攻撃は簡単に躱されるが、リリスの要望には応えることが出来たはずだ。

「無駄な足掻きだな。観念して、裁きを受けたらどうだ?」

「そうね、お前は受けるべきね」

 実体化を果たし腰の短剣をすっと抜き取っていたリリスが、蔑みを込めた声を放つ。

 自身の真横から突然響いたその音に、男は驚愕と共に視線を腰の位置に流した。そうしてシャルロットから視線を外したその瞬間に合わせて、短剣がこちらに向かって放り投げられる。

 決定的な好機。

 シャルロットは男に向かって潜り込むように踏み込みつつ、こちらの遥か手前で地面に転がりそうだった短剣に必死で手を伸ばし、なんとか掴み取った。

 気付いた男が防御態勢に入ったが、もう遅い。

 低姿勢から不格好に振り抜いた一撃が、男の両膝の皿を断ち切る。

 硬い手応えと共に、返り血が顔にかかった。

「中途半端ね。どうせ相手は魔力で勝手に止血するんだから、両足とも切り落としてしまった方が運びやすかったのに」さらりと怖い事を呟きつつ、再び実体化を解いたリリスが更なる指示を出してくる。「あぁ、そうだ、両脇も刺しておきなさい。それで暴れるのが難しくなる」

「この、悪魔が……!」

「――」

 日々の中で刻み込まれた重圧にまた心臓が委縮したが、歯が折れるくらいに強く噛みしめる事で乗り切りつつ、シャルロットはリリスの要望に応えてから男の首に手を回し、彼を盾にする事に成功する。

 結果、遅れてやってきた後続の足と手が止まった。代わりに、彼等は言葉を用いる事にしたようだ。

「愚かな真似を。この先にはもう逃げ場などないんだぞ! これ以上罪を重ねてどうなる!」

「貴様は一体どれだけアステア様の顔に泥を塗るつもりなんだ!」

 ……どれだけ慣れていても、こういったものに晒されるたびに心は痛む。

 だけど、今は一人じゃない。

「あっはは、判りやすい奴等ね。人質に価値がある事をこうも親切に教えてくれるだなんて、これは思ったよりも時間を延ばせそうだわ」

 リリスの嘲笑が、不思議と胸を軽くしてくれていた。

「ゆっくりと後ろに下がりなさい。狭い方の路地に行く。奇襲のリスクを限定するわ」

「え? でも、それだと本当に八方塞がりになるんじゃ――」

「どの道結界が壊れない限り逃げ場なんてない。全てはヴラド次第。そして向こうの問題が片付けば、彼はすぐに此処に来る。そうなれば、こいつらを皆殺しにするのに、一体どれくらいの時間がかかるのかしら? 気になるところよね」

「……」

 おそらくは、十秒もかからないだろう。

 その未来を思うと、少し怖かった。その時、どういう感情を自分が抱いてしまうのか、想像がつかなかったからだ。

「変な顔。お前が一番喜ぶべき未来でしょうに」

「それは……」

 なんて返して良いのかわからず、言葉に詰まる。

 と、そこで、不意にリリスの表情に険がよぎった。

「――待って。この方向、こっちを狙ってる?」

 言葉の途中でシャルロットもその存在に気付き、視線を上げた先に凶悪な暴力の群れを捉える。

 こちらに向かって降り注がれる魔力弾の雨霰。

 誰の攻撃かは判らないが、これは無差別だ。この一帯の全てを殺すつもりで放たれている。

 回避は間に合わなかった。人質の身体は盾にもならない。

 衝撃の余波で千切れ弾け飛ぶ住人の四肢。

 程なくして、鮮血が一面を埋めつくした。

「――うっ、うぅ」

 幸い致命傷を負う事はなかったが、両腕の方はいずれも深刻な状態だ。神経がやられたのか、痛覚以外の感覚がなくなっている。あげく、被弾の無かった両足もどういうわけか上手く動かない。動かそうとすると、腕の方からそこにまで痛みが走るのだ。

「……結界を経由して真上から落とす事も出来たでしょうに、わざわざ魔力の色を隠蔽までしてヴラドがいる方向から仕掛けてくるなんて、本当に体裁が大事なようね、あの羽虫どもは」

 一人無傷で済んだリリスが憎しみの笑みを浮かべながら、こちらに視線を向ける。

「威力もそこらの凡人が即死する程度にあえて抑えたか。それに奴等らしい毒も込められている。支障は多そうね。でも我慢しなさい。こっちに行くわよ。ほら、急いで。お前を殺したくて仕方がない奴等は、今此処で死んだのだけじゃないんだから」

 範囲外に居た者たちの足音が近付いてくる。この惨状を前にした彼等の感情がどう変化するのかは、想像に容易かった。

 全身を蝕む苦痛を噛みしめながら、再び駆けだす。

 やがて、行き止まりに辿りついた。建物同士の間隔が極端に狭い一角だ。ここなら確かに真正面からの脅威だけに意識を向ければいいのだろうが、完全に逃げ場はなくなった。

「右手は動く?」

「は、はい。大丈夫です」

 強がってみたが、正直短剣を落とさないようにするので精一杯だった。とてもではないが、武器を振るうなんて余力はない。

 それを察してか、

「いいわ、もう一度人質を使う」

「え?」

「ここにいるでしょう? わたしが実体化したのを見た奴等は全員死んでくれたからね。今なら機能するわ。あぁ、でも、ここに子供は不自然過ぎるか。実にすばらしい事に、貧困層の子供なんてものはこの国には存在しないみたいだしね」

 言われて、此処が繁華街の中でもかなり治安の悪い場所だという事を思いだした。

 ちなみに彼女の最後の発言は、生活能力に乏しい親の子供は親権を奪われ、国の孤児院に強制的に移されるためだ。そうして親を失った子供の多くは英才教育を受けて、騎士などの役職につくと言われているが、実際のところは判らない。

 ともあれ、その事情を新聞かなにかで把握していたリリスは、気乗りしない表情で「まあ、娼婦でいいか」と呟き、その姿を大人のものへと変化させた。

 元々が狂おしいほどに可憐な少女がそのまま順調に成長したような様は、まさに圧巻というべき美しさで、それはそれでこんな場所にいるわけないとも思ったりしたが、それを素直に口にする勇気はなかった。

「それにしても、この私が襤褸を纏うだなんてね……屈辱だわ」

 服装もこの場所に相応しいものに変えつつ、彼女は実体化を果たす。

 途端に甘い匂いが陶酔を孕んだ眩暈を連れてきた。体温が上昇し、心臓がどきどきして、下腹部がムズムズする。

 暴力的な色気の産物だ。もはや魔法といっても過言ではない。

「こんな顔でいいわよね? ちゃんと怯えているように見えてる?」

 淡々とした口調で、リリスは誰もが胸が痛めるような表情を浮かべてみせた。

 それを見て、本当にこのヒトは悪魔なんだなと妙な納得感を覚えつつ、シャルロットは短剣を彼女の首にぎこちなくセットする。

 程無くして、群衆が姿を見せた。

「た、助けて……!」

 甘さを含んだ震え声でリリスが訴える。

 この上なく庇護欲をそそる演技だ。ほぼ全ての人が唾を呑むほどだった。

 こんなの抗い様がない。どうしようもないくらいに有効に機能する。時間だってめいいっぱい稼げるだろう。当然のように、シャルロットは確信した。

 だが、そうはならなかった。

「構うことはない! それも悪魔だ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 群衆を掻い潜って先頭にたった老人が、声高々にそう叫んだのだ。

 血走った焦点の合わない眼に、口の端から垂れる涎。明らかに正気ではなかった。

 普通なら、そんな相手の言葉を鵜呑みにはしない。むしろ警戒や不審を抱くべきだろう。

 にも拘らず、怖いくらいに一斉に、群衆はそれに同調した。

「……天使の特権か。二度も同じ手を喰らうのは気にいらないって? はっ、手が早い事ね」

 忌々しげにリリスが舌打ちをする。

 まるでそれを合図としたみたいに、得物を持った群衆が一斉に襲い掛かってきた。

「――っ」

 恐怖に身体を強張らせながらも短剣を握る手に力を込めようとするが、やっぱり上手く握れない。

「まったく、二重の意味で、この姿になって正解だったわね」

 吐息と共に振り返ったリリスが、シャルロットを抱きしめる。

「頭は自分で守りなさいよ。ほら、早く腕で覆いなさい。大雑把に動かす事くらいはまだ出来るんでしょう?」

 言われるがままにそうすると、今度は壁に背中を押しつけられ、そのまま横倒しにされて、シャルロットの身体は壁とリリスの肉体によって覆われることになった。

「悪魔に死を!」

 ガンッ! と鈍器で殴られた音がリリスの身体から響く。後頭部を思い切り殴られたのだ。

 瞬く間に彼女の顔が血で染まる。

 続けて、刃物が肉を刺す音が届いた。

 それらは何度も何度も響いて、その余波が何度も何度もシャルロットの肉体に傷をつける。余波でなければ、とっくに死んでいる。

 リリスの温かい血が、悲鳴を上げてしまうくらい怖かった。

「無駄に騒がないで。動かないで。お前に死なれたら、私の苦労が台無しになる。そんなの、不愉快でしょう?」

 諭す声が、だんだん弱くなっていく。

 暴力は止まらない。

「やめて、もう、やめて……!」

「「殺せ! 殺せ! 殺せ! 悪魔に死をっ!」」

 悲痛な訴えは、殺意の合唱に掻き消される。

 やがて完全に肉体を破壊されつくしたリリスの身体から魔力が粒子として零れだし、身体に圧し掛かっていた重みと体温が消えていく。

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 ずっと刻まれてきた自罰の癖が、また顔を出してしまった。

 ついにリリスの身体が消失して、暴徒たちの血走った眼が一斉にシャルロットを映しだす。

 最も近い場所に居た男が、鉈を振り上げていた。

 それは、真っ直ぐにシャルロットの頭部目掛けて振り下ろされ――しかし、途中で大きく逸れ、壁に叩きつけられて弾かれ地面に落ちる。

「――は?」

 間の抜けた声が、鉈を持っていた男の口から零れた。

 直後、鮮血が壁を真っ赤に染めあげる。

 頭上から降ってきた槍が、男の右肩を抉り飛ばしたのだ。

 そして、重力をまるで感じさせない落下をもって、シャルロットと群衆の間に一人の麗人が現れる。

 戦場で見た、ヴラドと並んで暴れまわっていた人物。

「……その寝癖、今の今まで寝てたわね? この状況でどういう神経をしているのか。まったく、お前の所為で、ずいぶんと魔力を無駄にしてしまったわ。どう責任を取ってくれるのかしらね?」

 散らばった粒子を再構築させて、シャルロットの視界に戻ってきた幼き姿のリリスが、面倒そうに息を吐いた。

 彼女の特性を一部しか知らないシャルロットは、ただただ茫然とするばかりだ。

「責任って、なにか約束とかしてたっけ?」

 クーレが不思議そうに首をかしげる。

「この状況下でなら、お前がどういう選択をするのか、お前のお供の莫迦でも判る事でしょう?」

 呆れるようにリリスが言った。

「あー、なるほど、確かにそうだね。これはガジャでも判る。僕が文句を言われる筋合いはまったくないけど。まあ、怒った君の顔は結構好きだしね、良しとしようか」

 可笑しそうに笑いながら、クーレは地面に突き刺さっていた槍を引き抜いて、群衆の方に身体を向ける。

「貴様、悪魔に与するつもりか!」

 洗脳の軸となっている老人が吠えた。

 それに対し、クーレは不可解なものを前にしたみたいに眉を顰めて、

「当たり前でしょう? なに言ってんの? どこの世界に、か弱い女の子をよってたかって苛めている下種共の味方をする強者がいるっていうんだい?」

 と、これ以上ないくらい堂々と言い放ち、

「あと、さっきから煩いよ。君」

 ぐちゃ、と老人の頭が重力の魔法によって潰れ、飛散した。

 周囲を包んでいた異様な熱気が一気に冷える。そこに、クーレは実に爽やかな笑顔を披露した。

「信仰という名の簡易な洗脳補助、たしか天使の特権だっけ? そこまでの強制力はないみたいだね。でも此処に居るのは確かに悪魔憑きだ。君たちが決意を捨てる理由はない」

「……」

 得も知れぬ恐怖に襲われて、群衆の足が一歩後ろに下がる。

 だが、一歩だけだった。

「中途半端だな。逃げるわけでもないのか。つまんないからいっそ逃げてくれた方が良かったんだけど――って、これって逃がしていいの? 僕、この後の展望について何も知らないんだけど」

「知る必要なんてないわ。だって、お前はただの保険で、お前が来た時点で時間稼ぎも終わったんだから」

 退屈そうにリリスがそう告げた直後、空を覆っていた結界が砕け散った。


                §


(やはり火力不足だな)

 大地の魔法でお互いの高さをずらし、そこで生じた隙に滑り込ませた長刀が首筋に吸い込まれ、しかし頸動脈にすら届かずに浅い線を残すだけに留まり、あげくその傷も瞬く間に塞がっていく光景を前に、ヴラドはうんざりとしたため息を零した。

 今の状態では殺し切れない。ユーリッヒだけなら同じ個所に傷をつける速度を上げて治るまでに届かせる事も可能かも知れないが、ルプテがとにかく邪魔だ。他の三等級を切ったところで、この構図が変わることはないだろう。

 だから、こうして同じ手札でカウンター狙いの戦いを続けているわけだが、そろそろ別の手を見せないと、こちらの本命に勘付かれる恐れがある。

 事実、天使の方は崩せそうで崩せない今の状況に不審を抱き始めていた。まあ、半身の方はもう少しで殺せると勘違いしているようだが。

(……頃合いか)

 軽くバックステップを取り、懐から魔石を一つ取り出す。

 その魔石は『保存石』と呼ばれるもので、一般的な家庭でも多く使われている代物だが、中に入っているのはリリスが二等級に指定している魔法が宿った核だ。

 二等級は既に空間干渉で使っているので、これを使えばリリスの奴がきっと煩い事になるだろう。なので、もちろん使う気はないが、悪魔の聲が聞けない彼らには、その事情は伝わっていない。仮に伝わっていたとしても、真に受ける理由もない。

「腐っても神子か。いいだろう、これで殺してやる」

 適当な言葉を並べながら、保存石を砕き、剥き出しの核に魔力を流す。

 中身の異質さを感じ取ってか、ルプテの方も余計な事を考えるのを止めて、こちらの対処だけに神経を傾けた。

「では、我々も全力を持って、貴方を叩き潰す事にしましょう」

 こちらがどんな手を使ってこようが、力でねじ伏せるつもりのようだ。攻撃的な魔力が神子の前面に展開されていく。それを制御するために、天使も最大限のリソースを割く事になるだろう。

(あとは、こちらが回避できるかどうか、か)

 無論、それは天使共の攻撃ではない。この隙に仕掛けてくるであろうエンシェの神子の一撃だ。

 これだけ明白に奇襲が成立する状況をお膳立てしたとはいえ、味方でない以上、そいつがこちらを考慮するなんて事はない。かといって、街もろとも吹き飛ばすような規模の攻撃を仕掛けてくる事もないだろう。そんな派手な攻撃は奇襲になり得ないからだ。

 エンシェの神子は、今目の前の敵がやっているのと同じように、威力だけを研ぎ澄ました針の如き一撃を放ってくる。

 仕掛け所はおそらくレナリアの邸宅辺り。ちょうど、天使共が背を向けている方向であり、こちらの真正面だ。一番自然に警戒できる方位なのは間違いない。

 それでも、見てから躱すのは難しそうだから、結局は相手の仕掛け時に対する嗅覚に期待するしかないわけだが……

(……読み違えば死ぬ。ただそれだけ)

 もう覚悟など必要ないくらい、ずっとやってきた綱渡りだ。

 ヴラドは迷いない動作をもって切り札を切る素振りを見せ、天使の先手を誘発させて、それが解き放たれるほんの一瞬前に大きく左後方へと飛び退き――直後、ユーリッヒの胸に風穴が開いた。

 だが、心臓じゃない。少しズレている。そして余波で殺すには範囲を絞り過ぎていた。

(外した? いや、外されたか)

 どうやら、クリスエレス陣営にも彼等の計画を看破していた存在がいたらしい。おそらくは君主であるスロウの仕業だろう。やはり神子は一筋縄ではいかないようだ。

 死の危険に晒されたユーリッヒは、都市を覆っていた結界を乱暴に解き、そこに使っていた魔力を全て自身の防御に注ぎながら一目散に戦線離脱していく。

 追撃がないあたり、あの神子を殺す事にエンシェ側は完全に失敗したようだ。

 まあ、いずれにしても、こちらの問題は解決した。

 ヴラドもさっさとこの場を離れ――

(――いや、その前に、必要なものを買っておくか。しばらくは外だろうし)

 と、近場の雑貨屋に足を運んで、呆ける主人に購入する品と硬貨を差し出してから、七秒後に刀を突き付け、

「足りるだろう? これで」

「は、はい! あ、ありがとうございました!」

 少し不安だった旅の準備も済ませてから、リリスたちの元へと向かった。


                §


「買い物してたの? 余裕だねぇ」

 脇に抱えた紙袋を前にして、何故か居たクーレが感嘆の声を漏らした。

「しかし、大天使と殺し合うだなんて、また箔がついたんじゃないか、ヴラド」

「……そんなことより、死んでいないな?」

 視線をシャルロットに向けて訪ねると、その隣にいたリリスが不機嫌そうに眉を顰めた。

「わたしの心配はなし? 凄く酷い目に合ったんだけど。ほら、実体化したら若干透けて見えるくらいに魔力が減ってる」

「ご、ごめんなさい。私の所為で……」

 自分に落ち度があると思っているのか、申し訳なさそうにシャルロットが謝罪する。

 見当違いな行いだ。

「必要ない。それは役割通りの事をしただけだ。暇潰しがてらにな」

 違うか? と射殺すような視線をリリスに向ける。

 すると彼女は冷ややかに目を細めてから、可笑しそうに小さくわらった。

「さすが、わたしのご主人様ね。わたしの事がよく判っているみたい。ええ、その通りよ。お前が気にする事は何もない。だってあんなの、髪の毛が一本抜けちゃった程度の事だもの。ええ、ご褒美さえあれば、なんの問題もないわ」

「……」

 袋から飴を取り出して、魔力を少しだけ込めたそれを放り投げる。

「そうそう、この飴が欲しかったのよね。この国で見つけた唯一の美点。ふふ……あぁ、美味し」

 包みを開いて、細い棒についた飴をリリスは煽情的に舐めながら、その様をシャルロットに見せつけた。

 色々と含みのある行為に、シャルロットは更に必要のない感情に振り回されそうだったが、それを不憫に思ったのか、

「とりあえず、一番厄介そうな問題が片付いたところで、飛龍はどこで呼ぶ?」

 と、クーレが話を軌道修正した。

 さも当然のように行動を共にするような流れが気になったので視線で訪ねると、彼はいつものようにサッパリとした笑顔と淀みない口調で答える。

「国境線までは付き合おうと思ってね。そこまではどうせ同じルートになるだろうし、助けたからには区切りのいいところまでってやつだよ」

「……外壁を抜けたところ」

 少し考えて、ヴラドはそう答えた。

「たしかにそれが良さそうだね。ここだと撃ち落とされる危険もあるし――」

「どうしてまだ生きているっ!?」

 クーレの言葉を掻き消すほどの怒声が轟いた。

「ん? 誰? この煩い人? 君たちの知り合い?」

「……お父様」

 怯えた表情で、シャルロットが呟く。

 その途端、ダノラウトは鬼の形相を浮かべて、

「今すぐ自害しろ! これ以上あの方の名誉に泥を塗るな!」

 と、叫んだ。

 更に立て続けに娘の事を責め立てる。

 神子が殺すという予定が崩れた事がよほど想定外であり、許しがたいらしい。

「わ、私は……」

 今にも消えそうな声と共に、シャルロットが俯く。

 あまりに弱い抵抗だ。だからこそ、このまま押し切れば自身の思惑が徹るとダノラウトは確信しているようでもあった。それほどまでに不快な支配を、この男は実の娘に行ってきたのだ。被害者を気取りながら。

 それを理解した瞬間、ヴラドは鋭く重い声を発していた。

「シャルロット、だったな。今決めろ」

「え?」

「契約の話だ」

 理解が追い付かないシャルロットに、ヴラドはそれだけ言った。

 それがあまりに端的過ぎる事に呆れてか、リリスが補足を加える。

「わたしたちはお前の不死性が欲しい。差し出せばお前は悪魔を捨てられる。悪くない話よね。ただ一つ問題があって、今すぐには出来ないの。だからお前にはその時までわたしたちに同行してもらう必要がある。あぁ、別に拒否しても、大きな問題はないわよ? 中にいる二匹とも処理してから、わたしがその身体を乗っ取ればいいだけの話だから。ただ、その場合はわたしの行動が制限されてしまうでしょう? それって色々と不便なのよね。理解出来た? 理解出来たのなら、今決めなさい。ここで死ぬか、まだ続けるかを」

「悪魔を捨てられるだと? 戯言をぬかすな! 貴様は生まれたその時から許されざる悪魔だ! 悪魔は正しく処断されなければならない、おぞましき悪魔は――」

 雑音が邪魔だ。

 ヴラドは躊躇なく刀を投擲し、ダノラウトの右肺を貫いた。

「少し、黙れ」

 心臓や頭を射抜いてやっても良かったが、即死させるなんて生温いにも程がある。念入りに殺すのは、シャルロットの決断を聞いたあとでいい。

「答えろ」

 真っ直ぐに彼女を見据えながら、ヴラドは再度訪ねた。ダノラウトの姿を隠すように、自分だけを見るようにして訪ねた。

 それに対して、シャルロットは数秒の沈黙を挟み、

「…………この国のどこにも、もう私の居場所はありません」

 絞り出すように、そんな前置きをしてから、心情を吐露する。

「だから、この国の皆が望むままに死ぬことが、一番いい事なのかもしれません。私自身、生きていても良い事なんてなかったし、死ねるならそれで今よりはきっと幸せで…………でも、じゃあ一体、私はなんのために生きてきたのかなって、そう考えた時に凄く哀しくて、嫌で……教えてください。私は、どうすればいいんでしょうか……?」

 その問いは、背中を押してくれる事を祈っているように感じられた。少なくとも、リリスはそう捉えたのだろう。こちらに向けてくる視線には、上手くやれというニュアンスがあった。

 知った事じゃない。

「お前の人生だろうが。お前が自分で決めろ」

 突き放すように、ヴラドは答えた。

 嘘偽りない本心だ。

 それに対して、シャルロットは泣きそうな表情で微笑んで、

「……そうですね。本当に、そう」

 と、どこか吹っ切れた声で呟き、

「お願いします。私も、連れて行ってください。私、此処はもう嫌だから」

「……あぁ、わかった」

 これで、ここでの面倒はあと一つを残して終わりとなった。

 その一つに、視線を戻す。

「あ、あのっ――!」

 溢れ出した殺気に気付いてか、シャルロットが焦ったような声を上げたが、踏み出した足を止めるつもりはない。

 全身の魔力を昂ぶらせていく。

 ダノラウトは一応戦える人間なのか、身体に刺さった刀を抜いて、自身が腰に携えていた剣を構えたが、呼吸も儘ならない状態でなにかが出来るほどの強さは感じられない。

 が、少し時間を掛け過ぎたのか、増援がやってきた。

 見知った顔もいる。そいつが居なかったら、全てを蹴散らした上でダノラウトの手足を切り落として腹を裂き、頭蓋を踏み砕いていただろう。

 ヴラドは足を止め、かろうじてではあるが抑止力として唯一機能している相手であるオルガを見据えて、

「契約通り、この娘は貰っていく」

「……皆、武器を収めろ。これ以上、無駄な被害を生む必要はない。悪魔はこの国から去るのだからな」

 そう言って、オルガは地面に落ちていた長刀の柄の部分を向け、それをヴラドに差し出した。

 やりあえばどうなるか、この男はよく判っているのだ。それに、この男はシャルロットに同情的だった。

「素晴らしい対応ね。お前が誠実で良かった」

 不意に、漆黒の翼を展開したリリスが嗤う。

 おおかたクーレの妹か何かだと思っていたのだろう、突然明るみになった悪魔という存在に、オルガは驚愕の表情を浮かべる。

「ご褒美に一つ忠告をあげる。傭兵の事はもっとちゃんと調べた方がいいわ。でないと後悔するから。あっはは!」

 その顔が見たかったのだろう。リリスは実体化を解いて、

「さあ、さっさと退散しましょう。わたしも疲れたし。こんな奴等、殺す価値もない。でしょう?」

「……」

 理解に苦しむが、シャルロットとの関係のためにも、オルガの顔を立てろという事らしい。

 ヴラドは小さくため息をつきながら得物を仕舞い、シャルロットを空いている方の脇に抱きかかえて、

「行くぞ」

 と、クーレにそう告げて、増援どもから背を向け、軽やかに屋根から屋根へと跳び移りながら危険区域を離脱した。


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