03
「面を上げよ」
高慢さの滲んだその声に従って、ダノラウトは跪き頭を垂れていた状態から顔だけをあげた。
視界に、シルバーブロンドの見目麗しい少年が映る。
ユーリッヒ・リエル・レグナント。この国の最高権力者の一人にして、奇しくもシャルロットと同じ十七歳の、正しく大天使と契約した神子だ。
神子とは、おおよそ五億人に一人の割合で生まれる、桁違いに優れた器の許容量を持った存在の事を差す。魔力量なども常人の比ではないが、最も特質するべき点はそこだ。
それによって彼等は大天使や魔神などといった上位存在との契約を可能とし、圧倒的な魔力を手にする。そして、たった一人で国を滅ぼせるだけの戦略兵器としての価値を不動のものとするのだ。
クリスエレスには、そんな神子が不死という汚点を含めて三人いる。人口二億弱の国に三人もいるのだ。そういった点からも、いかに此処が世界に愛された土地であるのかというのが判るだろう。
「呼ばれた理由は理解しているね? ダノラウト」
「……はい」
否応なしに押し付けられる畏敬の念に身体を強張らせながら、ダノラウトは首肯する。
「あの戦場での件だけなら、その功績と、これまでの功績、なによりアステア殿の功績をもって温情を与えることも出来たが、召喚士が殺された以上そうもいかなくなった」
「……」
「心配せずとも、貴様が関与していない事はすでに判明している。だが、潔白の証明にはそれだけでは足りない。貴様自身の手で、この国の穢れを私の前に差し出せ。そこで私が直々に滅却する。――異論は、ないね?」
最後の言葉には、死を予感させるほどの圧力があった。
父が娘を断頭台に送るという行為に、もしかしたら反発を覚えるかもしれないと、極めて常識的な危惧を見せたのだ。
見当違いも甚だしい。それが、あまりにも愉快で、
「……もちろんでございます」
再び頭を垂れ、殊勝な声で従順を示しながらも、ダノラウトは自身の口元が歪に吊り上がるのを抑えることが出来なかった。
§
オルガの別荘で遅めの昼食を摂っている時、それは発生した。
周囲全てを呑みこむような膨大な魔力の展開。
それが一体何なのかを確認するため、ヴラドは食事を中断して部屋の窓を開ける。
隣を陣取ったリリスも空を見上げて、
「まるで海の中に落ちたみたいね。重苦しい青」
と、不快そうに呟いた。
その言葉通り、見上げる限りの全てが、空とは決定的に違うなにかによって覆われている。
魔力の色からして、おそらくは結界の類だ。ただし、守る事を目的にしているのではなく、これは内側のものを何一つ逃さない事を目的にしているようだった。
「結界の中心点は、上空七ヘクター(七キロ)くらいのところにある、あの一際明るい部分でしょうね。効果範囲は首都全域。半径にして五十ヘクター程度かしら。都市魔法陣が起動した形跡はなし。十中八九、神子の魔法ね。同格以上の神子でもない限り突破は不可能でしょう」
「……繋がっていると思うか?」
昨日のシャルロットの事を思いだしながら、ヴラドは訪ねる。
「それはすぐに判るわ。……ほら?」
呼び鈴が鳴った。
結界の所為で感度が鈍ったのか、音が鳴るまで気配に気付けなかった。この不具合は早急にチューニングする必要がありそうだ。
階段を下りて玄関に到着するまでにそれを済ませ、玄関越しの相手が誰なのかを魔力で判断する。
(あの元将軍か)
どうやら事情を説明するため、直々にやってきたようである。
付き人はいない。さすがに不用心な気もしたが、こちらから赴く手間が省けたのは良い事だ。
鍵を開けて、本来の持ち主を招き入れる。
「話は応接室でしましょう。ラウンジは、わたしの痕跡が残っているしね。――あぁ、その前に飲み物くらいは出してあげましょうか。単身、丸腰で乗り込んでくるなんて誠意を見せてくれているわけだし。まあ、ただの自惚れかもしれないけれど」
評価しているのか見下しているのか判らない口調でリリスが言った。
もちろん実体化は解いているので、その言葉が悪魔と契約していないオルガに届く事はない。
「先に応接室で待っていろ。飲み物を取ってくる。なにがいい?」
「……あぁ、水で構わない」
何故か少し戸惑ったよな反応を見せつつ、オルガは頷いた。
それに疑問を覚えていると
「家主である自分がゲストみたいな扱いを受けている事に、不思議な気分にでもなったんじゃない?」
と、投げやりなトーンでリリスが言った。
その読みがあっているのかどうかは不明だが、なんにしても大した理由ではなさそうだ。
一人キッチンに向かい、ここ数日で完全に私物化した冷蔵庫から水の入ったボトルを二つ取って、応接室に向かう。
ソファーに腰かけていた彼は、なにやら考え事をしていたようだった。
傍で動向を監視していたリリスにちらりと視線を向けると、
「怪しい動きはしていないわ。ただ、この男自身、ついさっき事情を知らされたみたい。だからまだ混乱の中に居る。こちらの要求を押し通すには悪くない状態ね。――さぁ、今から始めるわ。わたしの言葉を一言一句、違えずになぞって」
小さく頷き、オルガの対面に腰かける。
そして彼が水を一気に飲み干し、短く息を吐いたところで、
「この結界は、あの不死の娘と関係があるのか?」
と、ヴラドは話を切り出した。
すると彼は沈痛な面持ちで、今朝方、王宮にいる元部下から届けられた情報を口にした。
なんでも王宮内の牢獄に一時的に拘留されていた不死の娘だが、夕刻あたりに見張りの兵を二人殺して脱走。更に召喚士を三名ほど殺害した事も確認されたらしく、事態を重く見たユーリッヒという名の神子が結界を展開。昼過ぎには、賞金首として街中に報せも届けられる予定との事だった。
そのような措置を取ったという事は、誰かに匿われている可能性を疑っているのだろう。
「以上の事から、引き渡しは不可能になった。……すまない」
「処刑に変更か?」
「あぁ、神子が直々に手を下す事になったようだ」
「それで殺し切れたら良いが、そうならなかった場合は神子の絶対性に傷がつくに事になるな」
「そのようなことは――」
「あり得ないと断ずる事は出来ないだろう。相手も神子と契約した悪魔、魔神の類だ。保険はかけておくべきだと思うが?」
「それは、そうかもしれないが、だが、しかし――」
「塵になるだろう死体が再生する前に回収しろ。ダミーはこちらで用意する。それで仮に神子が力不足だったとしても、その汚点は隠し通せるだろう。悪い話ではないはずだ。いくつかの懸念が残る、こちらと違ってな」
「……わかった。そう取り計らおう」
絞り出すような声で、オルガは頷いた。
「良かった。最小限の不公平で済みそうで何よりだ。では、こちらも気が向いたら探しに出るとしよう。見つけた場合はどうすればいい?」
「出来れば穏便に進めたい。まずは安全を確保したうえで、連絡を寄越してくれると助かる。……これ以上、被害は増やしたくないのでな」
最後に独白のような呟きを残して、オルガは席を立った。
その姿を見送ってから、リリスは侮蔑を露わに鼻を鳴らす。
「これ以上被害は増やしたくないですって? ほんと、弱いって惨めね。自分の正義すらまともに選べないんだから。……まあいいわ。それより早く出かけましょう。言葉にした手前、探す素振りくらいはしておいてもいいでしょうし、あまり足止めされたくもないしね」
§
オルガが言っていたように、外には手配書がいたるところで配られていて、昨日に比べて多くの人間が駆け回っている様を見る事が出来た。
どいつもこいつも血走った目をしている。そこに含まれているのは欲望か憎悪だが、比率としては圧倒的に後者の方が多かった。
どう考えても、前者に傾くのが自然だろうに。
「ほんと、気色悪い国」
壁に張られていた手配書に目を向けていたリリスが、率直な嫌悪を吐き捨てる。実体化をしていない影響もあるのだろうが、言葉を飾る事すらもう面倒になってきたようだった。
まあ、その気持ちはよく判る。鼻息荒く横切った奴等を、ヴラドも何度八つ裂きにしてやろうかと思った事か。
「結界の所為もあるんでしょうけど、わたしの方も少し感覚が鈍っている。魔力感知だけに任せるというのはあまり得策ではなさそうね。空から探るわ。お前は……そうね、嫌でしょうけど、繁華街辺りを調べて」
言って、リリスは翼を羽ばたかせ百ヘクテルほど上空に移動した。
ヴラドも言われた通り繁華街へと歩を進めて、とりあえずは別行動となる。といっても、両者の関係性上あまり離れる事は出来ないが。
「――れ、ほんとうに――だとし――」
風に乗って、誰かの声が聞こえてきた。
微かな驚きを含んだ声だ。もしかしたら、シャルロットの行方に関する糸口になるかもしれない。
気乗りはしないがそちらに足を運びつつ、魔力で聴覚を高め聞き耳を立てる。
老若男女、驚くくらいに同じ話題で盛り上がっているのが、悪魔憑きという言葉ですぐに判った。本当に頻繁に、まるで口癖にする事が義務であるかのように、それは街中に溢れかえっている。
その中の複数人が、ある人物が彼女を匿っているのではないかという憶測を垂れ流していた。
かつて不死の娘の世話役をやっていた使用人の一人で、他の使用人と違いアステアが死んだ後もしばらくの間はその役に従事していたらしい。当時、二人で出歩いているところを目撃していたというのも根拠の一つのようだった。
正直弱いと思うが、他に手がかりもなし、彼等の跡を追ってみる。
すると、ある一軒家を囲む人だかりに出くわした。
中心にいるは、くだんの使用人と思わしき歩き方にぎこちなさのある女と、この国の秩序維持を担当する正規騎士たちだ。
家宅捜査がちょうど終わったのか、家から出てきた場面。
やはり見当違いだったのか、三人の騎士たちの表情にはバツの悪さがあった。
(……いや、違うな。他にも何かあったのか)
この街に来てからというもの、街を我が物顔で歩く騎士共の傲慢さは嫌でも目についていた。基本的に騎士という連中は内門の中に住んでいる上流階級だからだろう。特有の傲慢さがあるのだ。ゆえに、大した根拠もなく無実の市民を容疑者扱いしたくらいで、こいつらが悪びれる事はない。
だが、だとしたら、一体なにを見つけたのか。
答えは、女がすぐに教えてくれた。
「それで騎士様、私の無実は証明されましたか?」
抑揚のない声。
しかし、そこに込められているのは凄まじいまでの怒りだ。それを物語るように、女の右の目尻はぴくぴくと痙攣を起こしている。
「あ、あぁ」
「だったら、ぼけっとしてないで早く探せっ! さっさとあの薄汚い悪魔憑きを見つけて、四肢を切り落として処刑台に連れていきなさいよっ! 戦える身体があるんだから!」
突然の癇癪だった。
血走った眼を大きく見開き、怒声と一緒に唾まで吐いて、それ以前に醸し出していた淑女然とした装いを全て吹き飛ばす。
あまりの剣幕に、騎士たちの腰は完全に引けていた。
「……あぁ、ごめんなさい。少し熱くなってしまいました。でも、仕方がないですわよね? よりによって、この私があの悍ましい悪魔を匿っているだなんてふざけた事を言うんですもの。ふ、ふふ、ふふふ」
引き攣った笑みが、怒りがまったく治まっていない事を示している。
そんな女は、今度は自身の首をガリガリと引っ掻きはじめた。
爪に微量な魔力が滲んでいた所為か、紅い血の線が乱雑に刻まれる。無意識の行動だ。力加減がまったくできていない。
「お、おい、止めろ!」
自傷行為を止めようと、騎士の一人がその手首を掴む。
それで女ははっと我に返ったように力を抜いて、しかし狂気の方は一向に鎮まる事なく、
「もう大丈夫です。落ち着きましたから。ですから早く、早く、早く見つけてください。そしてアステア様の仇を討って。それを皆が切実に望んでいるのですから。……ねえ?」
周囲の野次馬を見渡し、にこやかな笑みと共に凄みを効かせた声を放った。
それから視線を騎士に戻し、
「そうだ、無駄に抵抗される事もあるでしょうから、これを使ってください」
と、空いていた手をスカートのポケットに入れて、紫色の液体の入った小瓶を取り出して言う。
「それは?」
「毒ですわ。私が悪魔を討つために用意した毒。服や武器を握るところにつけるだけでもしっかりと効果がありましたから、刃に塗れば十分動きを止める事が出来るでしょう。ふふ、本当、捨てなくて良かった。…………あぁ、でも、殺すことは出来ないのよね」
そこで、女はまた大きく眼を見開き焦点を失って、何度も何度も地面を力強く踏みつけだした。
「あぁ、あぁ、あぁああ! あの時、斬首されてでも強行するべきだった! 旦那様もきっと同じ後悔をしているはずだわ! 私の邪魔さえしなければ、こんな事にはなっていなかったのに! あの悪魔が本当の悪魔になる前に処断する事が出来たのに!」
両眼から涙が落ちる。
それが狂気の熱を冷ませたのか、女はその場にへたり込んで、おずおずと頭を地面につけ、
「ごめんなさい、皆さま。私がアステア様の名誉に泥を塗ってしまった。私がちゃんと殺せていれば、殺せていれば良かったのに……」
と、周囲に向けて謝罪をした。
それに対する彼等の反応は、共感と同情。
「貴女が謝るような事ではない。貴女のアステア様への信奉が本物である事、悪魔に対する正義の心が本物であることは、我々にも十分伝わった」
片膝をつき、毒の瓶を受け取った騎士の一人が労わるように言う。
「約束しよう。我々が必ず悍ましき悪魔を神子様の前へと引き摺りだすと。だからどうか、皆も自身が出来得る最大の貢献をもって、姑息にも身を隠す悪魔を炙り出して欲しい。――全ては、正しき大天使の世界の為に」
「「全ては正しき大天使の世界の為に!」」
周囲の連中が、示し合わせたような完璧なタイミングで復唱した。
そして彼等は一斉に行動を開始する。中年女の狂気に汚染されたみたいに、より多くの他者に悪魔を探す事を呼びかけだしたのだ
結果、戦いの術を持たない者までもが、包丁や短剣なんて貧相な武器をもって家を飛び出し、不死の娘を探し始める。
……あまりにも、常軌を逸した光景。
ここは僻地にある閉鎖的な村などではなく、二億人以上が属する大国の首都なのである。まあ、首都の人口自体は百五十万と他の大都市に比べて少ないし、この国自体他国との交流にも乏しいが、それでも鎖国しているわけではない。
にも拘わらず、多くの考えや価値観が入ってくる事自体は許容している中で、誰も中年女の主張に糾弾どころか疑問すらも抱かない。まだ悪魔憑きにもなっていなかった罪のない少女を毒殺しようとしたという告白を前に、謝る事はないという共通認識を抱いたのだ。
あげく、正義を後ろ盾に不死の娘を嬲れる事に喜色を覚えている輩も、この空気を前に増長していて――
「ちょうどこいつの試し切りをしたかったんだよなぁ、ほんといいタイミングだよ」
「俺も俺も。新しい魔法を覚えたからさ。死にかけてるところとかに出くわせたらいいんだけど」
「動く的じゃなかったら意味ないだろう?」
「そこはお前が足斬り落とすなりして状況を作る流れだろう? 期待してるぜ、相棒」
憎悪を愉しむ二人の若い民兵。
「頭が十点、胸が五点、手足が三点でどうだ? で、二十点を先に取った方が勝ち。負けた方は酒を奢る。あぁ、そうだ、未経験者のお前には少しハンデをやったほうがいいか?」
「ぬかせよ。背中から何度か誤射で殺した程度だろう? ってか、本当に死んでもすぐに復活するんだって? どこまでも気持ち悪い化物だよな」
「そうだな。だが、だからこそ我々に娯楽を提供するというささやかな貢献も出来るというわけだ。無論、その程度で犯した罪が償えるわけもないがな」
屋根の上を陣取った、大弓を持った二人の中年騎士。
他にも似たような声が、ちらほらと聞こえてきていた。
「――」
頭の中に、ザァア、ザァア、と波の音が流れ始める。
神経を引っ掻くような痛みを伴い、それはヴラド・ギーシュの過去の記憶を掬ってくる。
『全ては村のためだ。そしてこの村があるからこそ、お前たちは生きていられる』
『悍ましい化物共に役目が出来た。それを喜ぶべきだろう? 慈悲深い俺たちに感謝するのが道理だろうが!』
『でもほんと、あれが化物で良かったよなぁ。普通の人間だったら、あんな綺麗なの絶対にやれなかっただろうし――』
握りしめていた右の拳が、掌の皮膚を突き破って雫を滴らせた。
地面に落ちたそれは激しく振動し、赤い煙を立ち込めさせる。
ほどなくして、甘い血の匂いが鼻腔に充満した。
……頭の中から、討つべき男の聲がする。
『彼女を私から取り戻したいかい? だったら世界を変える方法を、神を殺す方法を教えてあげよう。まずは首輪を外すことだ。そして己を知る事。簡単な筈だよ? なぜなら君は――』
そこで、没入を遮るように見知った顔が視界を埋めた。
鼻同士が触れそうな距離に、リリスがいる。身の丈に合わない巨大な翼で浮遊しながら、こちらを真っ直ぐに見つめてきている。
「少し眼の色が朱い。わたしと出会う前の事でも思い出したか?」
普段とは違うトーン。
冷たい朱色の瞳が、ヴラドを映していた。
「……もういいだろう」
その見透かすような視線から逃れるように背中を向けて、ヴラドは足早に歩き出した。
そんな彼の隣に、契約した悪魔は並び、
「そうね。帰りましょうか。この様子なら、時間の問題でしょうしね」
§
確かに、それは時間の問題だったようで、シャルロットはすぐに見つかった。
ただ、まさか自分たちが第一発見者になるとは思ってもいなかったというのが、ヴラドにとってもリリスにとっても正直なところだった。
今この首都の話題の中心に居る少女は、なんと別荘の玄関の脇で体育座りをしてこちらを待っていたのである。
「どうやら、お前の魔力を頼りに此処まで来たようね。お前の色はとっても濃いから、お前自身が隠さない限りは多少の妨害があろうと探り当てるのは難しくないでしょうし。……まあ、なんにしても好都合」
ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべて、リリスはこちらに気付き顔をあげたシャルロットに向かって言った。
「ねぇ、お前がどうして此処に来たか当ててあげましょうか? ――あぁ、可哀想な娘。まさか自分を助けてくれるかもと思えた相手が、たった一度優しくしただけの他人しかいなかっただなんてね。でも、残念、お前を捕まえるといい事があるの。今のわたしたちには」
その言葉を聞いたシャルロットは目を見開いて驚き、次に怯えた表情を浮かべて……けれど、逃げるという選択は取らなかった。その意識すら、彼女は見せなかった。
代わりに、彼女は小さくわらった。
それは全てを諦めたような、とても寂しい表情で――
「……さっき、あの元将軍に言っていた、いくつかの懸念っていうのはなんだ?」
鋭い口調で、ヴラドは言った。
「なに、突然?」
「答えろ」
「たいした事じゃないわ」
「それを決めるのはお前じゃないだろう? 口だけ淫魔」
「……まあ、いいけれど。……中に入りましょう。ここでは落ち着いて話せないしね」
軽く肩をすくめて、リリスは玄関をすり抜け屋敷の中へと消えて行く。
ヴラドも険しい表情でドアを開けて、
「……早くしろ」
まごつくシャルロットに告げて、ラウンジへと戻った。
「座りなさい。わたし、人間に見下ろされるのって大嫌いなの」
ぼうっと突っ立っているシャルロットにそう言ってから、ソファーに腰かけたリリスが話しはじめる。
「お前、昨日の記憶は確か?」
「……いえ」
「理由を教えてあげましょうか? 死に過ぎよ。いくら肉体が不死身だからって精神は別物。多少の耐性を得ていたとしても、すり減りすぎれば隙間が出来る。お前が契約した悪魔が、お前から主導権をかすめ取って動き出せる程度の隙間がね」
昨日の凶行はつまり悪魔が行っていた事で、シャルロットはおそらくすべてが終わった後に自我を取り戻し、途方にくれた末に此処を頼ったのだ。
「そいつと話がしたいのだけど、出来る?」
「……」
シャルロットは少しの間をもってから、小さく首を左右に振った。
「まあ、そうでしょうね。お前は悪魔を心の底から拒絶している。だから、お前の意識があるとき、そいつはお前の行動に何一つ干渉できない――いや、不死の力の維持だけに努めざるを得ないというのが正解かしら? うっかり死なれたら困るものね、お前の精神だけが死んで、自由に身体を動かせるようになるまでは」
と、そこで、リリスの視線がヴラドへと流れる。
「これが一番の懸念よ。人間の娘一匹を連れて歩くことになるのか、それとも悪魔を一匹連れて歩くことになるのか。わたしはどっちでもいいけれど、お前にとってはどうなのかってね」
「……」
「少し、時間を取りましょうか? 渡すのは今すぐでなくてもいいし、見つからない時間が延びるほど、それを手にしているという価値も増す事だしね。わたしはもう寝るわ。なんだか無駄に疲れたし」
そう言って、リリスは私室に使っている部屋へと戻っていく。
その途中、すれ違ったところで彼女は小さくシャルロットに囁いた。
「これは猶予、わかってる?」
§
意味深な言葉を残して悪魔が去り、シャルロットはヴラドと二人きりになる。
彼はこちらに興味などないと言わんばかりに、得物である刀の手入れを始めて……最初は斬られるのかと思ったが、ただただ乾いた沈黙だけが続いた。
慣れた居心地も悪さだ。それに少しだけ安堵を覚えつつ、シャルロットは先程の言葉の意味を考える。
(猶予? なんの?)
すぐにはぴんと来ないので、自分は判っていないという事だ。
そもそも、現状だってまだろくに理解出来ていない。彼女の言う通り、昨日の記憶の多くが抜けていて、リリスの言葉でここに来た理由にも気付かされるような有様で、それが酷く悲しくて……でも、彼女が言った、死に過ぎという言葉には、一つの希望があった。
永遠にこれが続くと思っていたシャルロットにとって、そこには確かな終わりが見えたからだ。あと何回か死んだら、自分の意識はもう二度と目覚めないかもしれない。それが分かっただけでも、此処に来て良かったと思えた。
だからだろうか、無意識のうちにシャルロットは口元を綻ばせて――
「なにが可笑しい?」
こちらを見ていなかったはずのヴラドが、刺すような声で訪ねてくる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
殆ど反射的に顔を自身の腕で守りながら身体を強張らせると、ヴラドは不機嫌そうな表情を浮かべながら、
「謝れなんて言ってない。俺は……なにが可笑しいのか、訊いただけだ」
と、怖さを抑えたトーンで繰り返した。
そこにあったのは、僅かであったとしてもこちらへの気遣いだ。シャルロットにとっては珍しいにも程がある温かさ。
「あ、そ、それは、その、此処に来てよかったなって。その、色々と、疲れちゃったから……」
自分の吐いた言葉で、それを強く自覚する。
同時に、少しだけ開き直れた。どうせもうじき死ぬのだから、繕った言葉ばかりを並べても仕方がないって思えたのだ。そして少しだけ、少しだけでいいから、この人に自分の事を知ってもらいたいと思った。せめて一人くらいは、自分の事を赦してくれる人が欲しかったから。
「私、生まれた時から、英雄になれって、ならなければならないって教えられてきたんです。神様の魂の一部を宿して生まれた神子だから、私を生むためにお母様が亡くなる事になったのだからって。それで毎日毎日、魔法や剣、社交場の振る舞いとかの練習をして、お父様より先生に会っている時間の方がずっと長くて……」
その教師たちは、いつも成果を求めて必死だった。多分、なにかしらのノルマを課されていたんだと思う。そこに届かなかったら、ただでは済まされないようなリスクがあったのだ。
だからだろうか、誰もシャルロット本人の事なんて見てはくれなかった。能力と結果だけ。それ以外にはなんの価値もないみたいに、彼等はグゥオン家の神子だけを見ていた。
「でも、契約者になって神子として完成すれば、お父様にも会える時間が増えて、私自身がしたい事とかも増えるのかなって勝手に思ってたから、そんなに苦ではなかったんです。それに、契約者になれること自体は、楽しみだったし」
「楽しみ?」
「独りじゃなくなると、思ってたから……」
魂を分け合う存在。
死以外では、けして別たれることのない半身。それが契約者だ。
もう一種類の魔法を使えるようになるとか、魔力を飛躍的に高める事が出来るとか、上位世界の叡智を得る事が出来るとか、恩恵は色々とあるみたいだけど、シャルロットが一番惹かれた理由はそれだった。
「早く契約者になりたかった。十歳の誕生日が楽しみだった。どんな天使が、私を支えてくれるんだろうって……」
でも、契約した相手は悪魔だった。
名前も知らない、意志疎通も出来ない、ただただ自分の全てを壊しただけの存在。
「……私、悪魔と契約したいなんて思った事ない。計画の邪魔なんてしてない。皆に言われた通りの手順で、言われた通りの相手と契約したの。白い翼だったから、言われていた通りの特徴だったから、天使だと思ったの」
――だけど、最終的な決定権はシャルロットにあって、そしてシャルロットは悪魔を選んだ。
その事実は覆せない。過失もまた罪なのだ。
違えてはいけない。違えてはいけない。違えてはいけない。罪人は罪人として弁えなければならない。
冷たい自分の聲が、惨めな自己弁護に冷や水をかける。激しい後悔が押し寄せて、否応なくこの身を震わせ、俯かせる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。結局、私が莫迦だったんです。どうしようもなく愚かで、考えなしで、その所為で全部台無しにして、私、誰かに愚痴を言う権利なんてないのに――」
言葉の途中で、首に圧力が加わった。
条件反射でそれを行う腕を掴んだところで、自分が彼に絞められている事実に気付く。
「――ふざけるなよ」
どうしてという疑問は、信じがたいほどに恐い声によって潰された。
全身に彼の魔力が流れ込んでくる。――熱い、痛い、怖い、苦しい。慣れている類とはまったく違う、身体ではなく魂を蹂躪するような暴力。
「選ぶ権利も与えられなかった者に決めた責任があるだと? 責められるべきはそれを悪魔と見抜くことも出来なかった能無し共だろうが……!」
押し殺した怒声が、室内を慄かせた。
「で、でも、わ、私は――」
「もういい、喋るな」
首への圧力が増して、シャルロットの意識はあっという間に途絶する。
間際に見たのは、爛々と輝く朱い瞳と、まるで自分がそうされているみたいに苦しそうな、彼の表情だった。
§
「まったく、お前は本当に人間を口説くのが下手ね」
心底呆れた様子で、リリスは言った。
「お前が優しく振る舞ってあげれば、それだけで依存させる事も出来たでしょうに。よりによって暴力という他と同じ手段をとるなんて、これで管理が面倒くさくなった」
夕刻に差し掛かった街を今、二人は歩いている。
視線の先には、先程首を絞めた少女がいた。
周囲は彼女に気付いていない。というよりそこに人間がいる事すら認識できていないようだった。
そんな彼女は、堂々とした足取りで狭い路地をするすると進み、どこかに向かっている。
「まあ、過ぎた事を言っても仕方がないわね。あの不快な呪いを焼き切れたのは良い事だし、それに悪魔を表に出す必要があったのも事実。あれの背景は出来るだけ洗っておきたいしね」
「……いつからだ?」
リリスの小言を全て無視していたヴラドは、苛立ちを抑えきれない声で訪ねた。
「もちろん、それは神子が生まれたその時からでしょうね。十年越しの計画によって、彼等はこの国の戦略兵器の卵をただの不死身にまで貶めた。人間にとってはそこそこ長い期間ね。だけど悪魔や天使にとっては、欠伸程度の一拍でしかない」
「どこまでが予定通り?」
「結界を張らせたところまではそうなんじゃない? これによって神子の力を相当消耗させることに成功している。いるわよ、別の神子が。既にこの国に潜んでいる。それが目下戦争中のエンシェのものなのか、別の勢力なのかまではわからないけれど……まあ、わたしたちにはどうでもいい話ね。相手が誰であれ上手く利用するだけ。重要なのは、そいつが神子に一撃を喰らわせるタイミングだけよ。結界を維持できない程度にはしてもらわないと、お前のスタンス次第では困るかもしれないわけだし」
「……」
シャルロットの肉体を操っている不死の悪魔が、この辺りでは一際大きな屋敷に足を踏み入れた。
神子が生まれた時から計画されていたのだとしたら、当然この国には主犯がいる。屋敷の主がそうである可能性は高い。
「こら、殺気を漏らすな。尾行に気付かれる。今言ったばかりでしょう。奴等を利用する事こそ肝要。だから、ここはわたしに任せておきなさい。完璧な隠密スキルをもったわたしが、しっかりと必要な情報を拾ってきてあげるから」
「完璧? 悪魔関係にはバレる」
今尾行している少女を筆頭に、他にも潜んでいる奴が居ないとも限らない。
「莫迦ね。わたしはこの世界で有数といってもいいほど聡明で、絶世と言っていいほど可憐な、只者ではない淫魔なのよ。くだらない心配などせず、お前はただ、わたしを称える言葉を考えて待っていればいいの。簡単でしょう?」
くすくすと蠱惑的な微笑をもって、リリスは自分の要求を押し通す姿勢のようだ。こうなると、どちらに転んでも疲れる事になる。
その面倒を今負う気にはなれなかったヴラドは、ため息をついて、仕方なくそれを受け入れた。
§
激情という名の獣を躾けて、なんとか一人になれた。
もしあのままヴラドに任せていたら、一体どうなっていた事か。最悪、計画がとん挫していた可能性もあっただろう。
(生の半分以上を費やしてきたものを感情一つで無駄に出来るのも、人間の特権か)
もっとも、抑えが効かないほどに度し難い激情を抱えられるからこそ、十年変わらず目的を持ち続けたともいえるので、そのあたりは一長一短だ。
似た者同士、リリスも理解出来る。だから責めはしない。
(……さて、わたしもそろそろ気持ちを切り替えないとね)
シャルロットが屋敷の中に消えたタイミングで、こちらも屋敷の敷地に足を踏み入れる。
眼を閉じて魔力の気配を探ると、中に三人いるのが判った。ついでに耳を澄ませば声も聞こえてくる。
「どういう状況かわかるか?」
男のような口調で、シャルロットが誰かに訪ねた。
こちらが概ね把握している内容が、あまり良くない要領で語られていく。
その隙に、リリスはシャルロットたちを覗けるポジションについた。
彼女はこちらに背中を向けているので、三人の男が悪魔憑きでなければ気付かれる事はないだろう。そしてここは天使の国、悪魔と契約した者を好んで潜伏させはしない。誰もがヴラドやクーレのように悪魔の気配を上手く隠せるわけではないからだ。
「まあ、なんにしても、合流地点に誰かいたのは幸いだ。それが目の保養にもならない醜悪共だったとしても、情報には一定の価値がある」
自由に身体を操れている事が嬉しいようで、シャルロットの言動の多くはウキウキとしていた。先程見せていた卑屈さなど見る影もない。
先日の召喚士殺しにしても、おそらくはそういった感情を発散するための独断だったのだろう。別に彼女自身の手で行わずとも、ヴラドたちの殺害を彼女の所為にすれば済むだけの話だったからだ。
それもあって三人はイラついているのだと、リリスは適当に推理する。
「いいからついて来い」
そのうちの一人が、侮蔑も加わったことで我慢の限界となったのか、舌打ちと共に高圧的な態度で言った――途端、その男の両足が、ぶつん、という音を立てて切断され、悲鳴が溢れるより先に喉に風穴が開いた。暴力を黒く圧縮した閃光が、男の身体を破壊したのだ。
「ついて来い、ではないだろう?」
それを行ったシャルロットの声は、実に冷めたものだった。悦に浸っているところに水を差され、気分を損ねたといったところだろうか。
「人間風情が、この姿の所為で忘れたか? それとも私が誰かも聞かされていないのか? 言ってみろ、貴様たちは今誰に口をきいている?」
「も、申し訳ありません、マヌラカルタ様」
死の恐怖に怯えながら、別の男が掠れた声で言った。
その名前にリリスは大きく目を見開き、徐々に目を細めながら眉を深く顰めていく。
(……困ったわね。まさか大当たりも大当たりの方だったとは)
悪魔を連れて歩いたほうが、よほど都合がよくなってしまった。それを、どうやってヴラドに納得させるか……
「最低限の礼儀は持参しているようで何よりだ。死体が出なくて良かったな」
考えている間にも、話は進む。
「なにをしている? 早く門を開け」
その命令に従って、無事な二人が背後にあった空間の歪に手を伸ばした。
空間と空間を繋ぐ転移門が開かれる。
(首都内だとは思うけれど、大丈夫かしら?)
ヴラドがリリスに提供している魔力は、実体化がギリギリ行える程度の量だ。そして契約者の鉄則として、離れれば離れるほど活動に必要な魔力は大きくなる。それは実体化をしていなくても同じだ。当然、足りなくなれば、意識を外に残す事は出来ない。
(嫌な状況ね)
まあ、とはいえ、最悪ヴラドの中に戻るだけだ。大した問題にはならない。
門に向かってマヌラカルタが一歩踏み出したのを見計らって、
「遅れて申し訳ありません。こちらの準備も完了いたしました」
と、リリスはさも彼等の仲間であるような物言いとともに、その後に続いた。
二人の男はやはり悪魔憑きではなかったようで一切反応を見せなかったが、仲間が一人些細な対応ミスで死にかけているのだ。彼等がマヌラカルタだけに集中するのは自然な事で、不死の魔神がそこに違和感を抱くことはなかった。
「まったく、神を迎える気があるのか、甚だ疑問だな」
という不満をこぼしつつ、門の中へと消えて行く。
続けて二人が死にかけの一人を抱えて中に入り、門が消える間際にリリスも後を追い掛けた。
(…………予想通り、ここは首都の中心部のようね)
ヴラドとの距離でなんとなく、今自分が居る場所を把握する。
召喚士を始末した際に入り込んだ領域の更にその奥、つまりは最上流階級の住まいだ。内門の結界を無視して中に入れたという事は、神子の関与があるのも間違いなさそう。
「ここは覚えているが、相変わらず妬みの念に満ちているな。悪魔がそういう匂いを好むと本気で信じているのか。だとしたら、地上の情報戦は相変わらず天使共が優位にあるという事か。まったく、嘆かわしい話だな」
豪奢な屋敷内にこびりついている感情の澱を見てそんな事をぼやきつつ、マヌラカルタが案内を求めずに歩き出す。
「貴様たちはもういいぞ。ここの主の場所は、一際濃い匂いのおかげで既に分かっているからな」
出来れば従者どもを連れて動いてくれた方が好ましかったのだが、仕方がない。
ひとまず別れて、聞き耳を立てやすい場所を探す。
屋敷の主の居場所に関しては、マヌラカルタが口にしていた通り匂いですぐに判ったので、さして難しい事ではなかった。まあ、その匂いの感じ方には、若干の祖語もあったが。
「これはこれはレナリア叔母様、ご機嫌麗しゅう」
芝居がかった口調で、今リリスがいる部屋の隣のドアを開けたマヌラカルタが言う。
「止めろ、おぞましき悪魔が」
冷めた声で、レナリアは吐き捨てた。
この国の人間とは思えないくらいに、そこには憎悪がない。あるのは嫌悪だけ。つまり自前の感情だけという事である。
「悪魔? 私の目の前にもいるようだが、果たしてどちらの事を指しているのかな?」
愉しげにマヌラカルタが嗤い、部屋の中に入りドアを閉める。
それで、おおよその事情は掴めた。
「そう怖い顔をするな、これは褒め言葉だ。なにせ、三人になるはずだったクリスエレスの神子を実質二人に留めたうえ、こうしてエンシェの神子の数を一人増やすことにも成功したわけだからな。まったく大した国賊だよ。嫉妬という感情は凄まじいな。
「……」
「悪魔憑きの血縁者でありながら、この地位にまだ居る事も素晴らしい。一体どれだけ汚い事をしてきたんだ?」
押し黙るレナリアを更に追い詰めるように、マヌラカルタは言葉を躍らせる。
両者の姿は見えないが、それでも悪魔が実に悪魔らしく微笑んでいるのは想像に容易かった。
「……ただの実力よ」
「悪魔にも話せない事なのか? それは頼もしい限りだな。――ところで、叔母様はこれから世界がどうなっていくのかについては、聞かされているのかな?」
「? なにを突然……」
「これまでの功績に対する褒美の一つだよ。私の知っている事を教えてあげると言っているんだ。これから先、エンシェに属した自分がなんのために命を消費していくことになるのか、知っておきたいんじゃないかと思ってね。 ……あぁ、それとも、焦がれた男を自分から奪った妹の名誉を貶める事以外は、どうでも良かったか?」
侮蔑されている事を強く感じたのだろう、露骨にむっとした気配を零しながら、レナリアは言った。
「では、いくつか聞かせてもらっても良いかしら?」
「どうぞ」
「まずは、そうね、何故天使と悪魔は人間の世界で争っているの?」
「それをこの国では、なんと教えているんだったかな?」
「世界という名の神であるルーメサイトが人間に与えた試練だそうよ。もちろん、私は信じていないわ。天使共の教えなんてものはね」
不平等の権化が平等を語る。滑稽極まりない話だ。
レナリアは心底、天使というものが嫌いで、そんな者達が人間の世界を汚染している事実がずっと気に入らなかったのだろう。だからこそ、どうでも良さそうに問いかけながらも、そこに耳を傾ける彼女の気配は真剣だった。
そしてそれを受け止めるマヌラカルタもまた、味方に対する情報提供を、悪魔に都合のいい嘘で固める事はしなかったようだ。
彼は言った。
「端的に言ってしまえば、上位存在同士が直接戦争をする手段を失っているからだ。叔母様も、一度は見た事があるんじゃないか? あの奇蹟のように美しい『蒼黒の太陽』を」
「……ええ、それはまあ、あるけれど」
特定の時期、夜と朝、或いは夕と夜の境目に露わとなる空一面を燃やす蒼焔と、その全てを喰らいかねない熱を呑みこみ続ける黒点は、この世界のどこでも見る事の出来る唯一の現象だ。
「あの太陽によって、上位世界の接続面の殆どは何者も存在出来ない灰燼世界へと変わってしまった。故に、人間を経由しなければ、我々上位存在は他の上位存在と接触する術も失ってしまったというわけだ」
「なぜ、そこまでして接触をする必要があるのかしら?」
「ずいぶんとつまらない事を訊くのだな。そんなものは貴女が一番よく判っているでしょう? ねぇ、お姉さま」
「――、」
ぎりっ、とレナリアが歯を軋ませる音が届く。
嫉妬や憎悪に合理性などないという事は、確かにこの女が一番判っているようだ。
そんな惨めな女をせせら笑いながら、マヌラカルタは一つ捕捉を加えた。
「だが、強いて言うなら、そういう風に生み出されたからだよ。戦争は発展の母ともいうしな。そういう目的なのだろうさ。まあ、既に形骸化している部分もあるがね。無論、エンシェは違うが」
「天使と悪魔が共生している国なのに?」
「質問はあと一つだ。どうやら貴様との話は、思っていた以上に退屈そうだからな」
「……そう、それは残念ね。では最後の質問。そのエンシェは、なにを目的にしているのかしら?」
「国としての目的については知らない。そちらの主導権の多くは人間がもっているし、人間はすぐに死ぬからな。目的もすぐに変わる。まあ、それでもザーラッハへの対抗は最優先の項目に残しているだろう。さすがに大陸の中心たるあの大国を軽んじるような有様なら、人間などそもそも要らないという話になっているだろうしな」
「でしょうね。この愚かな国ですら、彼等が大陸中に蔓延させている傭兵という存在の権威を、完全には排除できなかったくらいだし」
「神子がいれば全てが解決するのは、神子が居ない国に対してだけだからな。最低限の備えは確保しておきたかったのだろう。もっとも、最低限である時点でこの国は他の多くの神子を抱える国を侮っている。ザーラッハとルウォの二大帝国以外は格下とでも言っているかのように。まあ、その増長を叩き潰す機会が自由を手にして早々に訪れるというのは、なかなかに気分のいいものでもあるが――と、話が少し逸れたな」
そこで、こほん、とわざとらしい咳払いを一つして、マヌラカルタは言った。
「我々エンシェは、創設した当初から真なる共存を目的にしている。要は、人間界の位階を引き上げる事を目指しているというわけだ」
「位階?」
人間には聞き慣れない言葉だからだろう、レナリアはあまりぴんと来ていない様子だ。
だが、すぐに察するあたり頭の回転は思ったより悪くない。
「……つまり、人間を悪魔や天使たちと同列の存在にするという事でいいのよね? でも、それをしてどうなるというの?」
「蒼黒の太陽によって生じた空白を埋めるのさ。この領域を差し込む、或いはこの領域で押し出す形でな。そして接点を取り戻す」
「なるほど、形骸化している今の在り方を否定する事が目的というわけね。より大きな戦争を求めている。それが貴方たちの存在意義だから」
「実に健全だろう? そのための一時的な共闘だ。……さて、それを知った上で、最後の確認といこう。これから貴様はどうする?」
「どうするって、今更ね。私は既に選んでいるのよ。他の選択肢はない」
「選択肢がない? それは違うな。なにせ自死という道がある。貴様は取るに足らない人間だからな」
「……そうね、嫌気が差したらそうさせて頂くわ。でも、今は歓迎して欲しい気分よ。スケールの大きな話は嫌いじゃないから」
「そうか、それは良かった」
と、マヌラカルタはそこでどうでもいい話を終えて、神子を殺す手順という、こちらにとっての本題に入った。
どうやら、魔力が切れる前に目的は果たせそうだ。
その事実に安堵しつつ、リリスは彼等の話をしっかりと頭の中に入れていき……
「ふむ、そろそろ宿主の意識が戻ってくる。一応保険も掛けたので急ぐ必要はないが、もう一度殺せば主導権は完全に私のものになるだろう。それをより早く、確実なものにするためにも、出来れば鮮烈な絶望と共にトドメを刺してもらいたい。叔母様は、そういうの得意でしょう?」
(……と、こっちも時間切れか。まあ、情報はこれで十分ね)
外に存在するのに必要な魔力が尽きて、ヴラドの元に強制的に戻される事が決まったところで、ほんの少しだけ憂いを滲ませた。
支障は、本当にないに等しいのだが、それでも戻りたくない理由があったのだ。
あの領域は、あまりにも両者の距離が近くて、否応なく感情が引っ張られてしまうから。
(……でも、久しぶりに思い出すのも、悪くはない。原点回帰は必要だものね。ええ、そういう事にしておきましょう)
身体が霧散していく最中、言い聞かせてなお苦さを覚える自身に呆れつつ、リリスは己が半身の元へとその意識を還した。
§
魂と魂、魔力と魔力を結ぶ契約という行為をすれば、大なり小なり必ず両者の背景が姿を見せるもので、人間界への門が開かれた際リリスに流れ込んできた光景は、陰惨なまでの朱だった。
小さな村が拵えた文明の全てが燃え、そこに生きていた人間という汚物が四肢を切り飛ばされ汚濁な合唱に興じている。
大地に血を啜らせ、命を吸わせて為し得る召喚の儀式。
継ぎ接ぎだらけ誤りだらけで、何故成立したのかすら判らない喜劇。
そのような地獄を成し遂げたのは、痩せ細った十歳そこらの少年だった。皮膚のない、剥き出しの血管のいくつかから絶えず血を流し、命を損い続けている歪な存在。
そんな彼は、自身と他人の血で周囲の色に溶け込むようにしながらその場に座り込んで、儀式の成功をじっと待っている。
村人たちの声が尽きても、夜が終わりを迎えそうになっていても、微動だにすることなく、拙い魔法陣の中心を睨み続けている。
健気な有様だ。そしてリリスが結論を出すには十分な時間でもあった。
この出会いは、おそらく二度とない奇蹟。
リリスは自らも門に手を伸ばし、少年の魂に自身の意識を伸ばして――
「――」
少年も、そこでリリスを視たのだろう。死んだような瞳に、驚きと恐怖が宿ったのが解った。
ただ、それはほんの一瞬だ。
「……ヨ、コセ」
喋る事が苦手なのか、赤子に毛の生えたような発音が、耳に届いた。
底無しの闇を孕んだ真紅が、こちらを真っ直ぐに捉えている。もはや揺らぎはどこにもない。
その瞳から、此処に至った理由――ヴラド・ギーシュという名の『忌子』の記憶も流れ込んできた。
最上位の淫魔と人間の混血。
凄まじい魔力と凶悪な特性を持って生まれた反面、日常生活に支障が出るレベルで身体がそれに適応出来ておらず、非常に短い時間しか脅威になれないという致命的な欠陥につけこまれ、下等な人間に支配されてきた哀れな存在。
言葉もロクに教わることなく、彼はただただ村のために殺す事だけを要求され続けてきた。
なにかを求める心など、彼にはないに等しかったのだろう。
だが、彼は自身の世界を変える神子に出会ってしまった。
悍ましい話だが、村にはもう一人似たような境遇の少女がいたのだ。無知な村人共が天泪を浴び神子として生まれた者を、同じように異物と交わって生まれ落ちた者だと誤認した所為で忌子にされてしまった少女が。
そんな少女もまた鎖で繋がれ、その身に宿った特性を利用されて、時に村の生活領域を狭める『世界の膿』という名の猛毒の浄化に、時に男共の慰み者として扱われてきた。
管理というものは、まとめて行う方が楽だ。故に両者は近いところに置かれていて、当然のように出会った。
互いが互いを心許せる者とするのもまた、必然だったのだろう。
忌子と神子という似て非なる二人は、そうして寄り添い、深く結びつくことになった。
けれど、その時間は永くは続かなかった。
村は自身たちを困窮させていた膿が消え、神子の価値が半減したと見るや否や、大金欲しさに彼女を売り払ったのだ。生贄の供物として使われる事を知りながら。
彼等は、それでも問題なく日々が続くと信じていた。神子の存在が、彼等の生命線になっていただなんて知りもしなかった。
結果はご覧の通り。
成長と共に欠陥を克服していた忌子の少年は、自身を構築していた世界を完膚なきまでに壊し、約十年後に機能する、星を用いた儀式のために殺される事が約束されてしまった神子の少女の未来を取り戻すことを決めた。今の自分の力では到底届かない相手を殺すために、全てを費やすことを決意した。
「……なるほど、たしかにお前には、私を呼ぶ資格があったようだ」
愛しい者を奪われた弱者同士、そしてそれをけして許せない愚か者同士、波長が合ったからこそ、この邂逅は成ったのだ。
あの時の気持ちは、今でも鮮明に覚えている。
ありったけの憎悪と、眩暈がするほどの歓喜。あれは、まさに再誕の熱だった。全ての後悔を殺し尽くし、全てを後悔させて余りあるほどの。




