8
行き倒れ同然で、たまたま居合わせた酒場のマスターに拾われたエリザ。
同じ年頃の子より高い身長をいかして、年齢をごまかしそのまま働くこととなった。
最初は奥の洗い場にいたが、ある日食器を洗いながら口ずさんでいた歌声をマスターに聞かれてしまう。
マスターの思いつきで店内で歌を披露することになった彼女は、たちまちのうちに人気の歌姫となっていった。
その歌声に惚れ込んだ熱心なファンの口利きで、ある舞台のオーディションを受けることになる。
見事主演女優の座を射止めたエリザは、酒場の歌姫から女優へと華麗なる転身を遂げた。
彼女が初主演した舞台は大当たりをし、第二、第三の芝居も大成功を収めると、今や都では知る人はいないという押しも押されぬ人気女優となったのだ。
「さすが、元銀行家。私のような者のことまでよくご存知ね」
エリザの挑発めいた皮肉をジャックは軽く受け流した。
「誰でも知ってるだろ、君は有名人だから」
「そうかしら? この村の人は誰も気づかなかったわ」
ジャックは鼻で笑って寂れた自らの館を振り仰いだ。
「それは君が、こんな辺鄙な所にまで興行に来ることがなかったからじゃないか。君は一流劇場の看板女優なんだ。都では有名人の一人だと思うが?」
エリザはジャックの汚れた全身を、じろじろと遠慮なく眺め回す。
「あなたは随分と……」
相手は臆する様子もなく、それを平然と受け止めていた。
「変わった暮らしをしているようね。一時は時代の寵児とまで言われた、飛ぶ鳥を落とす勢いだった銀行家アトキンスが」
「……昔の話だ」
ジャックは苦い笑みを口元に張り付け、汗に濡れた額をシャツの裾をまくり上げて拭った。
突然表れた素肌に慌てるエリザを見て、彼はからかうように笑う。
「これはすまない。レディの前で」
エリザはカッと怒りにかられ、笑う男に食ってかかった。悔しいことに彼女は、顔が赤らむのを意識せずにはいられなかったのだ。
「お気遣いは結構よ! 男の裸なんて見飽きてるわ」
エリザは女優である。
舞台の早着替えのため、肌を晒す男優達を何度も見てきた。その度に驚いたのも最初の数回ぐらいで、もう慣れてしまって何の感情も生まれない。今や当のエリザでさえ、彼らの前で素肌を見せることに抵抗はないのだから。
だから、今更初な小娘のように、ジャックの肌をかいま見たぐらいで動揺したりする訳がない。今激しく鳴っているこの動悸も理由は他にある筈だ。
「そうか……」
ジャックは表情を消してつまらなさそうに横を向くと歩き始める。エリザもハッと我に返りすぐにあとを追いかけた。
「ど、どこへ行くの? 私は話があって」
「そこ、気をつけてくれ。種を撒いたばかりなんだ。高いヒールで荒らさないでほしい」
「わ、分かってるわよ」
庭の隅にある井戸の前でジャックは立ち止まり、汚れた手や顔を洗い始めた。その態度は酷く荒っぽくて投げやりで、エリザは自らを奮い立たせて声をかけるしかなかった。
「どうやら……、この屋敷だけは手元に残ったみたいね。あなたに忠実だったあの番犬はどうしたの? あの、生真面目な執事さんはお元気かしら?」
「何年前の話だ。とっくにいない」
ジャックが濡れた顔をそのままに振り向いた。
前髪から滴り落ちる水滴の向こう、仄暗く翳る瞳が見える。エリザは開きかけた唇を閉じて息を飲み込んだ。ジャックの眼差しには、有無を言わせぬ何かが込められていたからだ。
「君はどうも俺の状況に詳しいようだ。今の俺は破産も同然の身の上だよ、見た目通りにね。当然使用人を雇える訳がない。ここにいるのは俺一人。残念だがこのまま居座られても茶の一杯も出してはやれない。何の用だが知らないが、美しいご婦人が長居をする場所じゃないよ、ここは」
「わ、私は……」
「それともあれか? 君はわざわざ落ちぶれた俺を見に来たのか?」
口籠るエリザにジャックは乾いた笑みを送った。彼はおどけた道化師のようにわざとらしいポーズを取り、彼女に向き直った。
「そうか、そうだよな。あの日君は酷く俺を恨んだんだからな。純粋な君の心を弄んで踏みにじった。悪い奴だ。傷ついて放心状態だった君を仲間達と笑って馬鹿にした。最悪の男だよ。恨むのも無理はない。つまりだ、君は復讐に来たんだろう? 美しく成功した姿で現れ、汚らしく薄汚れた俺にとどめを刺しにやって来たんだ。良かったな、わざわざ来た甲斐があったな。そうだよ、このザマだよ、今の俺はーー」
「あなたは笑ってなんかなかった!」
エリザは高い声を出して、長々と続く彼の自虐的な演説を遮った。
「何?」
気のせいかジャックの顔から、ふざけたピエロの表情が消えてしまっている。
エリザは興奮して荒くなった呼吸を整えた。
「聞こえなかった? あなたはあの時笑ってなんかなかったと言ったの」
彼女は大きく息をつくと、昔を思い出すように目を閉じた。
「それどころか……、周りの男の子達の陰に隠れて泣きそうな顔をしてたわ」
絶句するジャックが、息をするのも忘れたかのように呆然と突っ立っている。エリザは目を開けて、彼を正面から真直ぐ見返した。
「あなたが言うように初めは私もあなたを恨んでた。あなたやこの村の人間を見返したい、そればかり考えて毎日を過ごしてた。そうじゃなきゃ、一人で生きていけなかったから。強い心がなくちゃ私のような子供は生き抜けなかったの」
祖父や祖母との別れは、エリザを文字通り一人ぼっちにしたのだ。
村の中に彼女の保護者を引き受けてくれる人はいなかった。彼女の孤独に寄り添ってくれた教師でさえ、そこまでの情は持ち合わせてはなかったのである。
そんなエリザが生きていくには強靭な意志が必要だった。
それなのにいつの頃からか、彼女は過去を振り返る時憎しみとは違う気持ちを覚えるようになった。
いつからか、村での生活を懐かしむ気持ちすら湧いてくるようになっていた。
「私は幸せだったわ。村を出てから素晴らしい幸運に恵まれた。知ってる? 私がまだ酒場で歌を歌っていた頃、凄く熱心なファンが出来て、その方に随分色々と援助をしてもらったの。女優への足がかりも、全てはその方の声かけのおかげだった」
ジャックが前髪をかき上げ顔を歪めて笑う。
「そいつは初耳だね。おおかたそのファンとやらは君に対して下心でもあったんだろ?」
「そんなことないわ。だって私には一度も会ってくれなかったんだもの。どんなにお会いしたいとお願いしても、結局ははぐらかされてばかりだった。彼はね、いつだって陰からずっと応援してくれていたのよ」
エリザが反論するとジャックは再び黙り込む。
彼女は構わず続けた。
「私は彼からたくさんの贈り物を貰ったの。最初は女優としての一歩よ。彼は私には秘密にしていたけど、私の初演作の脚本を書いたのは彼だったの。私達は素晴らしいチームだったと思うわ。私と彼、H・S・ローリングはヒット作を何作も連発したんだから。でもね、私が彼から貰った一番の宝物はこれよ」
エリザは胸元から小さなネックレスを取り出した。
ずっと、ずっと肌身離さず身につけていた、彼女に勇気をくれる一番のお気に入りを。
こちらの手元をじっと見つめるジャックに見えるよう、彼女はネックレスのトップを揺らした。
「白詰草の四つ葉を型どったデザインなの。かわいいでしょ?」
エリザがネックレスを翳すと、太陽を弾いてキラキラと輝くそれをジャックは目を細めて見つめていた。
「彼は私が一番好きなものを知っていた。子供の頃、どんなにこの植物に慰められたかを知っていた。どんなに高価な贈り物より、嬉しいものを知っていた。ねえ、ジャック・アトキンスーー」
エリザは込み上げてくる涙を堪えつつ微笑んだ。
「あなたなんでしょう? ずっと私を支えてきてくれたあの人は」
穏やかな笑顔のエリザに対し、ジャックは酷く青ざめて狼狽える。
まるで魂が抜けたかのように、ぼんやりとネックレスに見とれていたくせに、彼女の話に耳を貸すと呪われるとでも言いたげに慌て出した。
「な、なんで俺が……」
男は見つめ続けるエリザを避けるよう顔を背けた。無精髭がうっすらと浮かんだ顎が小刻みに震えている。
「き、君は、おかしいんじゃないのか? いきなりやって来て訳の分からん話をしてさ。だいたい俺は親父や兄貴達のあとを継いで、一時は都に住んでいたから、確かに君のことは常識の範囲として知っていた。知ってはいたがそれだけだ。はっきり言って芝居なんて興味もないから観たこともないし、ましてや脚本なんて書くわけもない。頼むから俺をからかうのはやめてくれ」
「H・S・ローリング」
「はっ?」
「私の作品を書いてくれた脚本家よ」
「それがどうした」
「あなた、とんでもない間抜けさんね。ペンネームにヒントを隠してるんだから」
「ヒント?」
「そうよ。それに気づいた時、霧が晴れるように全ての謎が解けたのよ。私を支えてくれていたファンの正体に。ねえ、学校に通っていた頃、アーデルヘイトの物語を復活祭で上演したこと覚えてるでしょ? あのお芝居を書いた人は、思想家ヤングの子供時代のペンネームを使ってた。H・S・ローリングのH・Sはそのペンネーム、ハーリー・スミスの頭文字よ。先生は自分が書いた脚本だと言ってたけど本当は違ってた。ハーリー・スミスと白詰草。どちらも私の思い出と繋がる。これらの偶然がぴったりとはまるのは、私の周りにはあなたしかいなかった」
「き、君は勘違いしている。何故、俺だけだと……?」
「子供の頃、学校の帰りに道草をしていて、一人でいるあなたをよく見かけたわ。あなたは人目を避けるように何か一人で黙々としていた。あの時、もしかしたらあなたはシナリオを書いていたんじゃない? それであなたも、泣きながら四つ葉を探す私をこっそりと見ていたんじゃないの?」
「…………」
「あの復活祭の日、あなたは本当は私を待っていてくれてたんじゃないかしら? だけど子分のように慕ってくる級友達に見つかって、あなたを王のように崇めるあの子達を前に本当のことが言えなくなった」
「いい加減にしてくれ……」
「あなたがどんな経緯で酒場で歌う私を見つけてくれたかは分からない。だけど私があなたにどれだけ支えられてきたか……、どれだけ幸せになれたか……、それだけは信じて欲しいの」
「俺は……」
「だから、今度は私があなたを支える番だわ。苦しんでいるあなたを見捨ててはいられないの。私はここに、あなたに会いに来たのよ!」
エリザの悲痛な叫びに、やっとジャックは覚悟を決めたかのように天を仰いだ。
「俺は……」
彼は力が抜けたようにその場にふらふらと膝をつく。
「あの日君を見つけたんだ」
それから押し出すように小さな声を絞り出した。同じ目線に屈むエリザに躊躇いがちな視線を向けてくる。
「あの日?」
「ああ、君が下町の小さな酒場でまだ歌を歌っていた頃のことだよ。親父が病に倒れ、兄貴達が揃って事故やトラブルに見舞われ、全く重要視されてなかった俺が、突如として経営者として担ぎ出された頃の話だ」
「あの店に来てたの?」
彼はこくりと頷いた。
エリザの胸に、酒場で歌う自分を遠くから窺うジャックの姿が浮かぶ。
「色々とストレスを抱えててさ、現実から逃亡するようにふらりと入った店だった。まさか、こんな所で再会出来るなんて、自分の目が信じられなかったよ。君は相変わらず光り輝いていた」
「相変わらず?」
ジャックはハッとしたように顔を背ける。
「意地が悪いな。俺の気持ちなどお見通しだろ?」
「そう思ってた頃もあったけど……」
ジャックは言葉に詰まり、「すまない」と苦しげに呻いた。
「君を見つけたあとは、なんとかして償いたいと思うばかりだった。ファンを装い援助を申し出た。古い劇場を買取り新しく劇団を立ち上げ、こっそりと脚本で参加し、オーナーの権限で君を主役に添えた。君はコネ入団とは思えない素晴らしい演技をして、一躍人気女優に躍り出た。俺の私情から始まった劇場経営だったが、君というスターのお陰で大成功していた」
「あなたの脚本もよかったわ。それに経営の手腕もさすがだった」
「そうかな? 調子に乗って本業を疎かにしたからこのザマだ。兄貴達と同じように足元を救われ、祖父の代から続いた頭取の座を手放してしまったんだぜ。おまけに劇場の方も人手に渡った」
ジャックはかすれた声で自虐的に笑う。
「あまりに冴えなくて合わせる顔がない」
エリザはまるで人生を諦めたかのような男を、覗き込むように見上げた。
「償いだけだったの?」
「は、何が?」
「だから、私を女優にしてくれたのは償いの気持ちだけだった?」
「な、にを……」
「質問が間違ってたわ。あなたは私を愛してて、それから同じようにお芝居も愛してた。そうでしょ?」
呆気にとられるジャックの手を取り、エリザは強引に彼を立ち上がらせる。
「ジャック・アトキンス。いいえ、H・S・ローリング。あなたにビジネスの話があるの。この国一番の売れっ子女優が次の舞台の台本を探してるわ。どう? 一緒にもう一花咲かせてみない?」
「エリザ……、だが俺は……」
「拒否権はないわ。今のあなたは私に雇われる身よ。売れてる私が指名してるの。断るなんて馬鹿がすることよ」
「だが……」
「いい加減にして!」
エリザはジャックに抱きついた。
抑えようとしても体が震えるのを止められない。強気な『男女 』の仮面が、とうとう剥がれ落ちてしまうのをさらけ出すしかすべはなかった。
エリザは彼女を受け止めながら肩を抱いてもくれない男を、汚れたシャツが覆う硬い胸を叩いてなじった。
「いいこと? 私があなたを欲しているの! あなたの書いた本が必要なの! あなたがいてくれないと女優としても、ただのエリザとしてもどうしようもないの!」
「エリ……ザ……」
「責任取って……。お願いだから……断らないで……側にいて……」
泣きながら揺らしていた背中が力強い腕に包まれる。エリザの体は大きな男の胸の中にすっぽりと収まっていた。
震える肩を抱きしめるのは、同じく震える逞しい腕。
「本……当にいいの……か?」
途切れがちな声が不安げに聞いてくる。
「俺が君の側に、本当にいても……いい……のか」
エリザは夢中で叫んだ。
「いいって言ってるじゃない、さっきから。むしろ、ずっといてってお願いしてるじゃない……」
エリザを閉じ込めるジャックの腕に更に力が込められた。息も出来ないほどの圧迫感に、飢えていた心が喜びで満たされていくのを彼女は感じる。
やっと会えたのだとーー。
「悪かった、ずっと……ずっと側にいさせてくれ……」
「絶対よ……、どこにも行かないって約束して」
「約束する……ずっと側にいる……」
すれ違っていた年月を埋め合うかのような熱い抱擁は、優しい故郷の景色が静かに見守る中、いつまでも、まるで永遠の時を刻むかのように続いていた。
後に、女優エリザベス・ドーソンと脚本家H・S・ローリングのコンビは、この国の芸能史を変えたと言われることとなる。
二人はローリングの生まれ育った古い田舎の居城に小さな劇場を開き、普段都に観劇になど来れない村人のために、無料で芝居を披露する活動を始めた。
その舞台はどんなに忙しかろうと仕事が密にあろうと、年に一度は必ずスケジュールを空けて上演されていたと言う。
エリザベス・ドーソンとその夫H・S・ローリングの素直じゃない恋物語は、彼女達の没後孫娘シンディ・ローリングのプロデュースにより舞台化され、大ロングランの記録を作ってしばらく破られることはなかった。