26/復讐に至るまでⅣ
ベッドに腰かけて、ぼんやりと窓から庭に居るクルジェを見る。
彼は今、オルガの手ほどきを受けている。こちらが満足に動けない間、代わりに稽古をしてもらうという条件で、レナリアは此処に留まる事を受け入れたのだ。
(無様な体捌き、鈍い感覚、察しの悪い頭)
オルガの眼に、果たして彼はどう映っているのだろうか。
或いは自分の教育が悪かったせいでくすぶっている可能性なども考えたが、多くの部下を育ててきたオルガであっても、クルジェを特別にする事は出来なさそうだった。
まあ、別に彼にそんなものを求めていたわけでもないので、失望を覚える事もないが。
(……でも、動きの硬さは減った)
それはきっとオルガが恐怖の対象ではないからだろう。委縮せずに動けている。
とはいえ、緊張感がないわけでもない。必死なのは変わらない。
見られている事に気付いているわけでもないだろうに、楽しい事なんて何もないだろうに、クルジェはとても真剣で、あまりにも必死で……俯瞰した状態で見ていたからだろうか、おかげでようやくそれに気付いて、酷い眩暈に襲われた。
(私、ほんと、同じね)
あの両親と同じ。
理想を子供に押し付けて、叶わなかったら全てを否定して、何一つ今目の前で足掻いている者を認めない。
「く、ふふ、あはは……」
乾いた笑みを漏らしながら、レナリアは静かに涙を流した。
§
今日もまた、オルガが稽古をつけている。
今回は魔法の稽古だ。魔力の放出というものは、身体能力に必要な魔力操作とは全く違うので、必要な才能も大きく異なる。
(私に、才能はあったのかしら?)
魔法を使う事自体が罪とされたレナリアには、そもそもそれを知る機会もなかったわけだが……まあ、それはさておき、クルジェの才能はあいも変わらず平凡だった。
太陽ではなく、ただの光の魔法。
熱を構築する能力に非常に劣るそれは、しかし、クリスエレスの社会では比較的好まれる色だ。
(だったら、問題はないわね)
才能はないが、不備もない。
アステア関連から目を瞑れば、きっとそれで十分なのだ。むしろ、一般の枠組みで見るのなら、十分優秀の部類としてやっていけることだろう。
その事実が、最後の歯止めを殺してくれたのかもしれない。
身体もある程度は動くようになったこともあり、レナリアは穏やかな気持ちで実行日を三日後と決め……その日、久しぶりに剣を手に取った。
オルガは所用で夜まで帰ってこない。
「構えなさい」
「は、はい」
魔力の通りも悪い刃落とし剣。だが、そんなものでも魔力で身を守らなければ人間は簡単に死ぬ。結構な人が忘れている事だ。
それを思い出しながら、今まで以上に攻撃的にレナリアは訓練という名の暴力をふるっていく。
みるみるうちにクルジェの身体に傷が刻まれていった。その度に暴言も加えて、精神にも負荷を掛けていく。
怯えた目に、憎悪が宿るのを待つ。
(……我慢強さだけは、私以上かもね)
ようやく滲ませた感情を前に、内心でため息をつきながら、レナリアは大きく剣を振り上げた。
渾身の魔力を込めて、殺気を纏った一撃を打ちおろす。
(ぼけっとするな、踏み込まないと死ぬわよ?)
それが判らないほど、愚かではない事は知っている。
その読みのままにクルジェは活路に向かって右足を伸ばし、剣を振り抜いた。
遅い。躱す事も防ぐ事も、レナリアには簡単だった。
ただ、それをする理由が、もうない。
レナリアはずっと、両親を殺したかった。妹以上に彼等を憎んでいた。奴等がこそが全ての元凶だと認識していたから。……けれど、一度も彼等に牙を剥いた事はない。刷り込まれてきた価値観の所為だ。それは巨大な呪いとして、ここまで全身を蝕んだ。
きっと、解くにはある種の結果を手にするしかないのだろう。
ろうそくを吹き消すように、纏っていた魔力を霧散させる。
直後、クルジェががむしゃらに振り抜いた剣がレナリアの身体を切り裂いた。
「――え?」
当たるとも思っていなかったのだろう。ずいぶんと間の抜けた声だった。
鮮血が庭の草を濡らす。
鈍く重たい痛みと、生命の喪失感。
即死とならなかったが、この分なら問題なく死ねそうだ。
衝撃に押される形で、仰向けに倒れる。
曇天から、ぱらぱらと雨が降り出していた。
「……少しは、強くなったのね。油断、したわ」
心にもない言葉を並べる自分が、可笑しかった。
昨日書いた遺言にも記してあるので、この自殺についてはオルガが上手く処理する筈だ。人を憐れんだ罰である。せいぜい苦労すればいい。
「――お、お母様っ!?」
ずいぶんと大きな声で叫んで、クルジェが剣を手放した。
両膝をついて、こちらの顔と傷口を交互に見て、動揺に震えている。
「これで、お前は自由。あとは、好きに、すればいい。私に出来なかったことを、すればいい」
この声は、果たして届いただろうか。
まあ、別に、もうどうでもいい。
やっと、終われるのだ。
やっと――
だがそれを拒むように、クルジェは止血を試みた。
魔力を流し込んで、こちらの自己治癒能力に働きかけてくる。
意味が解らなかった。この子にとって、自分は恐怖と憎悪の対象でしかない筈で、檻以外の何物でもない筈なのに、どうして躊躇なくそんな事をするのか……。
「嫌です。ダメですっ! うぐっ、ひ、独りにしないでっ!」
止まらない血に顔を歪めて、涙を滲ませて、叫ぶ。
本当に、意味が解らない。
「なんで、泣いているのよ……?」
判らないままに、レナリアもまた涙を零した。
全てが終わったと感じた先日のものと違って、それは酷く熱くて、苦しくて……せっかく、死ねると思ったのに、しがみついてくる熱があまりに煩わしい所為で、それも出来なくなって、
(ほんとう、莫迦みたいね)
彼は、今まで独りではなかった。そして、それを認めてしまった時点で、自分もまた、けして独りではなかったという事なのだろう。
その事実に、力なく微笑みながら、レナリアは眼を閉じた。
今から治癒に専念しても間に合うかどうかわからないが、それでも独りは嫌だからと、手放した自己治癒に全ての魔力を注ぎながら。
§
目が覚めた。
傍らにはクルジェの姿があった。眠っている。
時計に視線を向けると、半日ほどが経過している事が判った。
(……考えてみれば、私をオルガ様の家まで運んだのも、この子なのよね)
外に助けを呼ばなければ、誰もあの家の状況など把握出来ないのだ。つまり彼には二度も助けられたという事になる。
それを望んでいたかどうかはともかく、そこにあったのは紛れもなくレナリアに対する情だ。
(独りにしないで、か)
躊躇いがちに、その頭を撫でようとして止める。
街に出ているときに、どこかの親が子供にしていた行為を思い出しての事だった。自分は一度もされた事がない愛情表現。
あんな母親に、自分は今からなれるのだろうか?
(今更、よね)
ずっと酷い事をしてきたのだ。
追い詰めて、支配して、傷つけて……
「……お母様、死なないで」
小さな寝言が、それでも耳に届いた。
どうしてこんな自分を慕うのかの理由は、レナリアにはわからない。けれど、その言葉になにも感じないなんてことも出来なくて、
「…………本当に」
止めてしまった手を動かして、レナリアは、慎重に、本当に慎重に、その頭を撫でた。
§
憑き物が落ちたというのは、きっとこういう事を言うのだろう。
あの日を境に、生活は激変した。
普通の母親というものへの挑戦が始まったのだ。手始めに料理に着手して、自分の才能の無さに絶望した。対抗馬がオルガの娘だったのが悪かったのかもしれないが、彼女は根気よく不出来なレナリアにそれを教えてくれた。
脅迫観念がない訓練の、なんと充実した事か。
自分が納得できるレベルに達し、それを披露した時の達成感を、レナリアはけして忘れないだろう。オルガは目を丸くして、クルジェは美味しいと連呼していた。
ただそれだけなのに、目頭が熱くなって、それを上手く誤魔化せなかった事が恥ずかしかった。
そうして心が落ちついてきた時期に、今後の事についてオルガと話をした。
今はオルガが防波堤になってくれているが、クルジェの置かれている立場が改善されたわけじゃない。自分がどう見られているかだってそうだ。これからも首都で暮らしていくなら相応の覚悟がいる。けれど、その覚悟を背負ってまで留まる理由は、正直あまりない。
とはいえ、地方は地方で楽というわけでもないだろう。悪評が完全に届かないわけではないし、下手をすれば同じような環境になる恐れもあるのだ。そうなったら首都の方がマシという結論になる。
(はたして、どちらがいいのか……)
その日のうちに、結論は出せなかった。
翌日、とある招待状がレナリアの元に届けられた。
それはシャルロット・ディ・グゥオンの社交界デビューを飾る、ある貴族のパーティー。
面識のない相手だったので、おそらくはグゥオン家がそれを要求したのだと思う。
理由は不明。楽観的に考えればシャルロットが不安を紛らわせるために、それなりに年の近い親戚の子供を傍に置きたいと催促したから、とかだろうか。
まあ、いずれにせよ目上の招待である。逆らうのは得策ではない。
気は重いが、仕方がないとレナリアはその誘いに乗る事にした。
§
黒髪こそ異質なシャルロット・ディ・グゥオンは、実にアステアに似た容姿をしていた。
ただ、表情においては正反対といっていいくらい自信に欠けている。異様な魔力の高さを感じさせるくせにそんな態度なのだから、なかなかに不穏というか、扱いに困る感じだった。
案の定、他の貴族たちも毒見役を待っている。
(……ちょうどいいわね)
ここで最初に踏み込んで好意的な印象を与えられれば、或いは絶縁に近かった実家との関係も修復されて、今の立場も改善できるかもしれない。
公算も多少はあった。他の連中と違って、そのアンバランスさの理由に心当たりがあったからだ。
あの両親とダノラウトはきっと、シャルロットにろくに愛情も注がなかったのだろう。ただ役割だけを求めた。
そんな彼女の中に在るのは、きっと孤独だ。この反吐の出る循環。
「あの子が、シャルロット様なの?」
「そうよ。私の妹の子供で、貴方の従妹に当たる子ね」
「僕より、不安そう」
悲しそうにクルジェが呟く。
自身に向けられている不快な意識よりも、そちらに心が向くのは、きっと彼の美徳なのだろう。
「挨拶に行くわ。……どう接するかは、貴方が決めなさい」
仲良くするに越したことはないのだから、そう言えば良かったのに、曖昧な物言いをしたのは、こちらの意図をクルジェなら読み解いてしまうと感じたからか。
我ながら、笑ってしまうくらいに子供を使う事が出来なくなったものだと思う。
「……はい」
少しだけ迷ってから、クルジェは彼女の心に寄り添う事を選んだ。
本当に、優しい子。
何故自分から生まれてきたのかが判らないくらい、この子には善性があって――
§
――雨音が、酷い頭痛を連れてきていた。
胃が、溶けているかのように痛い。
買い物帰りの事だった。シチューを作ろうと思っていた。何故かそこにいた近所の人間に絡まれて、想定していたより時間を使ってしまった事に少しイラついていたけれど、さすがにそれだけで神経が参るような精神状態ではなかったはずだ。
なにかが、おかしい。
(私は、何を畏れているの?)
判らない。判らないが、苦しくて仕方がない。
家に帰りたくない。その××をまた見るなんて耐えられない。
なのに足はまるで自分のものではないように、そこに向かっていく。遅れを取り戻すように足早になっていく。
玄関の前の立った時、全身から体温が抜け落ちたのがわかった。
窓ガラスが割られている。オルガが後ろ盾になることを示唆して以降は、一度もそんな事は起きなかったのに……。
「……クルジェ?」
震える声を漏らしながら、中に入る。
リビングが見えてきたところで、嫌な匂いが届いた。
心臓が痛い。呼吸が上手く出来ない。
息を殺してドアを開けて、そこで思考が完全に停止した。
買い物袋が手から落ちる。
真っ赤な塊が、そこにはあった。
覚束ない足取りで、引き寄せられるようにその真っ赤な塊の元に向かう最中に、ぶつん、という音がなる。
死角に潜んでいた男に右足の健を切られたのだと気付いたのは、前のめりに倒れたところでだった。痛みはほとんど感じなかった。
下卑た顔が四つ、こちらを見降ろしている。
「てめぇのクソ餓鬼の落とし前を、つけてもらわないなぁ。じっくりとよ」
言葉の意味はわからない。どうでもいい。
視線を真っ赤な××に向ける。
呼吸をしていない。魔力が体内から零れだしている。もう、手遅れだ。
それを理解した瞬間、意識が落ちた。
§
……雨の中を歩いている。
傘をさしているのに、全身が冷たい。
買い物帰り。シチューを作る予定だった。
酷く見覚えのあるシーン。進みたくないのに足早に進む身体。
そして、またそこに辿りつく。
真っ赤な××と、片足の健を切り裂かれる感触。自分を見下ろす男たち。
悪夢のような現実が何度も繰り返されている。これを夢だと認識する脳はない。
繰り返すたびに精神がすり減っていく。
次、或いは今回で磨滅するかもしれない。
いっそ、それを心の奥底は望んでいるのか、恐怖も絶望も麻痺してきた精神はただただ全てを受け入れるように、その間違った再現を受け入れて――
「――え?」
男の背後に、なにかがいた。
真っ黒な、闇そのもののような獣の怪物。
それは男の胸を爪で貫き、その肉をあっという間に腐らせていく。
あまりにも悍ましい魔法。
だが、それには酷く覚えがあった。
(――あぁ、そうか)
怪物は己だ。
あの時、内側から溢れ出た黒い黒い魔力の波動と共に、レナリアは自身の中に在った呪いの全てを殺し尽くした。常に薄めて溶かして利用してきた第二の血液を、一切歪めることなく全身に流し込んだのだ。
そして、その過程で、忌むべきものとして刷り込まれてきた『死陰』の魔法は発露した。
「――ひっ」
足から流れた血液が闇に変容し、近くにいた男の胴体に突き刺さる。
ズタズタに歪められた神経と、みるみるうちに腐りだす肉に、そいつは絶叫を上げながら絶命した。
「――っ、てめぇ!」
男の一人が腰にぶら下げていた剣を振り抜く。
その剣には血の跡がついていて――雨音に混じって、剣もろとも肉を断ち切る音が鼓膜を叩いた。
驚愕に満ちた男の死に顔を見ながら、ゆっくりと立ち上がる。
片足は動かない。得物はもっていない。何の問題もない。
掌を、距離を取った男に向ける。
漆黒の死が濁流となって、そいつの全身を死で呑みこんだ。
これであと一人。
と、そこで、連中が七人だったことに気付いた。
「……そう、ちゃんと、二匹も始末していたのね」
でも、それが出来るなら、逃げる事だって出来ただろう。この家に奪われて困るものなんて別にないのだから。
そう思ったところで、彼が自身の身体を金庫のようにして守っていたものを眼にした。
特徴的な意匠を施されたデザインナイフ。師であるオルガから賜った一品。
「こんなものを奪わせないために、貴方は戦ったの?」
確かにそれを大事にはしていた。レナリアの唯一の戦利品だったから。
過去の話だ。今は一番大事なものじゃない。
大事なものは、もう、戻らない。
「……どうして?」
最後の一匹に問う。
感情を抑えるのが大変だった。
「どうして、ここを選んだの?」
「……」
「そう、やっぱり、自分たちで決めたのではないのね」
指先から腐らせていく。
神経は残して、肉と骨が腐るところを味あわせる。
「答えなさい。出来るだけ楽に死にたいのならね」
そこから、辿り始めた。
一つ一つを暴いていって、全ての元凶をはっきりさせた。
そうして、ようやくここまで来たのだ。クリスエレスを、スロウという全ての元凶を滅ぼす、あと一歩のところまで。
「…………あぁ、いい気分ね。そうよ、この憎しみに報いるために、私は此処まで来たの」
黒い怪物は、いつの間にか姿を消していた。
あれは何かの錯覚だったのか、それとも――
「まあ、いいわ。なんにしたって、初心を思い出せてよかった。……ええ、必ず、必ず、必ず、殺してみせるから」
デザインナイフを手に取り、レナリアは歩き出す。
もう此処が何処かは判っている。
不思議なくらいに、その意識は明瞭としていた。




