第39話 泣いた後はスッキリするっていうじゃん? 恥ずかしいが勝ったのは内緒だぞ
「すぅ……すぅ……」
基礎正しい寝息が、静かな部屋に響いている。
アディが視線を横へと向ければ、マーレが近くの椅子に座り、ベッドに身体を預けて眠っていた。その目元が少し赤い。
マーレの両手は、アディの手をしっかりと握っていた。
それはまるで、何処にも行くなとでもいうマーレの意思の表れにも感じた。
全身がひどく怠くて重いと、アディは感じる。指の一本も動かす気になれない。
けれど、あれほど痛かった身体の痛みはなかった。マーレがアディに、治癒魔法をかけたのだろう。
「……」
ゆっくり息を吐いて、アディは反対側へと視線を向けた。
見渡たす限り知らない部屋だった。造りからして、寮の自室よりランクが上がっているのが分かる。
目覚める前のおぼろ気な記憶に、カリスとのやり取りがあった。血で汚したはずなのに、その汚れも見当たらない。
カリスが人目を気にせず出入り出来る場所、そういうことなのだろうと、アディはふうと息をついて結論づけた。
そうしてアディは、先ほどから見えていた剣へと意識を向ける。
マーレと反対側のベッドの上。アディに添うように置かれていた剣は、さっきのやり取りが夢ではないことを告げていた。
――カリスの側近。
『空っぽのお前に―』
耳に甦るカリスの言葉。それは確かに、アディにとって重く振りほどくことの出来ない、確かな枷だった。この手の温もりと同様に。
今からでも、身体強化と魔法を駆使すれば、アディが逃げるのは簡単だっただろう。
治療され痛みのない現在、それはさっきよりも楽に出来るはずだった。
けれど、その手の重みを振り払うことは、今のアディにはどうしても出来なかった。
――本当に、カッコ悪い。
自由な手で、アディは目元を覆う。目頭が熱くて仕方がない。あの日から泣いてばかりの自分が嫌になる。
流れる涙に、アディは唇を引き結んで嗚咽を噛み殺した。
自覚した弱さと欲した温もりが、確かにそこにあった。
――皆の好意に気づかない振りは、もう出来ない。
ずっとアディは異物で、居場所が無いと思っていた。けれど長い間、どこかで居場所をアディは求めていた。
ゲームキャラのアディウートル・クストスとしてではなく、ただのアディとして。
だって、アディにとってここは確かに、現実だったから。
始まりは、ゲームだったかもしれない。
でも、触れた熱に、向けられた言葉に、一つとして作り物じゃない重さを、本当はずっと感じていた。
――ああくそ、重てぇな。
アディにとってそれは作り物や嘘ではなく、温かな真実として確かに、その空虚な胸に刻まれたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
アディがいる部屋の扉の前、扉に背を預けたセレーヌスが静かに息をつく。
僅かに開いている扉の隙間から聞こえる、小さなアディの嗚咽に、セレーヌスは強ばっていた肩の力をようやく抜いた。
――もう、大丈夫だろう。
アディがやっと泣けたのだ。だからもう、大丈夫。
『ここは私の居場所じゃない! 私は女なの! 帰りたいの! 元の場所に帰してよ!』
リセットボタンは何処なのよ!と、幼いアディが癇癪を起こす度に叫んでいた。
アディを前にして傷ついた家族。それを見て、自分たち以上にアディ自身が傷ついた顔をして、部屋に引きこもったことも多々あった。
世話を焼けば焼くほどに、アディを追い詰めてしまい結果、アディは内外に檻を作って、誰も入れなくなったことがある。
人を寄せ付けず、寝食を取らず、ブツブツと一人言を言い続けた幼いアディ。
悩んだ末に父は、孤児院からアディと年の近い世話好きの女の子を引き取った。
今となっては専属医師のマーレだが、引き取った時は、ただの女の子だった。
――アディは、治癒魔法使いのマーレを、父が雇ったと思っているけれど。逆なんだよね。
アディの認識のズレを思い出して、セレーヌスはくすりと小さく笑って嘆息する。
孤児院で傷ついた子どもを見慣れていたマーレは、アディに寄り添った。
あれこれと構うそこに計算は全くなく、家族とは違う関わりに、アディも次第に心を開いていった。
幼いアディは、それこそマーレと姉妹のようだった。
少し経ってから、マーレに治癒魔法の適正があると気づいた。今後も変わることなく、アディの心身を支えられるようにと教養を身につけさせて、今にいたるのだった。
年齢と共に落ち着いたアディでも、ふとした時に危うさが覗いていた。
学園入学後、初めての人付き合いに戸惑ったせいだろう。
けれど、セレーヌスやマーレでは近すぎて見守ることがやっとだった。
――意表を突くのは、いい考えだけども。
まさか、部屋をぶっ壊そうと作戦を立てるとは、カリス達も発想が子どもだなとセレーヌスは思う。
気を失ったアディを抱えセレーヌスが通されたのは、本来なら立ち入れない最上階の部屋。
寮の最上階の部屋は、王族や公爵家のプライベートが守られるように、それぞれが完全な防音、盗聴不可の造りになっている。扉を閉めれば、中の様子が全く分からないほどだ。
カリスがアディの治療の一切を止めさせ、誰も入ってくるなと人払いを厳命した。
歯痒くもマーレと二人、カリスが出てくるのを、セレーヌスはただ待った。
『殿下! 弟に何をしたんですか!』
『騒ぐな、セレーヌス。死んでない。話はついた。マーレだっかい? 治療を頼んだよ』
しばらくして、血まみれのカリスが部屋から出てきた。
その時はさすがに、セレーヌスは選択肢を間違えたかと、身分を捨ててカリスに詰めよったのだった。
それをカリスは不敬と罰することもなく、やや疲労を滲ませて笑い、ふと告げたのだった。
『お前の弟は、泣き虫だな』
何を言われたのか、セレーヌスは一瞬分からなかった。アディはずっと、人前で泣かない子どもだった。
だからセレーヌスは、アディが泣いたのだと遅れて理解する。
その相手が殿下というのは、侯爵家としては複雑だが、兄セレーヌスとしては、ようやく安心することが出来たのだった。




